第十六幕 告白 ②
「根本さん、白血球が尋常でなく増えています。ただの貧血や風邪ではないかもしれません。喉の出血もあり、専門の病院で……」
救急外来の担当医師から聞かされてくる。僕は信じられなかった。まさか優奈が白血病だなんて。さらに、精密な検査を続ければ、詳しいことが分かるという。
けれど、僕も医者だ。喉の出血が止まらないと聞けば、ただならない病気の兆候だと一瞬で分かった。
「ご案内のとおり、転院させてください」
すぐに自分の所属する大学病院へ移すことにする。自分の後輩たちに連絡をとり、白血病の臨床医として国内でトップクラスのチームを編成して任せることにした。
なぜなら、自分の研究や論文が優奈の病気と何か関係があるかもしれないと思ったからだ。
「じいじ。優奈、痛くても頑張る」
孫娘はひと言も愚痴などこぼさない。幼く痛々しい姿を見れば見るほど、愛おしくなってしまう。見ず知らずの病室でウサギのぬいぐるみと戯れて、無邪気に笑みを浮かべるように振る舞っていた。
ところが、転院先で行われた血液および骨髄の検査結果は芳しくなかった。なんと驚くことに、急性リンパ性白血病が疑われるという。
さっそく、長期入院の手続きをして、がんの薬剤治療を始めないといけない。症状の進行度合いにより、大人でも苦しい放射線治療も必要となるのは分かっていた。
少しだけ専門的な話となるが、この白血病はリンパ球になる前の細胞に異常が起こり、がん化した細胞(白血病細胞)が骨髄で無制限に増える病気である。何が原因で細胞が突然変異したのか、今の医学では解明されていない。
突然告知される診断結果には、ひとりの人間として怖れおののいてしまう。でも、医者の立場になれば、医学の急速な進歩により、現代では不治の病に該当しないと理解していた。
「絶対に治るから大丈夫だ」
病室で泣き暮らす妻と娘、心配そうに見守る娘の主人にはそう話した。無理もないが、娘は一睡もしないで、自分の子どもから離れない日々が続いている。
万が一変な噂を聞きつける世間の人々から謗りを受けたとしても、どんなに医療費がかかろうとも孫を治してやりたい。
ところが、なぜかこんなときに自分が発表したばかりの学術論文を思い出してしまう。内容は遠く離れる熱帯地域の国で発症した白血病が鳥インフルエンザとの関係性を疑われるというものであった。
もし、この症例の場合は従来の治療法で対処できなくなり、造血幹細胞移植のドナー探しが急務となってしまう。
しかも、仮に申し出を受けたとしても、不適合のケースが多くなることが予測されていた。園長の話がどうしても気になり、頭から離れない。
前述したけれど、我が国でも鳥インフルエンザはこのところ猛威を振っているが、これまで他の生き物に転移した実例はキタキツネなどを除いて見当たらない。まして、人間に感染する症例は皆無である。
しかし、過去には狂犬病やオウム病などがあり、新型コロナもコウモリのウイルスが突然変異した可能性が指摘されている。
人間に転移した可能性があるとしたら、空想の物語だと決めつけるのは危険だ。すぐに知り合いの人脈を頼って、保育園の鳥小屋からウイルス検査を依頼した。僕は自分の論文や仮説が優奈の病気と何か関係があるかもしれないと思ったからだ。
優奈には現代医学の最先端治療が施されているが、彼女の状態は一進一退を繰り返している。まだ幼い彼女にとって、咳ひとつでさえ喉に炎症を引き起こし、出血する恐れがあり、症状が悪化するリスクを伴う。
また、白血球の数値も心電図の波のように日々変動しており、その度に希望と不安が入り混じる。
暫しすると、危惧した通りの連絡が入ってくる。声の主は前回と同じ園長である。
「ウイルスが発見され、保健所の指導で鳥小屋は閉鎖しました。ウサギには異常がないですけど、他の所で隔離中です」
もしかすると、ウイルスが突然変異を起こしニワトリから亡くなったウサギに転移し、恐ろしいことに優奈の骨髄細胞にも影響を与えたのかもしれない。
そうなれば、現在進めている方法では治療が困難になってしまう。早急にリンパ球の変異状態を調べた上で、適合となる造血幹細胞の移植をしなければ命とりになる。
もうこれ以上他人任せにはできない。何が何でも孫を助けなければならない。
これまでは医学の研究を通じて、目の前にいるひとりの命を救えなくとも、未来永劫にわたり多くの人々の命を救えれば良いと思ってきた。しかし、今は違う。目の前の優奈の命を救いたいのだ。
身勝手な禁じ手と知りながらも、自ら治療チームに加わり、あらゆる手段を講じてドナー探しにも全力を尽くす決意を固めた。
別の側面では、万が一人々への転移の可能性があるとすれば、マスコミに漏れれば社会がパニックになることは容易に想像できる。学術論文とは異なり、身近で起きたニュースには世間がより過激に反応するものだ。
優奈の祖父として、また医学者としての立場から、複雑な心境に苛まれていた。
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