第二幕 星に願いを


 あれから五度目の梅雨を迎えようとしている。もうすぐ七夕だ。中国の古い習わしである陰陽五行に従って、色鮮やかな短冊に願い事を書いて、自分の想いを牽牛星と織姫星に託す日がやってくる。


 俺と薫の願い事は、この五年間ずっと同じで、ふたつに決まっている。ひとつ目は彼女の病気が早く治りますように。ふたつ目は俺たちの恋が永遠に続きますように。縁結びの神さまから若い二人の『じれったい恋』と言われても、時おりざわめきの風が心を通り過ぎる。


 夏至から十一日目の七月二日頃から七夕までの五日間に降る大雨は、梅雨の晴れ間に現れる珍しい現象で、地方によっては「半夏雨」と呼ばれることがある。毎年この期間に、俺たちは縁起の良い日を選び、近所の神社に参拝する。


 ふたりで願いごとを書き終わると、神主さんから習った魔除けの意味合いで五色の糸を使って、風雨から破られないようにしっかりと笹に結び付ける。


 神々などは信じていないと強がりすら言っていたが、薫に出合ってから困った時はつい神頼みをしたり、習わしに従ったり、縁起担ぎをしてしまう。


 気がつけば、俺は医科大の三年に在籍する一方で、薫は文学部一年の女子大生となっている。彼女は慢性骨髄性白血病と闘いながらも、学生生活を送っている。安定期ではあるものの、病気の不確かさは常に俺たちの心に影を落としている。でも、彼女はいつも強く、決して他人に弱みを見せることはない。



 今朝、母さんはたこ焼きを作ってくれた。彼女は関西の農家出身なので、日本の旧暦に基づく節句をよく口にしている。田植えは半夏生に入る前に終わらせるものとされ、たこを食べると梅雨が明けるという習わしがあると教えてくれた。


 やはり、今日は久しぶりに夏空が青く澄んでおり、真っ白な入道雲がわき立っている。まるでこれまでの憂さを晴らすかのようだ。


 このところ鬱陶しい日が続いたので、優しい光が舞い込む木洩れ日の届く公園に彼女を連れ出したいと思っている。一刻も早くコスモスの花を見つけては、ふうっと息を吹き込んで静かに吸い込みたい。とても甘い香りがするはずだ。


「薫、天気が良いし行ってみようか」


 気がつくと、薫と毎日会っている。定期検診で異常はなかったけれど、出血を伴う咳き込みが心配である。一番怖いのは、何らかの病気により白血球の異常増加を生じさせることだ。先行きに不安ばかりが募って、一緒にいないと落ち着かない。


「ねぇ、フリマのこと?」


 彼女は俺の気持ちをすぐに察してくれた。


「ああ……」


 昨夜、大学から帰る途中で親水公園でフリーマーケットが開催されるという案内板を見つけて、彼女と一緒に行きたくなった。


「勇希はいつも古本探しだよね」


「そうだよ。宝物探しだからさ」


 古本は、宝物が詰まった心の方舟。ページをめくるたびに、かつての読者が残した心のこもったメッセージを見つけると、胸が温かくなる。栞に添えられた「すてきな文章ですから……」というひとことが、時を超えて僕に語りかけてくる。読み古した本の中から、時折、埋もれた名作を探し歩くのも、沈没船に眠る財宝探しのようでわくわくする。


「ふうん。何か怪しげなミステリーとか? それとも、授業で使う医学書?」


「違うけど、近いかな。専門書じゃなくて、体内時計に関する本を探してるんだ」


 最近覚えたばかりの言葉で答えてみた。


 彼女は首を傾げて、かわいい笑顔で俺を見てくる。たまには少し知ったかぶりをしてしまうけど、彼女はいつもそんな俺を温かく見守ってくれる。皆の前で恥をかくこともあるけれど、そんな時でも彼女はさりげなくフォローしてくれる。


「へえ、すごいね。でも、頭が良くても勉強しなきゃ落第するよ。勇希が通う医学部って厳しいんでしょう?」


 今日の薫は、黒のベレー帽と真っ白なシャツ、灰色のミニスカートで、彼女らしいセンスが際立っている。それでいて、彼女の真の美しさはその強さと優しさにある。心配を忘れて、彼女との貴重な時間を心ゆくまで楽しみたい。


「おまえ、寒くないのか? その格好、まるでカラス天狗みたいだな」


 俺はあえて軽く冗談を言ってみる。薫の姿には、烏柄杓の花のような凛とした美しさがあり、そのファッションは彼女によく似合っている。


「勇希、ひどいよ。私だって女の子なんだから、ちょっとは褒めてよ」


 薫はクスクスと笑いながら応じる。彼女の言葉には、カラスが神様の使いとされる神秘的な魅力が宿っている。


「ごめん、ごめん。本当はすごく似合ってると思ってるんだよ」


 俺は素直に褒め言葉を返す。薫のシックなモノトーンのファッションは彼女の個性を際立たせている。彼女のそばにいるだけで、俺の心は温かさで満たされる。


 父親は開業医だった。診療所から聞こえてくる子どもたちの笑い声は、俺の心に深く響いている。小児科医を目指す道のりは険しいが、その一歩一歩が未来への希望を育む種となる。


 大学の先輩たちからは、途中で挫折する者も多いと聞かされ、その言葉の重みを感じる。しかし、子どもたちの無邪気な笑顔は、俺の不安を吹き飛ばし、勇気を与えてくれる。


 彼らの健やかな成長を見守ることができるなら、どんな試練も乗り越えられるだろう。そう、子どもたちの命を救うという強い願いこそが、俺の進むべき道を照らす光なのだ。

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