十和里山伝説「無償の愛と時計の謎」
神崎 小太郎
第一幕 半夏生の闇
時を巻き戻せる力があればと、心から願う瞬間がある。そんな思いを胸に秘めながら、梅雨の晴れ間に差し込む光を眺めた。
このところ、冷たい風が心に突き刺さるように、悲しみから押しつぶされそうな日々が続いている。
夏の日差しは頭上に降りそそぎ、心の中は冬の樹氷に閉ざされたように凍りつく。しかし、今日だけは、日輪の神さまが微笑んでくれたのか、久しぶりに青空が顔を覗かせ、小さな夏物語の光景が広がっていた。
それは、半夏生による日だまりの戯れ。盛夏のギラギラと照りつける光ではなく、白い花弁と紫色の茎がちらりと覗かせる奥ゆかしい輝きを届けてくれる。
俺の名前は沢渡勇希(さわたりゆうき)。今年で20歳になる東京の大学生だ。まだ人生の喜びも悲しみも深くは知らないけど、薫のことが心配でならない。彼女を想うと、涙が止まらないこともある。そんな時、爽やかな風が吹くと、少し救われる気がする。
祖父の言葉が、人生の岐路に立つたびに俺を助けてきた。
「男の幸せは、若いうちに良き妻をめとることや。涙なんか見せてはいかん。泣きごとを言うな。そんな暇があるなら、いばらの道であったとしても、愛する女とまっしぐらに突き進め」
祖父は母方の父で、俺の名付け親。彼からもらった名前が立派すぎて、少しだけ劣等感を抱いてしまう。助けられたばかりで勇気もなく、宝の持ち腐れだ。祖父に恩返しをしたいと思ったが、もう永遠に会えなかった。
俺の心にいつも浮かぶのは、小日向薫(こひゅうがかおる)の愛らしい姿だ。彼女はその名の通り、温かな日差しを思わせる明るい笑顔を持っている。俺より二年後輩で、中学生の頃から親たちの黙認のもと、五年間にわたり付き合っていた。
薫と初めて出会った頃、寺の境内でひっそりと咲く半夏生の花を一緒に眺めながら交わした言葉が、今でも俺の記憶に鮮やかに残っている。
「ねえ、聞いてくれる。この花、薬にもなるけど毒を降らせる花と言われてるの」
その思いがけない問いかけに、俺は驚きを隠せなかった。
「えっ、本当に?」
「うん、母さんがそう言ってたの。半分だけ毒があるなんて、不思議だよね」
薫の声にはいつもの明るさがあったが、どこか遠くを見つめるような淡い寂しさも感じられた。
「毒を持ってるのか?」
「うん、たぶん心の中にね。カラスビシャクとも言われてるそうや。生気溢れる雑草だけど、半分お化粧した姿が可愛いやろ。私もあんな美しい花になりたいなあ……」
彼女の言葉にはいつもの冗談めかした軽やかな響きがあったけれど、その瞳は真剣そのものだった。
「おい、触るな。かぶれたらどうする」
俺の心配する声に、薫は優しく微笑んだ。
「大丈夫や。勇希が傍に居てくれるなら」
「どうして、悲しい話ばかりするのや」
「だって、私の身体には半分黒い血が流れてるんだよ。命は神さまから授かったものだから、もう変えられないけれど……」
彼女の言葉を聞いた時、俺の胸は痛みでいっぱいになった。その言葉は、若い女性らしい紫陽花や薔薇の華やかさとは異なり、健気でミステリアスだった。天然でありながら理解しがたい魅力があり、そのギャップが彼女を一層愛らしくしていた。
薫の言葉は、彼女の内面の複雑さを映し出していた。半夏生の花のように、美しさと危険性を併せ持つふたつの顔を覗かせる心。薫は、自分の存在が世界にどのような影響を与えるのか、常に考えている。
俺は、そんな彼女の側面に惹かれている。薫の不思議な魅力は、俺の心を捉えて離さない。言葉では表せないほどの強い絆がふたりの間には生まれている。彼女の悲しい話にも耳を傾け、その心の中にある「毒」を理解しようと努めている。
俺たちは、寺の境内で狐の蝋燭のように茎を伸ばして咲く花を見つめながら、互いの心の中にある美しさと痛みを共有していた。俺らの会話は、周囲の景色や時間の流れを忘れさせるほど、心に響くものだった。ふたりの存在が互いの人生にとってどれほど大切なものかを、静かに確認し合っていた。
しかし、日輪の神さまは俺の心を凍らすほど、冷たい存在だった。数日後に、不吉な知らせが届いた。俺がこよなく愛する薫は水泳の練習中に突然倒れたのだ。足がつったわけでも溺れたわけでもない。プールに飛び込む瞬間、息苦しさとめまいに襲われて意識を失ったのだ。
そのトラブルは、俺にも予想できない出来事だった。周囲の人々は血を吐く薫の姿に驚愕し、群がっていた。
俺は慌てて薫のもとに駆け寄り、「何をじろじろ見てるんだ!」と声を荒げた。すぐにタオルをかけて人目から遠ざけ、日陰のベンチに寝かせた。
「薫、大丈夫か。目を開けてくれ」と俺は必死に呼びかけた。急いで救急車を呼び、他の部員にも手伝ってもらい、病院へと連れて行った。
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