─19─漠然とした不安

 練兵場にたどり着いたものの、珍しくミレダの姿がない。

 どうやら今日は殿下をお待たせせずに済んだようだ。

 ほっと安堵の胸をなで下ろすと、ユノーはすらりと剣を抜き、決められた型を一つずつさらっていく。

 最後の一つまでやり終えた時、彼の耳に拍手の音が飛び込んで来た。


「お見事でした。さすがは司令官殿だ」


 賛美の言葉と共に現れたのは他でもない、愚昧公ことフリッツ公だった。

 あわててユノーは剣を収め、その場にひざまずく。


「お恥ずかしいところをお見せして申し訳ございません。にもかかわらずお褒めの言葉をいただき……」


 が、フリッツ公はその手をひらひらと振って、ユノーの言葉をさえぎった。


「私にそこまでかしこまることはありませんよ。何せ私は愚昧公ですから」


 悪びれもせず自らの二つ名を言ってのけるフリッツ公に、ユノーは言葉を失う。

 しかしフリッツ公は人好きのする笑顔を浮かべ、ユノーを見つめるのみだ。

 この人は一体。

 とらえどころの無いフリッツ公に困惑するユノー。

 それを気にするでもなく、フリッツ公はおもむろに切り出した。


「実は貴方に渡したい物があって来たんです。……殿下が居られなくて良かった」


 果たしてどこまでが本気なのだろう。

 測りかねて内心首をかしげるユノーの前に、フリッツ公は一冊の本を差し出した。

 戸惑いながらも受け取るユノー。

 果たしてそれは、初歩の兵法書だった。

 芸術に傾倒しているというフリッツ公が、どうしてこんな物を。

 驚いてユノーは公爵を見つめる。

 その視線を受け止めて、公爵はわずかに目を伏せた。


「先日屋敷の書庫を整理していたら出てきたんです。私には無縁な物ですから」


 その言葉を受けて、ユノーは手にした本と公爵を代わる代わる見つめる。

 いつしか公爵の顔には、件の微笑みが戻っていた。


「ならば、役に立てていただける人の手にあった方がいい。そうは思いませんか?」


 確かにユノーは基本的な軍事訓練を受けていない。

 もちろん戦略や戦術といった事も学んだことはない。

 目先の武術にばかり気を取られていたが、これも一軍を率いる上では必要不可欠なものである。

 ユノーは本を抱え込むと、公爵に向かい深々と頭を垂れた。


「ありがとうございます……。なんとお礼を申し上げたら良いか……」


「とんでもない。むしろ遅すぎたくらいです。……間に合えば良いのですが」


「……はい?」


 聞きとがめて、ユノーは反射的に首をかしげる。

 と、公爵の顔に言い難い表情が浮かんで消えた。

 何事かと瞬くユノーに向かい、公爵は手招きをする。

 やんごとない血を引く人物のそばに立つという不敬に気がひけたが、知りたいという好奇心のほうが勝った。

 ユノーは失礼しますと一礼し公爵に向かって歩み寄ると、フリッツ公は長身を僅かにかがめユノーに耳打ちした。


「……宮中にきな臭い動きがあります。例えば……」


 言いながら公爵は懐から何かを取り出して、ユノーに示す。

 それは皇帝の署名が入った直々の指名手配書で、そこに描かれている人物は紛れもなく……。


「……司令官閣下?」


 言ってしまってから、ユノーはあわてて口をつぐむ。

 そう、神官の姿で描かれていたが、その似顔絵はかつてのユノーの上官に間違いない。

 一方フリッツ公は、くれぐれも殿下にはご内密に、と念を押してから、それを再び懐へしまった。


「……どうして、こんなことになったのですか?」


 思わずユノーはフリッツ公に問いかけるが、問われた側は困ったように肩をすくめ、いつになく真面目な口調でこう言った


「出る杭は打たれるんですよ。悲しいことですが」


 その言葉は、あの人のことだけを指すのではなく、何か重要なことを暗示しているようでもあった。

 ユノーははっとしたように公爵の顔を見やる。

 けれどフリッツ公はとらえどころの無い笑みを浮かべるのみで、それ以上は語ろうとしない。

 くれぐれもこのことは他言無用です、と再び念を押してからフリッツ公は踵を返す。

 そして、去り際にふと思い立ったようにつぶやいた。


「それにしても妙ですね。国家転覆を図った人物の手配書という重要な命令にも関わらず、陛下の署名のみで印璽いんじされていないとは」


 一体どういう意味なのか。

 果たしてフリッツ公は、先程から自分に何を伝えようとしているのだろうか。

 それを問おうとして、声を上げようとした

時だった。


「何だ、今日はずいぶんと早いな。やればできるじゃないか」


 背後からミレダの声がする。

 そうこうするうちにフリッツ公の姿は、ユノーの視界から消えていた。

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