─9─愚昧公
背後から声を受けて、ユノーは目の前に立つ人をまじまじと見つめる。
そして、ようやくある人物のことを思い出した。
皇帝姉妹と従兄弟の関係にある人物、フリッツ公イディオット。
やんごとない血を引いているにもかかわらず、その人の評判はかんばしくはなかった。
美術を始めとする芸術に傾倒し、政には一切関わっていない。
宮廷に姿を見せたと思えば、書庫に篭り美術書を日がな一日眺めているような人物で、皆からは親譲りの愚昧公と陰口を叩かれていた。
そのせいか、ミレダの口調はいつになく鋭く厳しい。
「私達は、従兄殿と違って遊んでる時間がないんだ。用がないなら邪魔しないでくれないか?」
「かと言って、ぶっ通しでやっていても効率が良いとは言えないのでは? そうは思いませんか? ええと……」
穏やかな光を宿した瞳が自分に向けられていることに気がついて、ユノーはあわててその場にひざまずく。
次いで頭を深く垂れた。
「申し遅れました。蒼の隊の一員として皇帝陛下にお仕えしております、ユノー・ロンダートと申します。公爵閣下のご尊顔を拝し、光栄に存じます」
「『一員』じゃなくて、『指揮官』だろう? お前は相変わらずだな。それに、こんな奴にそこまでかしこまらなくてもいい」
やれやれとでも言うようなミレダの言葉に、ユノーは驚いて顔を上げた。
仮にも従兄という人物に対して、あまりの言い様だと思ったからだ。
豆鉄砲を食らった鳩のように水色の瞳を丸くするユノーに、フリッツ公爵は柔らかく微笑む。
「気にすることはありませんよ。私はルウツ皇室に連なる厄介者ですから」
どうやら公爵は、自らにまつわる良からぬ噂を聞き及んでいるようだ。
だか、ユノーは反射的に首を左右に振る。
「いえ、そのようなことは決して……。小官の方こそ、陛下にお仕えするにはあまりにも至らぬ身でありながら、このような重責を……」
だが、ミレダは容赦なくぴしゃりと言い放つ。
「努力しているだけお前は立派だ。可能性を手放してしまった誰かとは大違いだ。卑下するな」
申し訳ありません、とさらにかしこまるユノー。
対してミレダはいい加減立ったらどうだ、とでも言うように彼を見下ろしてくる。
やはりどうしても身分という名の見えない壁は高すぎる。
そう思いながら彼は一礼すると立ち上がった。
服に付いた砂埃をはたき、非礼と知りながらもやんごとない身分の人達が交わす言葉に耳を傾ける。
「それにしても、引きこもりの従兄殿が珍しい。一体どういう風の吹き回しだ?」
「書庫の調査をしに来たら、お二人の姿が見えたので。お見かけした以上ご挨拶申し上げなければ無礼かと思いまして」
人好きのする笑みを浮かべたまま公爵は右手を胸に当て、完璧な所作でミレダに向かって一礼した。
「殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
が、その挨拶をミレダはぴしゃりと遮った。
「麗しいわけ無いだろう。今この国は外にも中にも問題が山積してる。それを……」
不意にミレダは言葉を切った。
何事かとユノーは顔を上げる。
と、公爵の顔にはなんとも言えない寂しげで悲しげな表情が浮かんでいた。
さすがのミレダも、言い過ぎたと思ったのだろうか、気まずそうに視線をさまよわせている。
何とも言い難い沈黙が流れること、しばし。
それを破ったのは、フリッツ公爵だった。
「お忙しいところ、失礼いたしました。申し訳ございません」
では、邪魔者はこれにて消えることにいたします。
そう言うフリッツ公爵の顔には、微笑が戻っている。
言葉を失うミレダに改めて一礼し、立ち尽くすユノーに会釈すると、公爵はきびすを返しその場を後にする。
やがてその姿が完全に見えなくなると、ミレダは大きく息をつきポツリとつぶやいた。
「……実は気が立っていたんだ。従兄殿には悪いことをした」
勝ち気な妹姫にしては珍しい言葉に、ユノーは思わず首をかしげる。
と、ミレダは
恐縮しながらユノーは恐る恐るそれを見る。
そこには、あの人の人となりを表すような素っ気ない一文が記されていた。
「……これ以上の監視は不要。修練に専念する……?」
「監視も何も、連絡一つよこさない方が悪いんじゃないか? せめて今どの辺りだとか、あとどれくらいかかるとか、それくらい知らせてくるべきだろう?」
翻訳すると、心配しているから早く帰ってきて欲しい、ということか。
ミレダから同意を求められるような視線を向けられて、ユノーは曖昧な表情でうなずいた。
やはりあの人にはかなわないと、ユノーは気付かれないように吐息をつく。
しかし、この手紙の何がミレダをいらだたせたのだろう。
手紙を返しながら、ユノーはおずおずと尋ねた。
「ところで殿下、一体どうされたのですか?」
「それが、とても言いにくいんだが……。ペドロ……取次ぎ役はこの手紙を受け取った直後、奴を見失ったらしい」
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