第6話 あう

バタン!


山田に唇を奪われたまま私は床に倒れこんだ。

頭は混乱したまま。


「オーケーオーケー、ちょっと落ち着こうか」

「あにが〜?私はずっと落ち着いてますけどねぇ〜」


更にぎゅっと抱きしめてきながら酩酊口調で反論してくる山田。


「わらしはねぇ!毎日毎日頑張って働いているんですよ。だのに職業柄、誰にも感謝なんてされなくて…」

山田は両目から溢れんばかりの涙を流す。

鼻を啜ってグスグス泣くとかそんなレベルじゃなくて。

絞ったら350ml缶が貯まるんじゃないかってくらい。


「うんうんそうだよね。分かるよ」

「分かってくれるんですか…?」

「感謝されるために働いてる訳じゃないのは分かってるけどね。それでも私よりは大変そうなのは聞いてるだけでも分かるからね」

「相手の気持ちを慮って肯定して受け入れてくれるこの寛大さ…。ママ…?」

「ままぁ?」

「あう」

おっと、喃語レベルまで退化したのか。


「んうー」

流石にこの歳にもなって一般成人女性が指を咥えてこちらを凝視してくるのを、これほどまでに至近距離で体感するとは夢にも思ってなかった。

てか、ちっか。顔、ちっか。

また、ちゅーでもする気か。


しかし、そのセカンドちゅーは果たされることはなかった。


ピンポーン


部屋のチャイムが鳴る。

こんな賑やかな状況ではあるが、それでも夜な訳でベルの音がよく響く。

良くか悪くかその音に現実に戻され今の状況が普通でないことを改めて認識する。

そして、現状が普通でない事を認識させてくれたそのベルもまた普通でないのである。

普通に考えてこんな深夜にベルを鳴らすなど普通の人ではない。

……いや、たしかに五月蝿いって意味で注意しに来たのであれば、それは普通の反応なのかもしれない。

……普通って何回言うんだ。普通こんな言わんだろ。


私はそーっとインターホンの方に向かいカメラの映像を確認する。

そこに写っていたのはスーツ姿の高身長の男性だった。

うん。この時間にわざわざスーツで来る人は普通じゃなさそうだゾ。

居留守を決め込むことにした。

そのスーツ姿の男性は追いピンポンをすることなく、諦めたのかその場から立ち去った。


「あうー?」

気づけば山田が私のズボンの裾を引っ張っていた。

「んー?どったの」


ガシャーーン!!!

窓ガラスが割れた。


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