影のための煙草の吸い方
尾八原ジュージ
影のための煙草の吸い方
曇天の朝に向かった先は初めてのお宅だった。築百年は優に経っているだろうという立派なお屋敷で、こういう家にはよく影が溜まるものだ。この街で商売を始めて三年、これまで一度もお呼びがかからなかったのが不思議なくらいだった。
私は呼び鈴を押し、声をかけた。
「ごめんください。影とりにまいりました」
真鍮とステンドグラスと分厚い木の板でできた扉の向こうから、かすかにカチンと音が聞こえ、
『鍵は開けたから、勝手に入ってください』
女性の声が応えた。そしてバタバタと立ち去る音。よくあることだ。私は「失礼します」と大きな声で言ってから、玄関のドアを開けた。
暗かった。長い廊下のところどころに電灯がぶら下がってオレンジ色の光を発していたが、それでも暗い。溜まって
私は影とり用のランプを点ける。緑色の光が辺りを照らす。ランプをくるくると回すと、宝石を連ねて作った蛇のように光があちこちを這う。
三和土で靴を脱ぐと、持参したスリッパに履き替えて家の中に入った。家人はどこかの部屋で息を潜めているか、あるいは外に避難したのだろう。
家には影が溜まる。家でなくても溜まる。人間がいる場所には必ず溜まる。廊下の隅、使わない客間、物置、屋根裏――とにかくそういうところに溜まる、溜まる。ただ溜まっているうちはいいけれど、元が人間の影だから、なにかのきっかけで人間の形をとって歩き出すことがある。そうなるとよくない。そうなった影は、今度は人間に成り代わりたくなるものだ。
影に成り代わられてしまった人を、私は何人か見たことがある。その人にとっておそらくそれは悲劇だ。ある日突然、あるいは徐々に、誰でもない何かに変わってしまうということは。
だから「影とり」は必要だ。誰かがやらなければならない仕事だ。
私は家中を照らしながら、ランプの光が引っかかる場所を探す。和室の欄間の辺りで光の流れが滞ると気付いたとき、天井の角に凝っていた影が私めがけて飛び掛かってきた。
私は影の端っこをさっと捕まえた。それから手品師がハンカチをステッキの中に押し込むように、影をランプの中に押し込んでしまう。もうすっかり慣れたものだ。
捕まえた影は、すでにそこそこ人間の形になっている。おさげ髪とほっそりとしたふくらはぎが識別できる。とにかく仕事は大方終わった。私は玄関に戻り、家の奥に向かって「終わりました」と声をかける。
角の座敷の障子がすらりと開いて、隙間から人影が垣間見えた。
「本当にありがとう。代金は後で振り込んでおくから、早くそれを持って帰ってください」
それ、というのはまぎれもなくランプの中の影のことだった。
「承知しました。それでは失礼いたします」
私はふかぶかと頭を下げて屋敷を後にした。仔猫ほどの大きさのランプを手に提げ、胴体に社名と電話番号を載せた営業車に乗り込む。
影はランプの中でぐねぐねと動いている。どう見ても育ちすぎだ。いつものように、その辺に捨てたら勝手に消えてしまうという代物ではない。一度持ち帰らなければならないだろう。
私の勤め先は雑居ビルの中にある。ノックをしてドアを開けると、社長のえいこさんがこっちをふり返って「おかえり」と言った。
「ただいま戻りました」
私はランプを彼女のところに持っていく。えいこさんは窓辺で鉢植えに水をやっていた。ランプの中を覗くと、
「ずいぶん育ったね」
と呟く。
「ね。ずいぶん育っていました」
「どうしたものかしら」
そう言いながら、えいこさんはランプを持ってくるくる回す。私は黙ってそれを眺めている。
えいこさんはその昔、影に成り代わられてしまったという。元々けっこういいとこのお嬢様だったそうだけど、影に追い出されてしまってからはずいぶん苦労したらしい。
もはや「えいこ」という名前すら、自分のものだという確信がないのだと本人は言う。それでも、小さいながらも影とりの会社を興すまでに至ったのだから、えいこさんは大したものだ。影にとられたはずの自分の陰影も、表情もほとんど元通りになっている。
生家はどうなったのかと尋ねると、わからないという。どこの何という家だったのか、もう思い出せないのだ。
「たぶん、影が代わりにお嬢様暮らしをやってるのよ」
えいこさんはぽつりとそう言って、煙草に火を点ける。白い煙がふわふわと天井にのぼる。
えいこさんになった影はどうしているのだろうか。後継ぎが必要な家だとしたら、お見合いをして結婚して、子供を産んだりしただろうか。そもそも影は子供を産めるのだろうか。私はそんなことを考える。
昼過ぎ、また電話がかかってきた。市営図書館からだった。
急いでほしいと言われたわりに、影はまだ小さくて未成熟だった。さっきのおさげ髪に比べれば、赤ちゃんよりもまだ頼りないくらいだ。皆このくらいのときに呼んでくれれば楽なのに、と考える。
午前中とは打って変わって雲が晴れ、太陽が顔を出していた。公園で影を捨て、消えたのを念入りに確認してから車に乗り込んだ。
道中、ビルとビルの間でぼんやり立っている男性を見つけた。足元の影がずいぶん薄い。影に成り代わられかけているのだ。
私は保健局に電話をかけ、職員の到着を待った。ニ十分ほどで保健局の車がやってきた。
「増えましたねぇ。こういう方」
駆けつけた中年の職員が、男性を車に乗せながら私に話しかけてくる。「昔はそうでもなかったのに」
「ええ、本当」
職員は眉をしかめ、私の顔をじろじろと見つめた。
「失礼。あなた、人間でしょうね?」
「もちろんですよ」
私は人間である証拠として、煙草を一本取り出し、吸ってみせる。一般的に、影は煙草を吸うのがとても下手くそだ。どんなに凝ったつもりでも、体のあちこちから紫煙が出てしまったりする。
「うーん」
職員は唸った。「これは失礼しました。最近はほら、何しろ多いものだから」
「お気になさらず。私、仕事で影とりをやっているものですから。長年やっていると、どこか気配が似てくるものですよ」
私は澄まして答える。職員は「なるほどね」と納得したようにうなずいた。
もう二軒ほど回ってから、私は事務所に戻った。なんと、さっきのおさげ髪の影があちこちにハタキをかけている。
「なんで消してないんですか?」
えいこさんに問うと、
「だって、もういい加減人間に近かったんだもの」
と、言い訳をするように唇を尖らせる。
まぁ、確かに。ここまでのものになると、なかなか消せたものではない。
影は甲斐甲斐しく働いている。動きなどはもうかなり人間を模しており、あまり違和感がない。
「こんなことさせたら、余計に消えなくなるでしょう」
「わかってますって。でも最近忙しかったし、出してみたらこの子ずいぶん素直なんだもの。ねぇ、ひわこさん」
えいこさんは私の名前を呼び、ちょっといたずらっぽく笑った。
「今度はあんたが、この子に煙草の吸い方を教えてあげてよ。ほら、例のやつ。影ってばれないようなうまいやり方をさ」
えいこさんはふふっと笑って私を見る。
私はむかし、この人に煙草の吸い方を教えてもらったことがある。確かにうまいやり方だ。いかにも人間らしく、自然に見える。
実際、これまでまだ一度も、私が影だとばれたことはない。
私が凝っていた場所が、成り代わろうとしていた人が、どんなところでどんな人間だったのか、私にはもう思い出せない。
たまにふるさとに帰りたくなるように、それらを探し求めてみたくなるけれど、その気持ちは追いかけたらいけないものだ――そういうものだと、えいこさんは言う。
「そんなものにかまっちゃだめよ。ひわこさん、あんたはもううちの社員で、あたしの家族なんだから」
そういうことらしい。
影とりをやってみたいと言ったのは私だ。えいこさんのやることを私もやってみたかった。こんな境遇に置かれてまで、私はまだ影らしく、人間の真似をしようとするのだった。
私たちに同族を狩る禁忌はなく、影は消えてもまたどこかに湧いてくる。私は毎日のように影を捕まえて、消している。
私は影なのか、人間なのか、それともどちらでもない他の何かなのか。近頃は境界が曖昧になったように感じる。
おさげ髪は、案の定次第に厚みを増していった。もう見た目はかなり人間に近く、目鼻立ちがちゃんとわかるようになった。
「名前をつけてあげましょうか」
みかりと名前をつけてもらったおさげ髪は、嬉しそうに「ふふ」と笑った。そのうちちゃんと話すようになるだろう。
えいこさんが影につける名前は「由来なんかないよ。なんとなく」という類のものらしい。でも私は、それらの名前は昔、彼女がどこかのお嬢様だったときに関わっていた人たちの名前なのではないかと思う。ひわこもみかりも、えいこさんの姉妹や友だちの名前だったのかもしれない。
名前をつけると急に影は立体感を増す。
「えいこさん、これ、ばれたら保健局につれてかれますからね。わかってるでしょうけど」
「わかってるわかってる」
えいこさんは平気な顔で煙草をふかす。私はため息をつく。こんなことでは私の方がよっぽど人間らしいのではないか。
「みかり。もうちょっとしたら、煙草の吸い方を教えてあげる」
私はみかりに声をかける。「上手に吸えたら、まず影だってばれやしないからね。それから、いい? あんたの生まれたお屋敷のことはもう覚えてないだろうけど、覚えていたとしても忘れなさい。わかった?」
みかりは首をかしげる。そのうちこの子も、私の言うことを理解するだろう。
みかりはそれから二月ほどかけて、人間に近づいて行った。やがてすっかりおさげ髪の小柄な娘に見えるようになると、私にくっついて影とりの修行を始めた。
「ひわこさんのやってることをやってみたい」
と言って。みかりは五年ほどかけて影とりを習得し、一人前になった。
私たちはその間に一度引っ越しをした。えいこさんはともかく、私やみかりは年をとらない。ひとつの土地に定住することは難しい。
新しい街には古いお屋敷が多かった。学校も病院も多い。影はあちこちに溜まり、ある日突然凝って歩き出す。毎日のように電話がかかってくる。
「ふたりとも、今日はすきやきをしましょうよ」
営業成績がいいとき、えいこさんは月末にすきやきを提案する。私もみかりも食べものの味はよくわからない。何なら何も食べなくたってやっていけるのだけれど、三人で、雑居ビルの片隅に集まって、鍋をつつくのはいいものだと思った。
影は、人間っぽいことをするのが好きなのだ。
私たちは海が近い街に移った。灰色の海が絶え間なく揺れ動くさまを、その上を飛ぶ海鳥の群れを眺めた。
歓楽街の雑居ビルに移った。そこにも影は出た。大いに出た。一度だけ、かなり女の姿に近いものを捕まえたけれど、朝になると消えていた。
田舎にも行った。棚田が美しい、空気のきれいな土地だった。でも人間関係が濃密すぎてすぐに移った。
大きなビルが建ち並ぶビジネス街にも、温泉が湧く観光地にも、古城のある街にも影は凝っていた。どこに行っても仕事はあった。
そうやって各地を転々としながら、いつの間にか何十年もの時が経った。
月日は私とみかりの上をただ通り過ぎるだけだった。でも、えいこさんはそういうわけにはいかない。どうしたって老いていく。
「ちょっと体調がよくないから、念のためね」
そう言って精密検査を受けたえいこさんに重い病気が見つかったのは、去年の秋口のことだった。
そこからは駆け足だった。春、えいこさんは病院で静かに息をひきとった。
私とみかりは、えいこさんのためにささやかなお葬式をあげた。お坊さんにお経を読んでもらい、たくさんの花と一緒に、痩せて小さくなった彼女の体を焼いて、白いお骨にしてもらった。
私たちは寄り添って事務所に戻った。
おさげ髪を垂らし、黒いワンピースを着たみかりは、骨壺を持ったまま、いつまでも窓の外を見ていた。
私もみかりと同じ方を見た。みかりは路面電車を眺めていたのだった。車体の下に、ぼんやりと影が凝っているのが見える。
「ひわこさん。明日、路面電車の会社へ営業に行きましょうか」
みかりが呟く。「だって、えいこさんならきっとそうするように言うでしょ?」
私はうなずく。
椅子を三脚、窓辺に運んだ。えいこさんの骨壺を真ん中にして、私たちはひっそりと煙草をふかす。私とそっくりな煙草の持ち方をするみかりには、えいこさんの面影が残っている。それを眺めながら、私はゆっくりと、人間のように、上手に紫煙を吐き出した。
影のための煙草の吸い方 尾八原ジュージ @zi-yon
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