犬ころがゆく -6話

 「父上ぇーっ!」

 「お実代みよぉーっ!」

 「あなたぁーっ!」


 「松五郎まつごろうぉーーっ!!!」


 松五郎が、父上、父上と繰り返し呼びかける。

 だが、間に合わぬ。

 間に合わぬのだ。


 悲痛な叫びが聞こえる。

 これは、夢だ。


 過去の夢。

 忘れられぬ、惨劇の記憶。

 

 夢の中ゆえに、足は重く、泥沼に沈んだように動かない。

 だが、知っている。

 実際に、本当にが起こったとき、拙者は満身創痍だった。

 両手両足は満足に動かず、つながっているのが不思議なほど。

 ほとんど死んでいたのだ。


 目の前で、憎き『裏草陰流』の者どもに妻子を殺された。

 それを見て拙者は、完全に心が死んだのだ。


 体も死に、心も死に……。

 だが、かつての叫びが、走馬灯の中で蘇ってきた。


 母の死を防げなかった。

 必死に父上を呼び、泣き叫んだは拙者自身ではなかったか。

 父上は間に合わず、だが、拙者の命は守ってくれた。

 息子には間に合った。


 拙者はどうだ。

 気ばかり強くて身体が弱いお実代が、ようやく授けてくれた玉のような一人息子の松五郎を……。

 拙者には無縁だと思われていた幸せを。

 ようやくつかんだ幸せを。


 拙者から母上を奪った盗賊のごとき悪行。

 拙者から妻も子も奪うとは、『草陰流』許すまじ。


 なんとふがいない。

 なにが乾無影いぬいむえい流か。

 なにが活人剣か。

 なにが「影無きがごとく影よりも早く動く剣」か。

 

 拙者は、妻子とともに『草陰流』の狼藉者どもに斬り捨てられたはずだった。

 だが、何かが目覚めた。

 

 死の淵で見えるという境地か。

 なんと静かで、荘厳で、穏やか。

 そして、なんと無意味で無価値か。

 妻子を守るために使えずして、この境地は何に使うというのか。


 ・

 ・

 ・


 くして、拙者は死の淵より甦った。

 おそらく、死にぞこなって、幻覚でも見たというのが真実であろう。

 だが、確実に拙者の剣は強くなっていた。

 何のために?


 かつての、父上の言葉を思い出す。

 「「松四郎、無事か! 良かった……お前だけでも……お前まで失ったら、わしは……わしは……。」」

 

 “お前まで失ったら、わしは……。”

 その先を、父上は言わなかった。

 今なら分かります、父上。

 もしあのとき、最愛の息子である“私”を失っていたら。

 ……今の拙者のようになっていたのでしょう。

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