犬ころがゆく -8話

 「父上ぇーっ!」

 「お千代ちよぉーっ!」

 「あなたぁーっ!」

 「松四郎まつしろうぉーーっ!!!」


 父上が悲痛に咽び泣く。

 松四郎とは、拙者の幼名だ。


 「父上ぇーっ!」

 「お千代ぉーっ!」

 私は、必死に父上に呼びかける。

 だが、間に合わない。


 父上は、母上の名を、「お千代」の名を叫ぶ。

 だが、間に合わない。


 「あ、あなたぁ……っ。松四郎……まっ…。」

 母上が、父上を呼びながら事切れる。

 私が。

 私があのとき、逃げてしまったから……。


 拙者が数え年で5つのとき。大勢の盗賊が村を襲い、私はそこから逃げたのだ。


 父上は不在で、ゆえに母の千代を含む村人たちが、大勢殺されてしまった。

 おそらく、当時の私が残っても同じ結果であっただろう。

 だがもしかしたら、母上だけでも死なずに逃げ出せたかもしれぬ。


 母上は……私が逃げたことを知らず、村に戻ったのだ。

 私を探すために。

 そして盗賊どもに斬られ……父上は、間に合わなかった。


 「松四郎ぉーーっ!!!」

 「松四郎、松四郎!」

 「松四郎、無事か! 良かった……お前だけでも……お前まで失ったら、わしは……わしは……。」


 “お前まで失ったら、わしは……。”

 その先を、父上は言わなかった。



 その後私は、父上によって一子相伝の剣術を叩き込まれた。

 悲しみを拭い去るように吸収した。



 私は元服し、名をもらった。

 我が一族では、長子はある兵法書から自分に合った一文を探し、教訓めいた名前を授かる。


 私は……『一退いったい』にすると固持した。


 『一退』とは、「一度だけ退くことを許されている」という意味である。

 本来は、戦いにおいて“勝てぬならば退け”という意味だったのかもしれない。

 だが、私には関係ない。

 一度、私は退いたのだ。取り返しのつかない一回。

 そのせいで、母上を失った。村の友人たちも。知人も、みな。


 「もうすでに一度、退いてしまった。二度と後には退かぬ。」


 そう誓い、いぬい松四郎は『一退いったい』を戴き、いぬい一退いったいとなった。

 そして、“私”は“拙者”になった。

 その、はずだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る