犬ころがゆく -10話

 「父上ぇーっ!」

 「お千代ちよぉーっ!」

 「あなたぁーっ!」


 悲痛な叫びが聞こえる。

 これは、夢だ。


 過去の夢。

 忘れられぬ、惨劇の記憶。


 「!!!」

 「ハァーッハァーッ!」


 不快な寝汗がまとわりつく。

 安物の布団では、この汗を吸ってくれぬ。

 じっとりとした脂汗を手ぬぐいで撫でるが、やはり安物の手ぬぐいでは汗を払いきれぬ。


 「温灌水シャワーでも浴びるか。」


 天下分け目の関ケ原によって、日ノ本が東の豊臣・石田勢力と西の徳川・上杉勢力に二分されてより、400有余年。

 外国勢力との衝突や部分的な開国を経てなお、東日本=江戸幕府の権勢は盤石であった。


 文明開化と産業革命の波に乗り、見事、江戸幕府にも電化が進み、さまざまな家電製品や便利なサービスを受けられるようになった。



 ざんばら頭を掻きむしりながら、男は温灌水シャワーで寝汗を流す。


 ・

 ・

 ・


 「あら、ナイトウさん。お早いわねぇ。」


 無宿者向け長期滞在施設ロウニン・ドミトリーの共用食堂に降りてくると、施設の女将さんが朝食の準備をしていた。

 まだ朝の6時を少し回ったばかりだ。


 「いやぁ、近頃、寝つきが悪くってねぇ。いけませんなぁ。」


 ナイトウさん、と呼ばれた男は、無精髭をぼりぼりを掻くような仕草をしながら、席に着く。


 「ホントですよ。うんうん唸っちゃって。苦情が来ないうちになんとかしてくださいネ。」


 ナイトウは、うなされながら寝言を口走っているのだろう。

 女将さんは周囲の迷惑にならぬようにと釘を刺しつつも、同時に男がうなされているという事実も心配している様子だ。


 「いやぁ、すいやせん。本当に。どうも悪い夢を見るんでさぁ。」


 女将さんが朝食を出してくれる。

 麦飯に味噌汁。なんと! たくあんまで付いているではないか!

 ここまでは無料で、というか、宿泊費に込みなのだ!

 ちなみに、おかずが欲しいなら追加で買い足すこともできる!

 挽肉芋合揚コロッケ粉衣付鶏肉揚チキン・コートレットもある!


 「心配だわぁ。ホントに。」

 「ヘンなことに巻き込まれないでくださいましネ。」

 「だってナイトウさん、そこそこ腕が立つって話じゃないの。」

 「子供たちから聞いたわよ。寺子屋テンプル・スクールの出張講師で、ちょっと剣術を教えてるらしいじゃない。」

 「“剣士狩り”に気をつけないと。」


 ナイトウは、卓上の醤油を麦飯にチラチラとかけ、さらに味噌汁も半分ほどかける。

 そして汁気と塩気で麦飯をサラサラと流し込む。

 豪快で粗野な朝食だ!


 「腕が立つって、そんな大層なもんじゃありゃしませんよ。」

 「ちょいと尋常小学校アンダー・スクールの体育の授業で困ってる、ってヤツがいるもんで。」

 「ほら、三丁目の角の発酵小麦粉練窯焼パン屋んとこの。梅太郎くん。」

 「でんぐり返りで背中が痛ぇってんで。たぶん思い切り背中からいっちまってるんだろうと。」

 「授業じゃ、でんぐり返りを3回連続でキレイに披露しなきゃならないんで、イヤがってやしてね。」

 「剣術ってよりは、体術とか体の動かし方みたいなもんを教えてるんでさぁ。」


 もう麦飯は半分も残っていない。話しながら、器用なものだ。


 「ちょいとナイトウさん、あんまり醤油を使いすぎないでおくれよ。そいつは、追加でおかずを買ってくれた人のモンなんだからネ!」

 「それに、そんなに塩分をとったら血圧が上がっちまうだろうに。」

 

 すでに麦飯はかっこんだ後だ。

 卓上の冷茶をお椀に入れ、たくあんで椀をさらうようにゆすぐ。

 どうもこのナイトウという男、ところどころの所作に気品が感じられる。

 たくあんで食べ終わったお椀をきれいにするのは、寺などで教えらる食事作法の一種だ。

 この男、どこで教育を受けたのか、見た目通りの無精者ではないようだ。


 「ごちそうさん!」

 「それにね、女将さん。あいつらみんな、“御留流”だって噂ですぜ。」

 「“剣士狩り”にやられてんのは。」

 「拙者は、誰も知らない田舎流派でさ。」


 6時半。

 いそいそと、仕事に向かう連中も降りてくる。

 長屋暮らしや集合住宅アパート暮らしとはいかないまでも、この長期滞在施設ロウニン・ドミトリーの連中はほとんどが顔見知りだ。


 一度部屋に帰ったナイトウが、大小の刀を携えて再び共用部に降りて来た。


 「おや、お出かけかい、ナイトウさん?」

 女将さんや、少し早めの朝食をとる長期滞在施設ロウニン・ドミトリー連中が話しかける。


 「ええ。寝汗を流すには、やっぱり外の空気でも浴びねぇと。」


 朝食をとる連中のなかには、朝っぱらから粉衣付鶏肉揚チキン・コートレット千切寒蘭酢漬ザワークラウトで1杯やっているヤツもいる!

 ……いや、彼は保主人倶楽部ホスト・クラブ保主人ホストだ。

 この時間が仕事帰りなのだ。

 そんな彼も、ナイトウに向けて酒に焼けた声をかける。


 「あ、ナイトウさん、今日は早いッスね。」

 「客のが言ってたんスけどぉ。四丁目あたり、公安が張り込んでるらしいッスよ。」

 「あいつらに会いたくねぇし、そもそもあいつらが出てくるようなヤバい事件があったみたいだし。」

 「四丁目のあたり、行かないほうがいいッスよ。」


 公安とは、公共安全保障改方こうきょうあんぜんほしょうあらためがたのこと。

 強制捜査権をはじめとしたかなりの特権を有しており、たとえ脛に傷をもたずとも、できれば会いたくない部類の者たちであろう。


 「……ほう公安が。」


 ナイトウの眼が、ドス黒くギラつく。


 「どうやら……寝汗を流すだけじゃなく、悪夢も振り払えそうでやすね。」

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