『ヤギさんどちら?』第0話
灰ヤギは、村長さんの家に向かっていた。
落ち着いた様子で、家族の絵を大事そうに胸に抱える村長さんが、家の庭でくつろいでいた。
みんな、炎の中に消えた。
この村にいながらにして、そのことに気づかぬわけはなかった。
そして、何もかもを“再び”失ったにしては、異常なまでに村長さんは落ち着いていた。
灰ヤギが、息を整えながら村長さんと相対する。
度重なる激しい戦闘で、身体にガタがきている。
女性体と男性体を融合させて中性化したはずが、その作用は解けつつあり、身長が縮み始めている。
右の乳房も、膨らみを取り戻しつつあった。女性体に戻ろうとしている。
「……この文明区画に、“お茶”は一般流通させていなかった。超高級品のはずだ。」
息も絶え絶えに、灰ヤギが語る。
お茶葉が手軽に手に入るようになるのは、近代以降だ。
“この時代設定”の文明区画にお茶があるのはおかしい。
そしてそもそも、どこの世界に『ヤギ』を気持ちよく迎え入れる村長がいるというのだ。
実は、村長がヤギを快く迎え入れた時点で、怪しいことはバレバレだったのだ。
さまざまな符丁を文明区画にばらまき、超越文明に触れた罪人を見つけることができるような、そんな仕組みができあがっているのだ。
村長さんは、これまでで一番、穏やかな様子で話しはじめた。
「あの子は。あの子だけは、失った孫娘の代わりとして、健全なまま生きてほしかった。」
「賭けていたんです。神父様に。」
「神父様に、何も投与されないことに、賭けていたんです。」
「ダメだったようですがね。」
「神父様に利用されていることは、分かっていましたから。」
村長さんは、あの日のことを思い出していた。
不気味な夢を見た、あの日のことを。
妻を失い悲嘆に暮れ、義理の娘も失い息子と共に泣き続け、ついには孫娘までも失ってしまった、あの日。
やけにリアルな夢のなかで、銀の鍵と金の鍵、そして禍々しい黒の鍵を選ばされたあの日。
夢のなかに出てきた、顔が見えない高貴な男は、村長さんに選ばせた。
銀の鍵を取れば、夢の世界を歩きまわり、新しい生き方が見つかるだろう。
金の鍵を取れば、現世で良いことが立て続けに起こり、生活を立て直せるだろう。
黒の鍵を取れば、地獄に落ちるだろう。だが邪悪な術を知り、失った者に再び会うという禁忌を可能にするかもしれない。
村長さんは、迷わず黒い鍵を取った。
「……目が覚めるとね。」
「夢で見た、黒い鍵の紋章がついた本を手にしていたんですよ。」
「魔法の本を、ね。」
もはや、灰ヤギは驚かない。
村長さんの近くにその「魔法の本」とやらが置いてある。
その本を凝視すると、網膜ディスプレイには無数のアラートが表示される。
この本は、不明な物質でできた、不明な何かだ。
先ほど戦っていた、黒山羊と同様に。
村長さんは、なおも話し続ける。
「私は、何度でも黒い鍵を選ぶでしょうね。」
「思えば、妻を失ったあの日から、私のなかで、何かが壊れてしまったのでしょう。」
「私は神父様に利用され……」
「しかし、ヤギさん。どうやら、あなたも利用されたようですよ。」
村長さんが、空を指さす。
「神父様が言っていた、“子山羊”たちですかね。あれは。」
ツノと触手と不格好な翼を生やした元村人たちが、空の穴に大挙している。
閉じようとしているドームのパネルを魔法で破壊し、穴が塞がらないようにしているのだ。
同時に、何人のも元村人たちが飛び去り、この『文明区画』の外に出ていく!
この『文明区画』の治安維持組織である銀狐団と鉄犬隊にはすでに連絡済みだ。
金狼軍も動き始めるだろう。
そして鉄犬隊は、先遣隊が村に入ってきている。
が、そのことごとくが全滅!
元村人たちに成す術なく倒されている様子だ。
ビグル神父は、自分を倒すためにヤギが衛星兵器を起動するだろうと予測し、あえて受けたとでも言うのか。
村長さんは、まだ止まらない。
「神父様はね。この文明における『母なる黒山羊』となるよう、私が召喚したんですよ。」
「この、『黒い鍵の魔法書』を使ってね。」
「もう一度。別の、『母なる黒山羊』を召喚します。ビグル神父様と同じ存在ではないでしょうが、また黒山羊が来ますよ。」
村長さんが右手をかざすと、それまでに灰ヤギが受けたことのないような、信じられぬ密度の重力障壁が展開される。
ただただ、成す術もなく吹き飛ばされた。
言うなれば、高速で迫りくる壁であろうか。
どこにも逃げ場はなく、必ずぶつかる壁。
「やっ、やめっ……!」
すさまじいダメージにより、灰ヤギは、どんどんとその身体が元に戻っていくのを感じる。
灰色だったコートが、まだら模様になり始めている。
ところどころ、白が目立つようになってきた。
今、白ヤギに戻るわけにはいかない!
誰が村長さんを止めるのか!?
「やめなさい! あなたは、そんなことをする人ではないでしょう!?」
精一杯叫ぶが、当然、村長さんには届かない。
「はい、もちろんそうでした。妻を失うまでは、ね。」
「今は、そうではありません。ほかの文明区画も荒します。」
「死者を蘇生できるだけの、それこそ“魔法”のような技術が、どこかにあるかもしれないし……。」
「このまま、『黒い鍵の魔法書』に生け贄を与え続ければ、新たな魔法を授けてくれるかもしれない。」
「とにかく私は、もう、なりふり構っていられないんですよ。」
「ヤギさん、あなたのせいでもあります。あなたがこの村に来なければ。」
「私は息子夫婦たちと、たとえ偽りだとしても、幸せな夢のなかにいられたのです。」
『黒い鍵の魔法書』に魔力が集中する。
深淵の扉が開かれ、村長さんの隣の空間が割れる。
この文明区画を隔離するためのドームが開き、まるで「空が割れたように見えた」のとは、まったく意味合いが異なる。
本当に、空間そのものに亀裂が入り、“向こう側”が見えている。
おそらくは、
そして村長さんの横には、“村長さんの夢に出てきた、顔がよく見えない高貴な男”が、立っていた。
やはり顔は見えないし、直視してはならなそうな雰囲気が漂っている。
この文明区画に居る者には知る術がなかったのだが……。
実は同時多発的に、ほかの文明区画でも
別の文明区画でも、顔がよく見えない高貴な男によって混乱が引き起こされ、ヤギが動員され、そしてだいたいのヤギが倒されていた。
別の文明区画で召喚されたであろう、“翼をもつ蛸”や、“飛翔する三角錐”や、“巨大な蟲”が、この文明区画に入ってきている。
この文明区画から、“子山羊”たちが他の文明区画に進出していくのと、同じように。
顔がよく見えない高貴な男は、どこについているかも知れぬ口を開き、語る。
「“秩序”の時間は、終わりだ。これからは、“混沌”が支配する。」
灰ヤギは……もはや、半分ほど白ヤギに戻りつつある彼女は、
おそらくこの、顔がよく見えない高貴な男こそがすべての元凶であり、黒幕なのだろう。
ビグル神父すらも操って!
「やらせるわけには……ッ!!! いきませんっ!」
村長さんの左腕付近を目がけて、銃を乱射する。
村長さんの横には、「向こう側が見えてしまっている、空間の亀裂」がある。
そして灰ヤギは、深淵の向こう側から今まさにこちら側に出てこようとしている、ビグル神父とは別の新たなる『母なる黒山羊』と、目が合った。
その瞬間!
世界が暗転し、何かが起こった。
深淵の向こう側に、さらに“向こう側”が開いたのだ……!
次元は大きく入り乱れ、混乱し……深淵の向こう側からこちら側に出てこようとしている『母なる黒山羊』すらも、大きく困惑して何が起こったか分からない様子だった。
空間が、歪む!!!
次の瞬間、恐ろしいほどの静寂があった。
そして、喧騒が戻る。
ドームの亀裂には、相変わらず元村人だったツノを生やしたバケモノたちが殺到する。外からは、異形たちが侵入してくる。
『黒い鍵の魔法書』も完全に破壊され、もはや魔力を放っていない。
しかし驚くでもなく、何ら気に止める様子もなく、村長さんは淡々と、空を見上げた。
「これもすべて、あなたの計画通りなのですか?」
顔がよく見えない高貴な男は、被りを振って、少しおどけながら答える。
「あちら側の世界に、さらに次元断裂が起こるとは思ってもみなかったさ。」
「その結果、あのヤギの身に何が起こったのかも、まったくもって不明だよ。まさに、大混乱さ。」
「だけど、その混乱、混沌こそが、私が好むものでもある。」
「文明水準が完全に管理された、こんな退屈な世界など見たくもない。もっと混沌とすべきなんだよ。」
そして、まるでいたずらがバレてしまった悪童のような表情を浮かべて(相変わらず顔は見えないが)続ける。
「……実はねぇ……。あのヤギとやらがどうなったのか、すごく興味がある。」
「それに、とてもうらやましい。私が与えた以上の“混沌”に巻き込まれているだろうからね。」
すでにこの場に、ヤギの姿はない。
消えていた。
何が起こったのか。混沌の使徒たる、顔がよく見えない高貴な男=貌の無い男にも理解できていない。
村長さんが再び空を見上げる頃には、貌の無い男の姿も消え去っていた。
そんな男が、そもそもこの世界、この次元に存在していたのかも疑わしいほど、完全に痕跡を消していた。
すでに村長さんの失われた左腕は元に戻っている。
『黒い鍵の魔法書』も、一度も損なわれたことなどなかったかのように、元通りになった。
そして、黒く邪悪な魔力を放ち続ける。
村長さんは、ただただ虚ろな目で、空の穴と、穴から別の文明領域に飛び立っていく“子山羊”、そして外から入ってくる異形どもを見つめていた。
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