五、戦わない人生

 半地下の獄に桃の花びらが舞い落ちてくる。もう花はほとんど散ってしまっただろう。半月ほど経っただろうか。獄卒がやって来てこう言った。

「非常事態です」

非常事態のため暫定的に獄を出されて軍務につくということらしい。

 この長沙郡を擁する荊州は曹操の支配下に入っていたはずだが、曹操が劉備・そんけんの連合軍に敗れて撤退したため、劉備と孫権が競うように荊州南部の支配を固めようとしているところだという。地方の生活が変わらずに保たれるなら親分が曹操だろうと誰だろうとどうでもいいことだ。増税されたり人手や利権を奪われたり戦争に巻き込まれたりしなければどうでもいいのではなかろうか。現在、劉備がこの長沙を支配するために軍を進めて来ているそうだ。長沙の郡府ではその対応策をめぐって会議が行われているという。

 身なりをととのえて郡府に入る。堂内で官吏たちと地図を見下ろしていた韓玄はこちらに気づくと顔をあげ

「非合法な手続きで郡を接収されることは容認できません。徹底抗戦で衆議一決しました」

と言った。韓玄の主義としてはそうだろう。土地の有力者たちとしても、劉備に接収されるのは面白くあるまい。劉備に取られればどうなるか。劉備の根拠地はほとんどがこうなんである。劉備がここから勢力を伸長しようとすれば長沙は物資と人員の供給基地になるだろう。今の局面では韓玄の主義と土地の有力者たちの利害が一致するわけだ。

「なるほど。この長沙を一つにまとめる好機です」


 軍に顔を出そうと城内を進んでいると、道端で天秤棒をかついでいた背の高い農夫が爽やかな声で呼びかけてきた。

「将軍、ご無沙汰しております」

この男には見覚えがある。誰だったか。この男の正体は農夫ではないはずだ。親戚の縁戚か何かだったか……どこかで見たのだが。

「私が分かりませんか。フフ……この服装です。無理もない」

ああ思い出した。しょかつりょうだ。こうしょうげんの娘婿の諸葛亮。やけに自信満々な含み笑いで思い出した。何をやっているんだ。私は諸葛亮のつま先から頭のてっぺんまでを何度も視線を往復させながら

「嘘だろ?」

と言った。

「なにをおっしゃいます。この孔明、常にマジ」

そういう態度がマジに見えないのだ。変装しているのに自分で孔明と名乗ってしまっているし。私が人払いをすると、諸葛亮はこう言った。

「こんどの戦、長沙は勝てませんよ」

そうかもしれないな。

「重要なのはどう軟着陸させるかだ」

諸葛亮は、そう言ってくれれば話が早い、と言いたげにうなずいた。

「長沙の攻略にあたるのはかんうんちょうです。長沙からは黄将軍が出ることになるでしょう。将軍は関公に負けて下さい」

「わざと負けろと?」

「いや、まあ全力でやりたければやっていただいても構いませんが。関公があなたを傷つけることはありませんからご安心下さい」

私が全力でやってもそいつにはかなわないと言っているのか?

「その関雲長とやらは神か何かなのか」

「まあ似たようなものです」

なんだそれ。気持ち悪いな。

「黄将軍が関公に勝てないとなれば長沙の官民は震え上がるでしょう。頃合いを見計らって内応の手があがるので将軍は抵抗するふりをしながら手抜きをして下さい。頑張ってもどうせ長沙は落るので。本当は抵抗せずに韓玄を捕縛いていただければありがたいですがそれでは将軍の節操に傷がつきますからね。韓玄がやけをおこさないように見張っていて下さい」

「今の長沙に内応する者などいるのか?」

劉備に接収されれば誰もが損をしそうだが。

「いるのですよ。もう話はつけてあります」

誰なのか。韓玄に弾劾されている男か。あいつは派遣されてきた官僚であって長沙の人間ではないからな。劉備に恩を売って弾劾のもみ消しや出世の後押しをしてもらえるならあいつにはいい話だろう。劉備はこうしゅく、左将軍、予州よしゅうぼくだ。曹操が牛耳っている朝廷の中にも劉備にそのくらいの便宜をはかってくれる仲間はいるだろう。

「そんな話を聞かせて、私が内応者を特定して始末することは考えないのか?」

「長沙にとってはいい話です。私は長沙のために今日ここへ来たのですよ。劉将軍の軍事力の前には長沙はひとたまりもありません。何の工作もなく力攻めをしても一ヶ月もあれば落るでしょう。しかしそれは互いに無駄な話ではないですか。将軍や韓玄に城を枕に討ち死にしてほしくはありませんしね。こちら側に韓玄の身内の者がいるので悪いようにはしたくないんです。協力してくれますか」

なるほど。抵抗するふりをしながら手抜き。つまらん。つまらんが、やる価値はある。これまでだって戦わない人生を歩んできたではないか。これで平和が保たれるなら……。

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