四、蟷螂の斧

 翌日。郡府の中庭に赤い公用車が出してある。整備をしているじいさんに探りを入れてもいいが面倒なのでずかずかと堂内に上がっていく。初登庁の日と同じ正装に身を包んだ韓玄が行李の上にかがみ込んでごそごそと荷物を詰めている。

「辞めるんですか?」

韓玄はすっと立ち上がり、揺れる綬を左手で裁いた。

「いえ。らちがあかないので自分で弾劾状を持って行こうと思いまして」

同じものをいくつも書いて同時に発送すればどれかは届くだろうが、公文書をみだりに重複発行してはいけないという制約がある。

「何日かかると思ってます?」

せんから先は通常に発送できるので、そこまでの往復で三、四日でしょう」

甲家の縄張りはどうていの手前までだ。韓玄はどういう力関係で何が起こっているか正確に把握しているのだな。

「死にますよ」

「死にますかね。いやまさか」

韓玄はクックッと笑い始めた。

「甘く見ないほうがいい」

「この服装で印綬まで付けて公用車で目立っていけばさすがに簡単には抹消できないでしょう。仮に万が一のことがあっても闇に葬ることは不可能です」

「そんなことに命を賭けるな馬鹿野郎!」

また怒鳴ってしまった。韓玄は殊勝なおももちで何事かを考えている。そして雪の溶け始める時のゆっくりとしたたる水のようにこう言った。

「分からないんです」

「分からない?」

「どうすればよくなるのか、分からない。土地の有力者が行政官に賄賂を送り、便宜をはかってもらって利権を分け合うのが地方の実態です。力のある人は誰も損をしません。しかしその賄賂がどこから吸い上げられているのかという話です。近年は大きな不作が続いているわけではないにもかかわらず税金を払いきれずに逃亡する民が後を絶ちませんが、税の負担がそこまで重いわけではありません。民を苦しめているのは賄賂です。官民の癒着をどこかで断ち切らなければなりませんが、その方法が分からない」

私は正体の分からない衝動に突き動かされて韓玄の青紫色の綬を荒々しく掴んだ。

「分からないなら今すぐ辞めて太学に戻って習いなおせ小わっぱ!」

太学に戻ってもそんなことは誰も教えはしない。まともに考えるやつもいないだろう。

「控えよ黄忠!」

そうだった、私は韓玄の指示を受ける立場であった。なおも印綬を引き剥がそうともみ合いながらがなる。

「権威を振りかざすしか能がない小わっぱが! あんたのとうろうの斧でなにができる!」

「何も戦わなければ生きているかいがない」

おい……おいおいおいおいおい、いまなんて言った?

 私は膝から崩れ折れた。

 小わっぱのくせに。


 悄然と自室に戻り、幽鬼のような虚ろさで郡の山河図を取り出す。待ち伏せがあるとすればこうでいさんの横の隘路だろう。軍隊が出動すれば戦いになってしまう。そのこと自体は正体不明の賊との偶発的な衝突ということで処理できるだろう。問題は甲家を敵に回したあとの自分の身の振り方だ。どこかへ高跳びしようかな。

 通常の手順を踏むと間に合わないので独断で軍を出す。郊外を半時ばかり北行すると韓玄の一行が見えてきた。官の規定通りの赤い車はよく目立つ。目立っていけば簡単には抹消できないだろうと韓玄は言っていたが、重りをつけてべきに沈めてしまえば跡形も残らない。残った者たちで韓府君は水路で旅をしていたが水難事故に遭いましたと口裏を合わせればそれで終わりだ。

 私も自分の部隊の旗を立てて目立って行く。この黄忠が同行しているとなれば甲家もおいそれとは手を出せないだろう。それなりの人脈も実績も力も私にはあるからだ。私を敵に回す覚悟があるならやればいい。

 韓玄にはなんの力もない。私が加われば戦争になってしまう。そんなことは分かっていた。だから私はこんなことはしたくはなかった。


 道中では私の馬が射殺された以外には何事も起こらなかった。行軍中に狙いすました一矢が飛んできただけである。これで甲家側の伝えたいことは理解できた。黄将軍、あなたはそちら側に付くのか、そのつもりなら我々はいつでもあなたを消し去ることができる、改心するなら今のうちだ、ということだろう。弾劾状を下雋に着く前に止めることは諦めたようだ。私の率いる官軍と交戦して勝つだけの準備がなかったからだろう。

 かくして弾劾状は洛陽に向けて発送された。甲家側はこれから次善の策として下雋から先の人脈に手を回したりていに賄賂を送ったりするだろう。ばあさんの訴えが裁かれる日が来るかどうかは分からない。

 長沙に戻ってから私は獄に入った。通常の手順を踏まずに軍を動かしたからだ。緊急事態には独断で動く権限もあるのだが、今回はその要件を満たしていないし、獄に入ったほうが自分が安全だから型通りの処分を受けた。もっとも、そんな都合とは関係なく、韓玄なら型通りに処分することだろう。

 私の家族は軍を動かす前に魏延に預けた。魏延は気性が激しいうえに言葉足らずなため誤解されやすいが裏表のない気持ちのいい男だ。韓玄のことを「死んだほうがいい」と言っていたが、決して韓玄に対して悪感情を抱いているわけではないことは魏延との数年来の付き合いで分かる。悪感情があればもっと口を極めて罵る男だ。あの発言は、韓玄のやっていることには関心がないから自滅しようがしまいが勝手にやっていればいい、自分や黄将軍が関わる必要はない、放っておきましょう、と言いたかっただけだと思う。魏延は韓玄には関心がないが私との間には信頼関係があるから、私の選択に反対はしなかったし頼られれば応えてくれる。

 その後、甲家側が私のほうに何かしてくることはなかった。私を敵に回せばやっかいだから、今後よけいなことをせずにいてくれればそれでいいという判断なのだろう。私が韓玄に暴行を加えながら太守をやめろと騒いでいたという噂も流れていたし、長沙に戻ってすぐに獄に入れられているわけだから、黄忠はべつに韓玄に賛同しているわけではないようだという理解もあるのだろう。家族が魏延のところから自宅へ戻っても何事も起こらなかった。

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