第44話
「
怒鳴り声を上げたのは
銃口を向け、引き金を引く。絞らなければ、人差し指以外にも中指や薬指が動いてしまい、銃口は身体の内側にブレてしまう。
しっかりと狙う時は撃鉄を起こせ、両手で保持して引き金を絞れといわれていたにも関わらず、介はできなかった。
――外した!
バシャッと敬香と離れた場所に散った塗料を見た介は、悔しさよりも痛みで顔を歪ませられる。
「ギッ」
呻き声を漏らさせる痛みは、介の腹を突き抜けて身体をくの字に折らせる。
念動の魔法を使うというのだから、遠隔攻撃をしてくるのは当然だと思っていたのだが、今、介が感じている痛みは予想外だった。
――叩かれてる……!
打撃の、それも拳で殴られている痛みだ。
歪む視界に入っている敬香の姿は、左の拳を突き上げ、アッパーを放ったかの様な格好。
次に右拳を横薙ぎに振るうと、介は左から右へ顔をすっ飛ばされた。
そしてもう一度、左のアッパーは、
距離が離れているのに、まるで介の鼻先まで接近してきて殴りかかっている様な衝撃だ。
――銃……銃!
銃口を上げる介は、思考をひたすら繋ぐ事に集中したのが功を奏した。
先程の様に反射的に引くのではなく、撃鉄を起こし、しっかりと保持して引き金を絞った。
だが視界は歪んでいる。
ペイント弾は
「おらァッ!」
掛け声と共に右の打ち下ろしが叩き込まれ、介の身体が地面に沈む。
その間にパンパンパンパンと鳴った4回の発射音は、全て身体の硬直がもたらしたミスショット。
「あ……あ……」
顔面を
ズンッと響いた衝撃は、思考を奪って気絶させるどころか、ショック死させられてもおかしくないものがある。
金的――二つ同時に潰れれば本当に死ぬのだが、これが敬香にとっては
「バーカ!」
一番、笑える攻撃じゃないかと敬香は笑う。最も労力がかからず、相手に与えられるダメージが重大で、介にぴったりの
「誰だって笑う。笑わない奴は頭がおかしい」
敬香は堪える気のない
「じっとしてろ!」
未だ身体をくの字にして痛みを堪えようとしている介の胸を踏み付ける。
「Gでもこうされたら腹見せて伸びるぞ」
見下ろしている介の姿など、害虫に等しいという事か。
馬乗りになった敬香は「おい」と一発、鼻先にくれてやる。
「……」
介からの返事などあろうはずもないが、敬香は「おい」と呼びかけながら、介の顔面に拳を振るい続けた。
「おい、おい、おい」
顔。
「オラ、オラオラ!」
顔面。
「オラ!」
膨れあがった介の顔は、もう顔だけのダメージでは済んでいない。頭は硬く、地面が土とはいえ、頭蓋骨の一部にヒビくらい入っている。
敬香が介の眼前に現れて、まだ5分か10分しか経っていないというのに、もう介は反撃する力を失っていた。
「聞こえてるなら、教えてやる。念動の魔法っていうのは、遠くにあるのを持ち上げたり、殴ったりする魔法じゃない。お前には見えてない私を作る魔法なんだよ」
その見えない敬香は、一方的な暴力を振るえる。
周辺を歩き回らせば、罠を作動させる事もできるし、バスケのドリブルが有り得ない精度なのも、名シューターですら成功率が5割だといわれる3ポイントシュートを凄まじい正確さで投げられるのも、この見えない敬香が常に支えているからだ。
そして敬香本人ではないのだから、
「さぁ……」
動けなくなった介から腰を上げ、敬香は周囲を見回した。まだ介に息はあるが、トドメを刺すのは後回しにする。
当然だ。
介には、まだ後悔させられるネタがある。
「ブサネコ、どこにいる?」
リーヴだ。
介にトドメを刺すのは、リーヴを血だるまにし、血祭りに上げてからに決まっている。
――介くん……。
リーヴは介が隠れていた木の根元で身体を小さくしていた。
身体の震えは抑えきれない。
祈る様な気持ちが込み上げてくるのも当然の事だ。
しかし震えも祈りも、敬香へ向けているのではない。
――介くん……。
リーヴが感情を向ける相手は、もう介だけなのだから。
敬香がリーヴの声を聞けたならば、たかが10分程度で半死半生にされた介に何ができると笑っただろう。介にぶつけた嘲笑は、まだ敬香にとっては十分ではない。
だが10分。
その10分は短くはない。
リーヴが持つ治癒の魔法が効果を表すのに必要な時間が10分なのだから。
「!」
歯を食い縛った介の顔は、もう朱に染まっていない。
起き上がり、銃の撃鉄を起こす。
――
怒鳴りつけたい衝動を抑えて銃口を向けたというのに――、
「おい!」
敬香は振り返った。全方位へ意識を向ける必要のあるバスケットボールで鍛えられた、第六感とでもいうべきもののお陰か。
振り向きざまに放たれた右の打ち下ろしが、介の右腕を弾き飛ばした。銃口はあらぬ方へ向き、悔しさに顔を歪ませる介へもう一度、強い苦痛を与える。
駆け寄ってきた敬香が介の右足を思い切り蹴り上げると、介は右足が爆発したかのような音を自分の中に響かせられる。
大腿骨は人間の骨の中でも、太い部類に入るのに、念動の魔法を上乗せした敬香の蹴りはへし折るどころか粉砕したのだ。
崩れ落ちようとする介の右手を掴む敬香は、介が手にしているステンレス製の銃身で掌が
「それがどうした! 万倍にして返してやる!」
介の右腕を全力の力と念動の魔法で捻り上げれば、文字通り介の右腕はねじ切れた。悲鳴すらもあげられない激痛と共に。
そして敬香は殴りつけてくる。
顔。
顔。
顔。
最後に敬香の額を鼻っ柱に叩きつけられた介は、坂を滑走していった。
「先にブッ殺してやろうか!」
敬香が追撃に入ると、ここでリーヴは全てを抑えられなくなる。
「介くん!」
後先を考えず飛び出す。リーヴは攻撃魔法など持っていないし、ましてや子ネコほどの体格では盾になる事すら不十分だが、それでも飛び出すしかなかった。
敬香を追い越し、介との間に身体を滑り込ませるリーヴに対し、敬香は大輔と同じ目に遭わしてやると思ったはず。
だが追い抜かれた次の瞬間、
「ゲホッ!」
くしゃみ。
宙に舞ったリーヴの毛が、敬香のネコアレルギーを刺激した。
ゲームのルールで致命的な損害になってしまうのは、リーヴを守ろうとする者が敵意と悪意を込めて振るった場合であるから、毛を吸い込んだ事で気道が塞がれる程、腫れ上がるような事はないが、くしゃみと
「今なら……!」
逃してはならない好機だ、と介は身体に残っている全てをかき集めた。銃はねじ切られた手と共に失ってしまったが、敬香を仕留める武器は銃ではなくペイント弾だ。
ベストのポケットに入れている予備弾を全て左手に取り、ゲホゲホと咳き込んでいる敬香の胸元を目掛けて飛び込む。右手がない事でバランスが取れないからだが、倒れ込む事は人間が出せる最高の加速を生む事もできる。
「グッ!」
大口を開けていた敬香は、口の中にペイント弾を放り込まれたのが分かった。
――吐き出せば済むんだよ!
自覚できたが故に、倒れ込んで炸裂してしまう前に吐き出すが。
――お前の負けだ!
倒れ込みながら宣言する敬香だが、その声が出る口を塞ぐものがある。
介が最後の最後、ペイント弾よりも切り札に選んだもの。
敬香の
ペイント弾を吐き出したタイミングであったから、ねじ切られた手から流れる血を敬香は飲んでしまう。
「ああ!?」
敬香の声が
――こんな奴に……。
息が詰まる感覚が敬香に襲いかかってきた。走りっぱなしのスポーツであるバスケットボールで何度も感じた事であるが、今は全く違うモノが来ている。
急激な発熱、発汗、粘膜の腫れと爛れ、筋肉痛、喘息に似た発作――全て敬香を苦しめるのではなく、殺すために襲いかかっているのだ。
初めて受ける他者からの圧倒的な、しかもバスケットボールで向けられる事は決してない殺意。
――反則だ!
それは甘い話だ。不意打ちを受けたのは初めてかも知れないが、不意打ちを食らわせた事ならば何度でもあるではないか。
けったん――。
見つけたら勝ち、見つけられたら負けのかくれんぼに紛れさせた、秘匿してるが故に相手が初めて経験するルールで、どれだけ介を負かせてきたか。
敬香だけでなく、介のクラスメートは教えた事も教える気もなかったし、審判不在だからといってゴールポストを動かす真似すら平気だったのだから、今更、卑怯もズルもない。
ルールは絶対である。
――こんな奴に!
倒れ込んだまま見えるのは、オレンジ色の空。
それも介の血液を浴びて腫れ上がっていく目では、じきに見えなくなってしまう。
――見ろ……私を見ろ!
見えなくなった目に、敬香は自分が将来、立つであろうコートを見ていた。
――私が一番、偉いんだ! 凄いんだ!
輝くライト、溢れる歓声、蹴散らされていく世界のトップ。
――何だよ……何で邪魔されなきゃならないんだよ。
その全ては、もう闇に閉ざされる。
――何で邪魔するのが、こんな奴なんだよ!
介の勝利を無効にしてきた仲良し――恥知らず7人組の仲間は、狩り尽くされたのだから。
「介くん!」
敬香が汚泥の中に沈むと同時に駆け出したリーヴは、不思議な感覚に襲われた。
自分を抱き上げられる程、大きかった介が、自分とそれ程、変わらない身長に見えた事、走ろうとした時、地面についているのが前足でなくなった事など。
黒い体毛に覆われた前足ではなく、真っ白い肌の手だ。
もうリーヴの姿はネコではなかった。7人の魔法少女が死んだ今、リーヴの身体はかつての輝かんばかりの容姿に戻っている。
「介くん!」
だがリーヴは喜ぶ事など頭になく、
「介くん! 介くん!」
必死で呼びかけた。
――介くんの意識が途切れたらお終い!
ねじ切られた腕からは絶え間なく血が流れているし、坂を滑走させられた時に肋骨でも折り、肺に刺さってしまった可能性もある。
しかし、どんな怪我をしていようとも、それが怪我ならばリーヴの魔法は治してくれる。
ただし10分、介が保てばだ。
「あ……あ……」
敬香を殺すのに必死だった介は、もう意識が薄れていたが、それでもリーヴの姿は見えた。
「リーヴ……リーヴ姫……」
「そう。そうです! 魔法が解けました!」
介と大輔のお陰だ、とリーヴが叫ぶ。
「ありがとうございます。だけど、だからこそ、死なないで!」
この出血で後10分も保つかどうかの判断は、リーヴにはできない。ただただ祈りながら治癒の魔法を浴びせるだけだ。
「あァ、よかった……」
介は
「神様はいるんだ」
瞼の重さに耐えられなくなりながら思う事。
神様はいる。介と大輔の血と引き換えに、リーヴへ返してくれた。
「神様がいるなら、僕は――」
リーヴを助けられた奇跡を思うと、もう一つの結論が出てしまうが。
「地獄に落ちるしかないじゃないか……」
7人を殺す復讐を遂げた自分の行き先だ。
「そんな事ないですから! 介くん!」
リーヴの声は、介の耳には遠い。
そしてリーヴの声は遠くとも、近くに聞こえる声があった。
「よく、頑張ったな」
それは聞き覚えのある男の声。
「地獄行き決定なのに……」
抱きしめてくれる感触。
「別にいいよ」
介は答えた。
「大輔叔父さんと、いっしょにいられるなら」
約束だ。
――ずっと一緒にいてくれるの?
それが守られて、リーヴが人間に戻れたのならば、介の望みはもう終わる。
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