第38話

 すぐに傷つく様な足では走れなかった。


 歩くだけでもじくじくと痛み、早々に引き摺る事になる。


 気が付けば血が滲み始め、アスファルトに赤い斑点が残っていくではないか。


 ロクに食事も取っていない身であるから、7月の太陽は容赦なくリーヴから体力を奪い、限界が近い事を嫌が応にも感じ取らされてしまう。


 ――いますか? いてくれますか? リューくん……。


 リーヴにとって、最も頼りになる騎士だ。リューは損得では動かない。有利か不利かすら行動の妨げにならないリューが心に秘めるのは、ただ一つ。



 聡子さとこを守る――。



 そして聡子が守ると決めたかいも、リューは守ると決めている。


「は、はーん。はーん!」


 聡子の家に辿り着いたリーヴは必死で叫んだつもりだったが、限界に達している体力では声すらかれてしまっていた。


 ――リューくん……。


 声が出なかった事で、リーヴへ疲れが一斉に襲いかかる。それは立っていられない程に。


 道ばたに倒れても、リーヴへ向けられる周りの目は酷く冷たかった。


 それもそうだ。


 ただでさえ愛嬌あいきょうがある訳でもない、不細工な黒ネコなのだ。


 生きていれば保健所、死ねばゴミ処理場へ連れて行かれるのが野良ネコの運命。


「はーん……」


 最後の力を振り絞ったつもりの声も、自分でも聞き取れないくらいでしかない。


 ――ダメかも知れません……。


 何百回と繰り返してきた死も、慣れるのは自分の事だけだった。自分が死と介を救う手が潰える事がイコールになる現実は、太陽よりも容赦なくリーヴの心を焼く。


 だが意識が消えてしまう寸前――、


「リュー、どうしたの!? 待って!」


 聡子の声と、バタバタと窓を開けようとするリューの姿!


「わふ、わふ!」


 開かない窓に、リューは背後の聡子へ顔を振り向け、「早く開けて!」と訴えた。


「え? あ、リーヴちゃん!?」


 聡子も気付いてくれる。


 聡子が窓を開けると、リューは勢いよく走り出てきた。。


 ――リューくん……。


 息も絶え絶えという様子のリーヴに対し、リューは頑張れというかのように身体をめる。


 少しでも熱を取れとリューが嘗めるリーヴの身体は、次の瞬間、冷たいタオルで包まれた。


「大丈夫? どうしたの?」


 聡子だ。


 リーヴが何かいう訳ではないのに、聡子は濡れたタオルでリーヴを包んで抱き上げて話しかけたが、リーヴが答えるよりも早くリューが動く。


「わん!」


 聡子の袖を引っ張るリューは、リーヴの言葉は分からないが、リーヴの事はよくわかる。


 そしてリューの事は、言葉がなくても聡子が分かった。


鷹氏たかしくん?」


 介へと繋がる。



 ***



 佳奈かなは介と向かい合い、アルバムを広げていた。


「夏休みの旅行にでも行ってみる?」


 新婚旅行の写真である。


「どこ?」


 首を傾げる介へ、佳奈はフッと笑い、


「ヨーロッパの東の方」


 その国の名は――、



「ウーイラントってところ」



 ポーランドの北に位置する小国だ。


「ここ。ここよ」


 佳奈と希和が並んで写っている写真は、公園の中心に建つ像の前。


「この像の名前は、勝利の天使を抱く英雄と女神っていうの」


 幼い女の子を抱き上げている男と、寄り添う様に立つ女の像には、遠い昔の歴史に由来を持っている。


「千年くらい昔、モンゴル帝国の侵略を受けた時、王様と王妃様が最前線に出て行ったの。王様は防衛軍の指揮を執るため、王妃様は負傷者を治療するためね」


 その先を聞く事は、介にも緊張を強いる。


「……どうなったの?」


 介は声が震えていたと思った。


「王様は自分が囮になって敵をおびき寄せて、敵が来た所を待ち伏せて弓矢で狙うっていう作戦で、徹底的に戦った。それで……」


 佳奈は声を潜めたが、その表情が結果を物語っている。



「勝ったの」



 介が知っている歴史の通りだ。


「囮だから無傷じゃ済まなかったけど、王妃様も一生懸命、治療して、王様は帰ってきた。二人の留守中にお城は焼かれてたけれど、残っていた幼い王女のリーヴ姫をお城の人がみんなで守ってた。そのお城の跡が、この公園で――」


 佳奈が像を指差す。


「この英雄が王様。女神様が王妃様。で、この天使がリーヴ姫」


「そっか」


 介の顔がほころんだ。リーヴも魔女の呪いにかかる事なく、両親と共に幸福の中を過ごせた――これ以上に望む事があるだろうか。


「夏休みに行ってみる?」


 佳奈の問いかけに、介は「うん」と二つ返事しようとした。


 しかし、それを遮る音がある。


「あら? 誰か来た?」


「僕が出るよ」


 ピンポーンとなったインターフォンに佳奈が立ち上がろうとするが、先に介が立ったのは偶然か?


「はい?」


 モニターつきのインターフォンに映った姿は、野村聡子。



 ***



「野村聡子? 何でここに来る?」



 ***



 聡子と共に散歩に出かけたのも、偶然だろうか?


 聡子はいう。


「ちょっと心配してた」


 それは聞いた事がある言葉。


「本当に、もっと前から声をかけて、色々としてあげられたら良かったし、そうしないといけなかったんだけど……」


 この言葉を介が忘れるはずがない。


 中津川なかつがわ真誠まこと西谷にしたに みやびを殺し、大輔と共に復讐を誓った直後に聞いた言葉だ。


「野村さん?」


 佳奈にリーヴの事を聞いた時とは違う意味で、介は震えた。


 あの日、あの公園で介はりったけのウソを込め、聡子に「ありがとう」というしかなかった。


 今の介に、その時と同じだけのウソを総動員できるだろうか?


 青い顔をしていたに違いない介だったが、声は聡子が先に出した。


「あ、ううん」


 両手を突き出して振る聡子。


「ごめん。別にいい。諦めは、良い意味で前向きになった事だっていうから」


 介の何かを読み取ったかのような言葉だった。


 それで終われば、介はこのまま眠っていられたかも知れない。


「諦めるっていうのは、って意味なの。明らかだから、そうなんだって受け入れられる」


 明らか。


 ――僕は……。


 今、介が明らかに見ているものは、果たしていくつあるだろうか。


 ――お母さん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん……。


 優しい言葉をかけてくれて、元気な姿を見せてくれているけれど、忙しかった母が、しかも介護が必要な祖母がいるというのに、海外旅行の話をした。


 ――地浜ちはまさんと小蔵おぐらさん……。


 その二人が介に何もして来ない。道徳の授業も歴史の授業も、介は真っ向から違う意見をいったのにも関わらず。しかも身長の事を友幸ともみが話してきた時、介は曖昧な事をいわず、ハッキリと友幸の不明を指摘している。


 違和感が蘇ってくる。



 何も明らかに見えていない!



 しかし――、


「大輔叔父さん……」


 苦しい死に方をしなかった大輔。


「リーヴ……」


 不幸な運命に引き摺り込まれなかったリーヴ。


 それは明らかに見えていないにしても、介にとって真実にしたいのだ。


「普通の幸せが、みんなのトコに……」


 ここは異世界でも、真の世界でもなく、夢なのだと思い始めるが、だからこそ醒めたくないと思ってしまう。


「大好きなみんなが、誰も不幸になってなくて、みんな一緒に馬鹿な事やって、下らない事で笑って、笑っちゃうくらい当たり前の幸せが……」


 訴える様にいう介は、全て気付いている。


 右手にずしりとした重みを感じさせるに目を遣ると、鈍色にびいろに光る銃身を備えた銃――大輔がくれた最後の武器。


「ああああ……」


 絞り出す様な声と共に、介は明らかに見た。


「見えちゃったんじゃない。見たよ」


 介は銃口を自分へ向け、引き金を絞るしかない。

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