第37話

 ノイズが晴れると、かいは自宅の玄関にいた。


「え?」


 強くなっていく違和感が介を立ち止まらせていると、リビングダイニングから母親の佳奈かなが背伸びして覗き込んでくる。


「何してるの?」


「え?」


 目をしばたたかせる介に、佳奈は溜息を吐いて近づく。


大輔だいすけ叔父さんの事?」


 大輔――介の違和感が最も強まる名前である。


「大輔叔父さん……」


 会えていない名前だ。


 母親も祖父も祖母もいる。


 5人まで殺した仲良し7人組も全員、いる。


 ――でも大輔叔父さんは?


 会っていない。


「大輔叔父さんは……?」


 介の問いに対し、佳奈は――、



「最期まで好きな事してたんだから、大輔叔父さんは幸せな最期だったでしょ?」



 大輔は、この世界でも死んでいるという事。


「下手の横好きで野球なんてして、サヨナラホームインが最期になるなんてねェ」


 溜息ためいきく佳奈に、介は思わず笑ってしまう。


「野球? 大輔叔父さんが?」


 それは聞いた事がない。BBQが好きだった思い出はあるが、アウトドア好きという訳ではなく、寧ろインドア趣味ばかりだった印象の大輔だ。


「何? 大好きだったじゃない」


 ほらと佳奈に示された棚は、家族写真が入った写真立てを並べているところ。介の成長に合わせて写真館で作ったパネルの中には、祖父母や母親、また亡父と映っている写真もあり、その中に一つ、大輔のものがある。


 介が手に取った写真の中で、大輔は赤いつばにクラウンが白、藍色、赤の三色に塗り分けられた野球帽を被り、なかなかサマになったフォームでバットを握っていた。


「ホントに下手の横好きで、ヒットなんて滅多に打たないのに、その時に限ってヒットとエラーで2アウト3塁になんてなっちゃってさ」


 溜息を繰り返す佳奈は、弟の姿を思い浮かべているのか、目を細め、頬に手を当てている。


「サヨナラのランナーだって、相手の失投で思わずホームに突っ込んじゃったのよね」


 繰り返される溜息。


「ワイルドピッチに合わせたダッシュからのヘッドスライディングでのサヨナラ勝ち」


 ホームインの瞬間に脳溢血のういっけつだったというのは、笑うべきだろうか、それともドラマチックというべきか。


 それが繰り返されている溜息に、「大輔らしい」という意味を込めさせている。


「そっか」


 介は溜息ではなく、ホッと嘆息した。


 そして出てくる言葉は――、


「よかったよ」


「よかった?」


 目を丸くする母親に対し、介は写真立てを自分が写っている写真の横に戻し、


「苦しまなかったのなら、楽しかった中で静かに逝けたのなら、よかったよ」


 えびす 健沙けなさを道連れに、炎上する愛車の中で焼け死ぬなどという最期ではなかったのだ。


 大好きな野球をして、しかも皆の歓声を浴びながらの最期だったというのなら、最高ではないか。


「それに、大輔叔父さんらしいよ」


 介も、大輔の最期が笑い話なのか、格好いい話なのか、そのどちらにしてもネタとして美味しい――大輔が最も好む最期だった事はわかる。


「だったら、いいよ」


 違和感は、幸福感で上書きされた。



 ***



 ただ一日だけならば、リーヴは何も思わなかった。大輔の死は、叔父の死という以上に、唯一の味方であり、死線を潜り抜けてきた男の死である。介の消耗は想像できないくらいだ。


 一日中、眠っている原因になるのも当然というもの。


 だが翌日が昨日になっても目を覚まさなければ、流石に気付く。


 ――攻撃されてる……。


 介の母親と祖父母が焼き殺された夜も、消防や警察への通報が遅れに遅れた理由は、皆が眠ってしまっていたからだった。



 それを可能にするのが精神感応の魔法。



 殺傷力を持たない魔法だが、人を殺してしまう方法はある。


 7月の気温だ。


 睡眠中の人が熱中症になるのは珍しい話ではない。


 何より3日間、一切の水分を取らなければ人は簡単に死ぬ。


「はぁ、はぁ……」


 台所と寝室を何回も往復し、リーヴは水を運ぶ。しかしネコの身体では、それも限界がある。飲ますにしても口移しするしかなく、リーヴは子ネコほどの体格しかない、痩せた野良ネコなのだ。


 二日目の夜を越え、三日目の昼を迎えてしまった時、リーヴのありとあらゆるものが絶望に染まっていった。そして間の悪い事に、リーヴが持つ治癒の魔法は怪我には効果があっても、病気には効果がない。


「起きて、介くん……」


 息切れも整えないまま、リーヴは眠っている介の顔に鼻先を擦りつける。


 叩くのも、耳元で叫ぶのもやってみた。


 それでも介は起きない。


 居心地のいい夢によって、介自身が目覚めるのを拒否しているからだ。


「介くん、起きて下さい……。介くんがいてくれたら、もう私はこのままでも構いません。二人でいられたら。もうそれだけで十分です」


 ネコの姿では泣けないが、リーヴは声を絞り出していた。


「起きて……」


 祈りだけでどうなる訳ではないというのは、この数百年でリーヴが思い知らされてきた事であるのに。


「助けて下さい……。誰か、助けて……」


 応えてくれる者は、この部屋にはいない。


 友幸ともみの予知は、介が一人では絶対に抜け出せずに死ぬ事を見せたのだ。


 介だけでは無理。


 リーヴの叫びが介に違和感を覚えさせているのかも知れないが、それだけでは不足している。


 そこでリーヴは、介が攻撃され初めてそばから離れた。


「ある……あります!」


 か細いが、糸が繋がっている。


 リーヴも同じく、この2日間を水だけで過ごしているため衰弱しているが、それをなだすかし、誤魔化して、どうにかこうにか動く。


 キッチンの向こうにある小窓を開け、小さい身体でも窮屈そうに抜け出した。



 ――リューくん、聡子さとこちゃん!



 今、介の味方になってくれる最後の二人。


 助けを求めて部屋の外に出る。


「熱ッ!」


 太陽に熱せられたアスファルトは40度という高温であるが、リーヴは歯を食い縛って走った。ネコも犬には及ばないが、人間の一千倍の嗅覚がある。聡子が乗っていた自転車と、それに併走しているリューの臭いを、必死に嗅ぎ分けていく。


 ――わからない……わからないけど!


 集中しろと奮起して、リーヴは走る。

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