第22話
必死で自転車を
自転車のスタンドを立てる時間すら惜しいとばかりに廃工場の中へ入りった介は、機械の影に隠れる。
「はぁ、はぁ……」
夏の夕暮れは、気温と湿度で介の身体を蝕んだ。
――隠れなきゃ。
額からこぼれ落ちる汗と、荒れた呼吸がもどかしい。それが原因で見つかってしまうのかと思ってしまうのは、やはり大輔の言葉があるからか。
――精神感応か水が潰れててくれると助かるな。
水は恐ろしい魔法になると大輔はいった。
汗は、その「水」ではないか!
無論、
掴んでいる訳ではないが、介の脳裏には最も危険といわれた魔法が浮かんでくる。
――急げ、急げ!
呼吸を整え、汗を引かさなければならないが、換気など考えていない廃工場の中は蒸し暑く、その湿度も水の魔法には有利に思えてしまう。
――狩人は、敵の領域に踏み込まない。自分の領域で勝負する。
大輔の言葉に
成る程、隠れるにはいい場所だ。散らかり、荒らされた廃工場には、身を隠す場所はいくらでもある。
しかし立地は――ここは寧ろ、
毅世子は介よりも慣れ親しんでいる。
この廃工場がどちらの領域かといえば、寧ろ濱屋毅世子の領域だ。
介が逃げた方向に当たりをつけるのは容易い。
そして廃工場の前に乗り捨てられたような格好で横たわっているスポーツ自転車は、格好の目印だった。
「おーい」
廃工場の入り口からの声は、毅世子である。
「おーい」
もう一度。
その声に、介は口元を手で押さえ、無理に口呼吸を止めた。しかしハァハァという呼吸音すら恐ろしく感じてしまうのだから、荒くなる鼻呼吸すら恐怖を掻き立てる。
――バレてる。
それでも口を押さえる手を左手――介は右利きだ――にした事は、まだ冷静さを保てていた証拠か。
空いている右手で、買ってきたジュースを開封する。
リーヴが運んでくれた水鉄砲のタンクに注ぐ。
――音、立つな……。
介の祈りは届いているのかいないのか、毅世子はフラフラと歩きながら、声を廃工場の高い屋根で反射させる。
「あの時、最高だったよ」
まだ毅世子は介を見つけていない。
視線を巡らしつついう言葉は、介を怖がらせるか、或いは怒らせて居場所を探るため。
出す話題は――、
「バーベキューの焼き加減」
介の手を止めてしまう一言。
「ジジィが焼け死ぬトコ」
不自由な身体に鞭を入れ、介を玄関まで運んだ祖父。
「わめき散らして暴れて、バカみたい」
炎の中に引き摺り込まれた
「あの慌て振り、笑うしかなかった。この人、死ぬんだなぁって」
祖父に対する
「でも良い経験ができた。アンタのジジィのお陰で、やっぱ死ぬのは絶対、嫌だなぁって思えたから」
効果は
――タンクは八分目くらいまで入れて、ポンプ。
感情を押し殺し、介はタンクを水鉄砲にセットする。
そして大輔が作ってくれた細工を、手動ポンプだったところにつけられた赤いボタンを押す事で動かす。
大輔は小型モータを組み込み、半自動のポンプに変えていた。
しかし、この場所では、小さなモータでも駆動音は響いてしまう!
「そこかぁ!」
毅世子が目を
「おおおーッ!」
介は雄叫びを上げながら構えた。モータは水鉄砲の限界ギリギリまで圧力を高める。手動ならば7メートルが精々のところ、20メートル近く射程を伸ばす程に。
毅世子は射程に入っている。
一撃必殺の武器となるが――あくまでも、当たれば。
大輔はいった。
――右手で押して、左手で引け。銃は、そのプレッシャーとテンションで支えろ。引き金は、絞れ。
その全てを今、介は実行していなかった。
射線は完全にブレている。
「ハズレ!」
そして毅世子から放たれた魔法は、介を
その魔法は――、
「ゴボッ!」
介を溺れさせる水。
祖父の最期に言及したのは、毅世子が関わっていなかったからだ。
足を切断されて炎の中へ引き摺り込まれた内訳は、切断したのは風、引き摺り込んだのは念動、炎を起こしたのは雅と、毅世子は自分が全く関わっていないところを口にしている。
気管に体液を詰めるという方法は、介の母親を殺した手段だ。
「コポ……ゴブ……」
倒れる。
毅世子は倒れた介へと近づきながら、
「三匹もは殺せないなぁ。一匹にするか」
笑いながら告げた。
――三匹? 一匹?
介に残された思考が向いた事を確信した毅世子は続ける。
「お前か、ブサネコか、おっさんか。お前が選べ」
これ以上にない笑顔を浮かべ、
「死ねばいい奴だよ!」
介が選んだ相手を殺してやる、と。
――こいつ……。
介の顔を歪ませるのは、窒息のためか、怒りのためか。
介が倒れたまま掴んだのは、ポケットに挿されていたボールペン。
「役立たずしか持ってないじゃない。どうするの? そんなので」
嘲笑する毅世子の目の前で、介はボールペンを……、
自分の首に刺した。
「あーあー、自殺? 自殺がお前の選択なの?」
こんな笑い声よりも、介の耳に残るのは大輔の言葉だ。
――介くん。ボールペンとメモ帳を渡す。気付いた事がある度にメモして。そのほかにも役に立つかも知れないし。
ボールペンは役に立った。介が突いたのは、正確にいうならば首よりも喉。
――気管は、喉の中心だろ。咳が出るのは、鼻から喉にかけて詰まったからだ。
母親が看護師だった介は、知識として持っていた。
喉を突いたボールペンから芯を抜けば、気道が確保される。
突いたのは、毅世子が塞いだ部位より下だった。
激痛と恐怖に打ち勝てば、ボールペンの軸を通し、呼吸が戻る。
それを毅世子は知らない。
十分な空気を送ってくれる訳ではないが、それでも腕を動かすには十分だった。
――赤いボタン。
モータを始動させるのも、悪あがきだと毅世子は笑っている。
モータがリミットいっぱいの圧力を溜め込んだ次の瞬間、介は残された全力を身体に叩き込む。
――お祖父ちゃんに比べたら、何だってんだよ!
毅世子がバカにした祖父は、右半身に麻痺が残る身体で介を担いでいったのだ。
今度は大輔の教えを忘れない。
――銃はテンションとプレッシャーで支える! 右手を押して、左手を引いて、その力で引き金を絞り込む!
それを実行すれば、外す様な距離ではない。
「な――!」
毅世子の顔面に浴びせられた濃い黄色の液体は、炸裂した次の瞬間から毅世子から言葉すらも奪った。
「マンゴージュース」
介が選んだ。
「マンゴーはウルシ科だ。肌についても荒れるはず……」
これも賭けには違いないが、介も知識を総動員して掴んだ可能性ならば賭けられる。
事実、まともに浴びた毅世子は、七転八倒させられていた。
鼻から吸い込んでしまい、気管などすぐに塞がれた。
口から入って食道を
腹から胸までがこれでもかと膨れあがれば、最早、咳すらままならない状況が訪れる。
「た……た……ごぽ……ご……」
声すら喉から
――助けて。
毅世子は誰に助けを求めただろうか。
――お……母さん……お母さん! お母さん……ッ!
あれ程、嫌っていた母親だった。
――何で? あんなに嫌いだったお母さんに、何で会いたくなるの?
寝ている母。
――助けて。そばに来て。
娘よりもスマートフォンを見ている母。
――お母さん、こっちを見て……。
もう母親は、毅世子の姿を見る事はできない。
魔法少女の最期は、何の痕跡も残せないのだから。
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