第8話

 大輔だいすけのアパートは本来、核家族向けの2LDKである。


「上着とか鞄は廊下にあるポールハンガーにかけるといい」


 鞄をポールハンガーにかけながら、大輔は階を手招きした。


「寝室は左の奥。介くんはパイプベッドを使うといい」


 6畳間の寝室には大輔が使っていたパイプベッドがあり、


「荷物を置いたら、買い物だな。俺のマットレスと、かいくんの整理せいり箪笥だんすもいる」


 衣装持ちとはいえない大輔であるから、寝室にある整理箪笥に余裕はあるが、大輔は「介には専用品を用意する」と決めていた。


 そして寝室の隣は物置にしていおり、散らかり放題になっている


「ちょっと後になるけど、物置にしてる部屋を掃除して、介くんの部屋にしよう」


 一日仕事になるな、と考えたのが顔に出てしまうと、それはどうしても苦笑いになってしまい、苦笑いは介に眉尻を下げさせてしまう。


「ごめんね」


 迷惑を掛けるという意識は、今の介には不必要な程に大きくなっていた。


「ん? いいさ。机とか揃えなきゃダメなものを揃えてからだろ」


 大輔はグシグシと、少し乱暴に、しかし甥にいたずらする雰囲気で頭を撫でる。


「幸い、一週間くらい休みなんだ、俺。その間に、色々と揃えていこう」


 苦笑いなど消して、大輔は必要なものを指折り数えていく。


 ――学習机と椅子、整理箪笥、椅子の下に引くカーペット、俺のマットレスと、介の食器とかもいるか。ああ、ランドセルもいるな。


 なかなかの出費になるのは仕方がないと覚悟しているし、それなりの貯金がある。真誠まことが見立てた通り、大輔とて年収1000万などというレベルにはいないが、人口比でいえば上位6%に入るくらいの収入だ。


 ただ、こういう計算をすると、どうしても名前を一人、思い出してしまうが。


「……義兄にいさんは、凄かったんだな」


 これから相続がどうなるか分からないが、介の亡父が残した遺産は、介を楽々と大学まで進学させるに足る額だった。生活費は稼ぐ必要があるが、それは大輔でもできる。


 ――よし。


 気合いを入れ直す大輔の横で、対称的に介は小さくなってしまっていた。


「お父さん……」


 大輔の呟きは、どうしても介の耳に入ってしまう。今までの寂しさは父親がいない事だけだったが、これからは母親、祖父母まで加わる。


「でも俺も、義兄さんにはできなかった事ができるんだよ。


 大輔はヘッと鼻を鳴らし、居室にしているLDKへ入り、


「ほら。とりあえず昼飯までゲームしようぜ」


 独身男性のマストアイテムであるゲーム機は、介が持っていた以上の種類がある。


「それに、セーブデータはサーバ保存だろ? 俺の本体でも介くんのアカウントでログインしたら、続きができるんだ」


 こういう知識だけは、実父の希和よりも大輔が上だ。


「うん」


 介は、自分では上手い笑顔を作れたつもりだった。



 ***



 どうしても平日は、放課後に遊ぶ時間が少なくなるため、今日は敬香けいかたちも遊べる時間は帰路の何分かだけ。


「じゃあ、また明日」


 敬香へ手を振って分かれた真誠は、自分の家の門扉を開ける時と玄関を開ける時の2回、溜息を吐かされた。


 真誠は、ここを家とは思っていない。


 スラングでいうならヤサ、漢字でいうならねぐらだ。


「どうせ、またいるんだろうな」


 玄関を開け、すぐ見える居間に、顔を合わせるのも苦痛の相手がいる。


「おまえりなさい!」


 開けっぱなしの襖の向こうから真誠へかけられる声は、真誠よりも年下がかけたのなら、元気のいい声だと感じられただろう。


 しかし発したのは、中学生か高校生か、それくらい真誠よりも歳の離れた姉だった。


 そんな姉の声に、真誠が抱ける感情を、そのまま言葉にすると4文字になる。


「うるさい」


 年相応の振る舞いができない姉は、軽度の知的障害があった。拘りが強く、その拘りは時として人の権利や持ち物に対する遠慮といったものを無視して発揮されてしまい、実はこの時もそう。


「はぁ」


 溜息を吐きながら鞄を下ろした真誠は、着替えを――、


「また……ッ」


 服に伸ばしていた手は、途中で止まっていた。


 用意されている服は、姉のお下がり。


 これが、真誠は我慢できないのに、我慢する以外にない事のひとつ。一年や二年で着られなくなる子供服なのだから、上の子から下の子へ譲られるのは、中津川なかつがわ家でなくとも常識だ。


 しかし真誠が軽蔑に近い感想を抱いている姉のお下がりというのは、どうしても嫌悪感がついて回る。


 毎日、この瞬間は、自分を押し殺すのに時間をかけるしかない。


 時間をかけ、仕方がないのだと胸中で繰り返してから、服を着替える真誠。


 そして居間にいる姉を振り向き――、


「何してんの!」


 家の中をバタバタと音を立てて走る真誠は、姉が今、プレイしているゲームに目も歯も剥いた。


「これ、私のでしょう!?」


 このゲーム機だけは真誠の専用機である。


 それを姉がプレイしていた。


「何をしてるの!? 何をしたの!?」


 コントローラを取り上げ、ステータスや集めたキャラクターを調べていく。


 調べて――、


「なんて事してくれたのよ!」


 集めたキャラクターが、ズタズタとしかいいようのないパラメータと状態にされていた。


 どれだけ苦労したんだと思っているんだと姉の首を絞めかけてしまうのだが、姉は真誠が何故、怒っているのか理解していない。


「ネズミですか?」


 大好きなネズミをモチーフにしたキャラクターだから、それで遊んでいただけだ、というのは言い訳ではなく、姉の事実だ。


 遊んでいた。


 その結果、妹のキャラクターがどうなったかは、姉の理解の範疇はんちゅうにない。


「ネズミですか?」


「返せよ、私の! 私の――」


 怒声が続けば、別室で夕食の支度をしていた中津川家の母が慌ててやってくる。


「どうしたの? ゲーム?」


 テレビの画面がそうなのだから、二人のケンカの原因がゲームだという事は一目瞭然。


「何でこいつが、私のゲームを無茶苦茶にしてるの!?」


 吠える真誠だが、溜息を吐く母親が肩を持つのは、真誠ではなく障害を持つ姉の方。


「あのね、お姉ちゃんは、病気なの。優しくしてあげなさい。ゲームは、取り返しがつくんでしょう?」


 いつも、こうだ。


 ゲームは取り返しが付く。その通りだ。時間はかかるが、同じキャラクターを育成する事はできる。


 しかし真誠は、可能か不可能かの話をしていない。


「今まで、どれだけかかったと思ってんのよ。これから、どれだけかかると思ってんのよ。これまでを全部、無駄にされ、これからしなくてよかった無駄な時間を――」


 何度も繰り返して来た事だ。


 だから答えも繰り返される。


「ゲームする時間が無駄だって思うなら、止めちゃいなさい」


 真誠からの反論を封じてしまう、親の強権だった。


「お姉ちゃんも、自分の機械を使ってね。気を付けないと」


 真誠よりも随分、優しい声をかける事も、真誠の怒りの炎に油を注ぐ。


「ネズミですか?」


 姉は、自分の拘りしか口にしない。


 ――こんなのが……。


 真誠はあごが痛くなるくらい、強く歯を噛みしめて、


 ――何で、私にはこんなのしかいないのに、あんなカス……カス……ゴミ野郎は、ああなのよ!


 相応しくない家族。


 ――鷹氏たかし……鷹氏ぃ!


 今日、見かけた介が乗り込む大輔の車。


 3ナンバーで高年式の高級車。


 それに比べ、中津川家にある車は十年落ち――しかも中古で買った軽自動車だけだ。夏はエアコンの効きが悪く、後部座席に乗っていたら我慢大会の様になる。逆に助手席に乗ると、エアコンフィルターのかび臭さに鼻が曲がりそうになってしまう。


「ケイタカ、あんた甘いよ」


 大嫌いな姉と、そんな姉ばかり贔屓ひいきする母に背を向けた真誠は、肩で息をしながら、「鷹氏 介、鷹氏 介……」と繰り返していた。

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