第6話

 大した事はないというのは、飽くまでもかいの感想だ。小学校にあるチョークは炭酸カルシウムを主原料とし、子供が口にしても安全な様になっている。一本、丸かじりするならば兎も角、スプーンに乗っていた程度の粉ならば心配はない。潰されていてもプリンはプリンであるし、ご飯に付いていた黄色もカレーなのだから。


 我慢すべき事柄は不快感だけ。


 その不快感も、聡子さとこがくれたプリンの甘さで介はいえる。


 ――大した事ないから。


 ただし、聞かれれば、だが。


 帰路に就く介は、これもいわない。日常に持ち込んではならない非日常に属する事だから。


 それを見送る羽目になった7人は、介とはあらゆる意味で対称的であった。


 誰にも聞かれずとも敬香けいかはいう。


「よくも恥を掻かせてくれたな」


 バリバリと不自然な音を立てさせてする歯軋はぎしりは、敬香の怒りを示していた。



 介が大した事ない出来事は、敬香を始めとする7人にとっては天地がひっくり返るような大問題だ。



 敬香の隣に立ち、オレンジ色に染まり始めた校庭を見ている友幸ともみの顔にある表情にも敬香と同じものが走っている。


「泣けよ、面白くないんだから」


 介は、このクラスで最も劣っていなければならない。


 母子家庭なのだから貧乏で、運動もできず、だから「できる私たち」の顔色をうかがって過ごし、何か失敗した時の責任を取らされるのが、介のだ――この7人は、そう主張する。


 口々に介がどれ程の事をしてくれたのか、怒りに侮蔑に、この世に存在するあらゆる悪口を繰り広げて罵倒する。


 しかし本番は、いえる言葉を出し尽くした後だった。



「殺す?」



 その言葉は、友幸から出て来た。


「もういいよ。あんなヤツ、身の程を教えて、無様に命乞いさせてる所を――」


「待って、友幸」


 ぶっそうな事をいい始めた友幸を毅世子きよこが止めた。


「いい? そうじゃないでしょ」


 しかしそれは、「殺す」という非常識な言葉を窘めものではない。


「私たちは、鷹氏たかしを鍛えてるの。このままじゃ、あいつ、苦労するよ? 介なんてキラキラネームつけられて、知ってる? 進学や就職の時、キラキラネームは親の教育の程度がバレるから落とされるって」


「あ、聞いた事ある……かも」


 みやびがパンッと軽い音を立てて手を叩いた。


「だから、せめて心と体を鍛えてあげないと。私はそういうつもりで鷹氏と遊んでるわ。ケイタカもそうでしょ?」


 と、毅世子は敬香を振り返り、


「もし今日の給食だって、鷹氏が自分で、もっとちょうだいっていって来なきゃいけない。スプーンを取り替えてっていってこなきゃ間違いよ。それをしなかった。だから私たちは、もう一つ、大きな試練を与えなきゃならなくなった」


「そうだな」


 敬香は大きく、何度も頷いた。


「荒療治になるけど、死んだ方がマシな状況でも、生きていける強さを身に着けてもらう――これは、最後の修行のつもりだったんだけど、仕方ない」


 敬香はもう一度、介が帰って行った道を見下ろした。


 夏の日は長いといっても、空から差す光はオレンジ色から青、藍色へと変化し、夜を迎える準備を始めている。


「行こう」


 宵の街を7人の女児が行く。


 もう気が遠くなる程、昔、神に選ばれた女に与えられた力を秘めて。


 濱屋はまや毅世子きよこは父親がいなかった。


 地浜ちはま友幸ともみは父ばかりか兄までもが義務教育だけで働かなければならなかった。


 えびす 健沙けなさは、両親が共に額に汗して働く事なく、自分たちの身の上を嘆いていた。


 西谷にしたに みやびは勉強が嫌だから、15になったら魚屋でも始めるといっていた。


 高橋たかはし悟依さとえは平凡な身の上でも、自分には相当な価値があるはずだと考えていた。


 小蔵おぐら敬香けいかは優秀な兄と姉がいたため、自分も優秀だと証明したかった。


 中津川なかつがわ真誠まことは――、


「行くぞ」


 真誠の意識を敬香が自分の方へ向けさせた。


「教育してやろう」


 敬香がいった教育とは、――トンボやセミの羽をむしり、アリの餌食にしてしまう児童の考える事は、常軌を逸しているはずだ。



 ***



 その日の夕食を、介はいつもとは違って旺盛に食べた。昼の給食がそんな調子だった事よりも、反撃できた事、そして聡子が認めてくれた事が好機となって。


 その表情は、隠しているつもりでも隠し切れていない介の心情を窺い知らせるもので、丁度、入浴してリラックスした年恵としえに、思わず呟かせた。


「介のあんな顔、久しぶりに見たね」


 関節リウマチで介護を必要とする年恵のため、入浴を手伝っている介の母親・佳奈かなは、「そうね」と小さく溜息を吐いた。


 そして「本人がいわないから聞かなかったけど」と前置きし、


「学校でなんか有るんだろうなとは、思ってたけど、それが少しよくなったのかも」


 小学生に隠し事があるのは、当然というべきか、そうではないのか、それは年恵にも佳奈にも分かっていない。聞き出して解決するのが親の務めともいえるし、介が自分で話さないならば自立を促すために聞かないというのも、選択肢のひとつである。


 年恵と佳奈は、介がいわないならば聞かない事を選んだ。


 それを指して、無視をしたとはいえない。


 湯船に浸かって目を細めている年恵は、リビングで介と哲治が見ているテレビの音を聞いている。



 鷹氏家の大人が選んだ選択肢は、「見守る事」だ。



 だからこそ介の変化に気付けた。


「あの子は、希和のあさんに似たんだよねェ」


 年恵が口にした名前は、介の父親である。その点については、佳奈も「そうね」と頷く。


 酒もタバコもギャンブルもせず、また趣味に散財する事もなかった希和は、真面目さと引き換えに男としての魅力は薄かったかも知れないと思っているが、それが劣っている事の証明にならない事も知っている。


「人と争う事が嫌いなのよ」


 希和は、佳奈が選んだ夫はそういう男だった。人を貶める事も負かす事も苦手で、そもそも自分が勝つ事を想像するのも苦手だったからこそ、5000万を即金で支払い、妻の両親と同居する事を選べる男になれたのだと、年恵も哲治も佳奈も思っている。


 未来が読めた訳ではないだろうが、介が生まれた年に保険を見直し、一般的に大学進学まで必要とされる2500万の死亡保障に入った事も、そういう性格故だったかも知れない。


「だから――」


 介を弱い男だと思っていないのだ、と佳奈はいう。


「本当に大変な事なら、話してくれる。私は、頼られたら全力で味方になる」


 一瞬、思い出した病を得てしまった希和の顔は、「最低限、必要なものは揃ってるはずだから、すまない」といったいた時のもの。苦しいとか辛いは、終ぞ最後まで聞かなかった。


 自分の仕事、役割を全うした希和に思うのは、「男がプライドをかけてる事に口出しするな」という生き方が根底にあった、という事。


 介を父親似というのは、悪口ではない。


「それでいいと思うよ」


 年恵は笑った。


 笑ったが――、娘からの返答はなかった。


「……」


 佳奈はバスタブの縁に手を着いた格好で、その視線を宙に彷徨わせている。


「佳奈?」


 不思議そうな声を掛けた年恵は、次の瞬間、佳奈が泡を吹く光景に出くわす。


「!?」


 何が起きたのか分からなかった。


 分かるはずもない。


 佳奈が泡を吹いた理由は窒息なのだ。それは年恵に見分けられない。


 気管に吐瀉物や唾液が入った事を原因とする窒息は、湯も水も豊富にある風呂場だからといって、起こるはずのない現象である。


 だが現に佳奈は泡を吹いて昏倒し、そしてバスタブのへりに手を掛けた体勢で倒れ込むと、年恵に覆い被さる事になってしまう。


「ガッ」


 年恵の悲鳴は短い。身体をくの字に折り曲げるどころか、この字に折り畳まれて水面に押し付けられたのだから。


 できた事は精々、手足をばたつかせて水面を叩くくにいなものだ。それでも介護が必要な身体で、人一人の身体を撥ね除けるには不足。


 しかしバスタブでの大騒ぎは、脱衣所を隔てて隣接しているLDKへも伝わる。


「お祖母ちゃん?」


 哲治てつはると共にテレビを見ていた介が風呂場へと向かうが、脱衣所とLDKを隔てる引き戸に手を掛けた途端……。


「うわ!?」


 介に悲鳴をあげさせたのは、脱衣所で起こった爆発だった。


 爆発の原因は、脱衣所に設置された太陽光発電のパワーコンディショナとブレーカの破裂であり、爆発自体は小規模で、介が怪我をする程ですらない。


 しかしブレーカが作動しないという不可解な爆発は、パワーコンディショナを炎で包んでいる。


「介!」


 尻餅をついた介へ、哲治が不自由な足を引きずるように駆け寄った。介の元へ辿り着くまでにかかった時間は、1分はあっただろうか。その1分は、風呂場で水面を叩く音が消えるには十分な時間だった。


「お祖父ちゃん……お風呂が……」


 介は眼前の炎よりも、年恵が必死に知らせていた音が聞こえなくなった事を気にするタチだ。


 祖母と母がどうなったかを薄々、感じ取っている介が呆然とした顔を向けてくるが、哲治は介の腕を取り、


「それよりも、立つんじゃ!」


 炎が上がるスピードも、やはり異様な程に早い。パワーコンディショナを原因とする火災は、比較的よくある事故であるが、メガソーラーならば兎も角、家庭用の太陽光発電で起きる火災の勢いではない。


 右腕が動けばと、歯がゆく思う哲治が必死に孫の腕を取り、腰が抜けている介を廊下へ連れ出す。


 一般家庭の住宅であるから、さして広くはない。


 廊下に出れば玄関は目と鼻の先であるが、右半身が不自由な哲治にとって、介を抱えて進むのは困難を極める。


「立てるか? 介」


 背後から迫る炎の熱を感じながら、哲治は必死に呼びかけた。


 呼びかけと共に、上がりかまちへ踏み出そうとした、その時。


「な!?」


 ガクッとバランスを崩して倒れた身体に、哲治が目を白黒させる。不自由な右足がつっかえたのならばわかるが、今、バランスを崩したのは踏み出した左足の方。


 倒れ込んだ哲治の視界に入ってきたのは、L字の立体だった。


 理解に数秒の遅れが生じたのは、LDKを包み込んだ炎が背景だった事や、身体を強打した事だけが原因ではあるまい。



 L字の立体は、足――哲治の切断された足首から先の、いわば残骸とでもいえばいい代物であったから反応に数秒の間が必要だった。



 しかし足首から先を切断した激痛が哲治にあげさせたのは、叫び声であっても悲鳴ではない。


「介、逃げろ!」


 介はエントランスに放り出された形になっている。腰を抜かしていても、玄関のドアまで数歩なのだ。


「逃げろ!」


 もう一度、叫んだところで、哲治は足首をつかまれた様な奇妙な感覚に襲われる。


 反射的に視線を向けてしまうが、そこに誰かの手があるなどという事はなかった。


「逃げ――」


 まだ動けずにいる介へと声を掛けた哲治であったが、その見えない手は哲治の身体をLDKへと引き摺っていく。


「お祖父ちゃん……」


 呆然と見送るような顔をしていた介の眼前で、哲治の姿は炎の中へと消え、足を切断される激痛にも耐えた祖父に悲鳴を上げさせた。


「……」


 介に言葉など有ろうはずがない。


 呆然とする時間は、どうやっても存在する。


 抜かした腰、萎えた足に力を込め、玄関のドアに縋り付くように立ち上がった。


「早く……早く……」


 それでも簡単な解錠すらも震える手では難しく、廊下にまで及んだ炎の熱が肌を焼き始める。


 鍵が開けば、ドアは押して開ける日本式だ。


「ああッ」


 文字通り転がり出た介は、足が不自由な祖父母のためにつけられたスロープに身体を投げ出す。


 その視界に入ってきたのは、燃える自宅。不自然に渦を巻く風が、住宅地のど真ん中だというのに鷹氏家だけを焼いている。


 だが最も目を引かされるのは、その燃える鷹氏家を見ている

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