第3話

 靴に入れられた砂は払い、鞄に入れられた砂を捨てて尚、介の足は重かった。


 直接、関係はないのだろうが、頭からかぶった砂だけは払えていない。



 拭おうとはしたが、れた砂はどうやって払おうとも顔に残ってしまう。



 かいの顔に涙が滲み出していた。


 涙が砂と混ざれば、そう簡単に落ちてはくれなかった。


 ――顔は、洗わなきゃ。


 そうしなければ、自分の境遇がバレてしまう。


 それは介にとって最悪の事態だ。



 こんなを、日常へは持ち込めない。



 だが、背後から鳴らされたクラクションに振り向く事になる介の顔は、自分でも自覚できない状況だった、


「おじさん……」


 クラクションを鳴らしてきた車には、介が最も会いたいと思い、また今、最も会いたくないと思う顔があったからだ。


 叔父――母の弟である亜野あの大輔だいすけは、介の隣に車を停め、助手席側の窓を開ける。


「よう」


 明るい声をかけてくる大輔に対し、介は「どうしたの?」と、声も顔も、できるだけ取り繕って向けた。


「遊びに来るの、明日だと思ってたから」


 ゲームしようと約束したのは明日だったはず。


 しかし大輔は「何、いってんだ?」と笑いかけながら、介の頭に手を伸ばし、


「今夜、庭でBBQしようっていってたろ?」


 伸ばした手を介の頭に置き、軽く撫でた。湿り気を帯びた砂の、不愉快な感触が介の頭と大輔の手に伝わってしまう。


「何かやったのか?」


「いや、うん……」


 言い淀む介は、ぼそっと「野球……」といった。


「野球やったんだ。ヘッドスライディング! ……なんちゃって」


 果たして、この嘘は介自身が出来がいいと思っていないのだから、大輔にもバレる。


 しかし、それを態々わざわざ、口にする大輔ではなかった。


「買い出しの途中なんだ。乗れよ」


 運転席側から乗り出す様にして手を伸ばし、助手席のドアを開ける。


「その前に、スーパー銭湯でも行こう。洗おう」



 ***



 大輔は介にとって優しい叔父といえる。敬香けいかがいう通り、10歳を超えている甥と、毎週の様に叔父が遊んでいるという状況は特殊であり、40過ぎて姉の家――嫁ぎ先へ遊びに行っている事なのだから。


 ただし、それなりの事情はあるが。


「叔父さん」


 膝を抱えて湯船に浸かり、顎まで沈めるような格好になっている介の声は、少しくぐもっていた。


 逆に背を預けて伸びる様になって浸かっている大輔の声は間延びしている。


「ん~?」


 メガネを外している大輔は、ハッキリと介の顔を見る事はできないのだが、声の調子と大まかにでも分かる格好から察せられるものはいくらでもある。


 ――靴にもランドセルにも砂を入れられて、頭からもかぶせられたか?


 その告白かと思った介だったが、違った。


「男は――」


 ぶくぶくと湯を泡立てながらいう介の様子から、大輔が感じ取ったのは、ただ三文字。


 ――イジメか?


 まず大輔が思ったのはソレで、大輔にも覚えがあった。同じ区内に住んでいるのだから、世代が違っても学校の雰囲気は似ている事を知っている。


 ――あそこには、そういうのあるな。


 誰かをおとしめる事で自分の価値を確立しようという子供は、いつの時代ににもいる……とまでいってしまえば、ツッコミどころばかり生まれる話だ。大輔程度の人生経験で、どこまでの世間を知っているんだといわれそうなものであるし、つたない経験の産物でしかない。


 それでも介から見れば、十分な大人である大輔へ投げかけられる質問は――、


「しっかりしてなきゃダメかな?」


「んー?」


 あまりにも抽象的で、大輔も間延びした返事をしてしまう。


「身体を鍛えたりとか……」


 敬香や毅世子きよこのいっていた言葉を肯定するのは、介のしゃくさわってしまう。


 それを思って言葉を出すのは、大輔にとっては簡単である。


 ――そりゃ、ないよりある方がいいかも知れないけど、最低限、コレだけっていうのがあれば十分だよ。


 そういえばいい。


 だが、それを介が肯定的に受け取るか、気を遣った嘘と取るかは、大輔にはわからない。


 だから出した。


「ないならないでいいさ」


 どうとられても構わない、大輔の本音だ。


「男は情けないくらいで丁度いい。情けが――情がないヤツの方が大問題なんだから」


 大輔には介が標的になる理由は分からないし、それを探られるのを介が嫌っているのも分かっている。


 ――十中八九、理由など、どうでもいいだろ。


 それを知っている大輔なのだ。


 ――家が貧乏、金持ち。勉強ができる、できない。運動が得意、不得意。小学校入学以前の経歴……。


 後からどうとでも追加できる事にすぎないのだから、とまでいうと、やはりどれだけの人生経験を積んできたんだとつっこまれるような話であるが。


 大輔が横目で見た介が果たしてどんな顔をしていたのか、やはり近眼の大輔には分からなかったが。

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