卒業

あるふぁ

卒業

教室の窓から覗く、つぼみをたっぷりとつけた桜が、春の爽やかな風を受けてさわさわと揺れる。


僕と彼女は、文芸部の部室であるこの教室で、最後の時を過ごしていた。


向かい合わせた机の向こうに座る彼女は、つい先程卒業式を終えて、僕より一年早くその高校生活に幕を下ろしたばかりだ。


桜を眺める横顔にぼんやりと見とれていると、ふと彼女と目があった。


彼女は目の端に浮かぶ心のうちを、

「卒業したら、もう、会えないね」

とおどけて誤魔化す。


眉が下がった作り笑顔を浮かべる彼女に、僕は何も言えない。

働かない口の代わりに、そっと彼女の手を握る。


握った手から伝わるほんのりとした温かさを感じながら、僕はつい先日、彼女に告げられた言葉を思い出していた。


   ×   ×   ×   ×   ×


「私、卒業したらフランスに留学するんだ」


その日は、僕と彼女が付き合い始めてちょうど一年の記念日だった。


一日デートの終わりに僕の部屋で他愛ない話をしていた折、急に言われたのが先程の言葉だ。


あまりにも唐突で、内容がよく頭に入ってこない。

まるで頭が言葉を拒絶しているかのようだ。


「な、なんで‥‥都内の大学に行くんじゃ‥‥」


どうにか声を絞り出して、そう問いかける。


「ん、そのつもりだったんだけどね‥‥。親戚に、ファッションデザイナーを目指すなら最適な場所があるって言われて」


「それが、フランス?」


彼女はこくりと頷く。


彼女がファッションデザイナーを目指しているのは知っている。


僕と彼女が通う高校は選択授業の制度をとっており、学年入り交じっての授業も多い。

ファッションデザイナーを目指す彼女と、グラフィックデザイナーを志す僕は、度々同じ授業になった。


そこでのふれあいのなかで僕は彼女に惹かれていったわけだが、そこは割愛しよう。


ともかく、彼女がファッションデザイナーになるために一生懸命頑張っていることは誰よりも知っていた。だが、だからといって留学するなどとは思いもよらなかった。


動揺する僕に、彼女はぽつりぽつりと話す。


「もちろん、すっごく迷った。フランスなんて行ったこと無いし、知り合いが誰もいない環境でやっていけるのか、不安で不安でしょうがなかった。けど‥‥」


彼女はそこで一度言葉を切り、ずっとうつむき加減だった顔を持ち上げて僕をまっすぐに見つめた。


「一年前、あなたが私に言ってくれたこと、覚えてる?」


もちろん、覚えている。

忘れられるはずがない。


気付けば、凍りついていた喉からするりと言葉がこぼれ落ちていた。


「「あなたの、夢に向かって何の努力も惜しまない一生懸命な姿に惚れました。どうか僕と付き合ってください!」」


自然と二人の声が重なった。


「‥‥留学、最初は断ろうと思ってたんだけど、そのときにこの言葉が思い浮かんでね。あなたが好きになってくれた私を、貫き通そうって思ったんだ」


そう言った彼女は、僕の目にとても眩しく映った。


「‥‥フランスに行っても、いつでも会えるよね?僕たちは、何も、変わらないよね?」


僕の声はひどく震えていて、問いかけというよりほとんど囁きのようだった。


そんな声しか出なかったのは、きっと、この話の行き着く先が見えていたからだろう。


無限にも思える数秒を経て、彼女が目を伏せながらゆっくりと――首を横に振った。


「‥‥きっと、フランスに行ったら大変なことばかりで、ほとんど連絡できないと思う」


彼女は申し訳なさそうに目を伏せたまま、言葉を紡ぐ。


「たくさんの人の力を借りてる以上、手を抜くなんてできないし、したくない。‥‥これは、私の我儘だ。そうやって徐々に疎遠になって悲しい思いをするくらいなら、今はっきり別れた方がいいっていう。ひどいよね。ごめん」


顔を上げて彼女は、普段の下がり眉を一層傾けて、悲しい微笑を浮かべていた。


きっと僕には、彼女を責める権利があった。むしろ、彼女はそれを望んでいるように思えた。


しかし―


「できるわけ、ないじゃないか‥‥」


だってそうだろう。当たり前だろう。

夢に向かっていつでも一生懸命な彼女に、僕はどうしようもないほど惚れていたのだから。


それに、それだけではない。

彼女の声音には、僕を思いやる気持ちが溢れていた。


きっと、連絡が取れずに辛い思いをさせるより、自分を忘れて新しい人と幸せになってほしいと願っているのだろう。


その思いやりが、決意が、痛いほど伝わってきたから、だから―


「‥‥分かった。‥‥‥‥別れよう」


そう、言いきってしまった。


   ×   ×   ×   ×   ×


「ね、初めて会った日のこと、覚えてる?」


彼女が、体を外に向けたまま、顔だけこちらを向いてそう問いかける。


「うん。入学したばかりで校舎内で迷ってあたふたしてたら‥‥」


「私が、ここだよって案内したんだよね」


ふふっと小さく微笑みながら言う。


「‥‥いろいろ、あったよね。あぁ、すっごく、すっごく、楽しかったなぁ‥‥」


静かな声で彼女が呟くその声には、尽きぬ悲しみ、不安、そして何より隠しきれない愛おしさが溢れていた。


それをひしひしと感じて――


僕は意を決して、口を開いた。


「‥‥僕は、ずっと、ずっと君を応援し続ける」


「‥‥‥‥え?」


僕の言葉を聞いて、驚きと無理解が彼女を包み込む。


「え、なん‥‥だって、私たちは‥‥」


戸惑うばかりの彼女に、いたずらっ子のような笑みを浮かべて言う。


「僕は、君のことを忘れるなんてできない。たとえ、遠くに行ってしまったって、ずっと君だけを愛し続けてる」


僕には彼女のことを忘れるなんて到底できなかった。

それほどまでに、僕は彼女に骨抜きにされていたのだ。


それを聞いた彼女は、信じられないといった面持ちをゆっくりと不安げな表情へと変えた。


「‥‥いいの?きっと、会うことも、話すことさえも、なかなかできないよ?‥‥私なんかより素敵な人だってたくさんいるだろうし、私のことなんて忘れて新しい出会いを見つけた方がいいんじゃ‥‥‥‥」


おそるおそる、彼女の口から発せられたその言葉は、終わりに近づくにつれて震えていった。


そんな些細な変化さえ、愛おしく思えてしまうのだから仕方ない。


ああ、全く、僕はあまりにも――


「君のことを、愛してる」


それを聞いた瞬間、彼女が僕の胸に飛び込んできた。


「‥‥ひどい。人の覚悟を台無しにして」


顔を僕の胸に埋めたまま、彼女がぽつりと言う。


きっかり五秒、彼女はそのまま深呼吸を繰り返し、ゆっくりと顔を上げた。


そして―


「‥‥悩んで迷って、ようやく決心したのに、こんなことして。責任、とってもらうからね。‥‥‥‥本当に、ひどい人」


「うん。僕も愛してる」


「‥‥バカ‥‥‥‥」


まなじりから雫をこぼしながら彼女が浮かべた笑みは、生涯色褪せることはないと確信できるほどに、眩しく輝いていた。

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卒業 あるふぁ @Punyon

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