第一章 落ち着け。まずはお茶でも飲んで落ち着け(二回目)

1-1

 ゆっくりと意識が浮上する。身に纏わりつく粘ついた闇からズルリと抜け出すように。


 ひどく頭が重い。――いや、違う。重いのは頭だけじゃない。身体全体が痺れたように動かない。目蓋を持ち上げるのに、こんなにも力がいるなんて。


「……! 気がついた!? ああ、アデライード!」


 耳もとで声がする。まったく聞き覚えのない声が。


「リナ! すぐにドクターを呼んでちょうだい! ああ、よかった! アデライード! どれだけ心配したか!」


 バタバタという足音が離れてゆくのとともに、温かいなにかが頬や髪を優しく撫でる。

 それに誘われるように目蓋を少しだけ持ち上げることができたけれど、目に映る世界はぼんやり白んだまま。なかなか目が焦点を結んでくれない。


「気分はどう? どこか痛いとか、気持ち悪いとかはない?」


「……えっ……と……?」


「覚えてない? あなた、池に落ちたのよ」


 僕の戸惑いを察したのだろうか? 耳もとで響く声が、欲しかった答えをくれる。


 池に――落ちた?


「ドレスが水を吸って、それが重しになって溺れてしまったのよ。水を大量に飲んでしまって……ああ、本当にどうなるかと……! 一時は呼吸が止まったのよ」


 僕に語りかけてくる声が不自然に震える。

 じゃあ、身体がひどく強張っているのは、そのせいなのか?


 手を動かそうとしたものの、うまくいかない。まだ身体に魂が戻り切っていないかのようだった。だけど、痛みはない。気分もさほど悪くない。そのことに少しだけホッとする。


 っていうか――ドレス?


「二日も目覚めなくて……本当に生きた心地がしなかったのよ。ああ、意識が戻ってよかったわ。ねぇ、アデライード。なにがあったの? あなたが池に落ちるだなんて」


「え……?」


 ぎゅうっと強く手を握られて、僕はパチパチと目を瞬かせて声の主のほうを見た。

 ぼんやりとした視界の中で、声の主らしき影が揺れる。


 えっと……? さっきからなにを言ってるんだろう? この人。やたらと『アデライード』って呼びかけてくるけど、僕は神崎克之(28)だ。


 心配してくれているところ悪いんだけど、そもそもあなたは誰だ。僕は、学生のときに両親とは死別しているし、親戚らしい親戚もいない天涯孤独の身。だから僕に対して母親かなにかのような話し方をする人なんて心当たりがないと言うか、そんな存在いないんだが?


 なんか……おかしいな。


 僕は未だに動きの悪い脳みそを叱咤するように、ブルブルと頭を振った。

 そしてあらためて何度か瞬きをするうちに、次第に視界がはっきりしてくる。

 同時に、身体の感覚も戻ってくる。


「ッ!?」


 やっと、僕の手を握り締めている人物にピントが合う。僕は目を丸くした。

 美しく結い上げた明るい金髪にサファイアのごとき碧眼。中世のお姫さまのようなクラシカルなフリルたっぷりのドレスに、びっくりするほど大きな宝石がたくさんついたアクセサリー。まるで、映画の中から出てきたかのようないでたちの女性だった。


 だ、誰!? なに!? その格好。仮装パーティかなにか!?


「アデライード? どうかしたの?」


 唖然とする僕を見て、仮装女性が小首を傾げる。

 その背後にある見覚えのない重厚そうで高級そうなドアに気づいて、僕は慌てて周りを見回した。


 淡いブルーに白の細やかなラインレースと小花の柄が可愛らしい壁紙に、海のように深い藍色の毛足の長い絨毯。繊細優美な装飾が施されたマントルピース。その上には金の燭台や小物入れが。

 その前には、青いファイヤースクリーンとふかふかの布張りのシングルソファー。

 大きな窓からは眩い陽光が差し込み、もう随分と日が高いことを知る。


 な、なんだ? ここ……。しかも、広っ……!


 ベッドの右手側には、優美な曲線を描くカブリオレ・レッグが印象的な白いライティングビューローに、同じく曲線と背もたれのリボン結びの透かし彫刻が美しいチッペンデール様式の椅子が。 そして、左側にはベッドサイドチェスト。白地に金の装飾がとても美しい。上にはクラシカルなランプが置かれている。その向こうにはさらに大きなチェストとオーバルミラードレッサー、

 ベッドの足下のほう――部屋の中央には、刺繍が見事テーブルランナーがかかった繊細な装飾の白いセンターテーブルに深い青が美しいカウチソファー。さらにいくつかのソファーたち。

 麗らかな陽光が差し込む窓辺には、レースのクロスがかかったカフェテーブルが。

 壁には金の重そうな額縁に入った絵が何枚も飾られ、天井画は感嘆のため息しか出てこない。


 そして――僕が横たわっていたのは羅紗の帳が金の支柱に巻き付いた天蓋付きベッドだった。


 まるで、ヨーロッパの五つ星ホテルのスイートルームのような豪奢な部屋に呆然としてしまう。


 ど、どこだ!? ここ!


「…………」


「お部屋がどうかしたの? アデライード?」


 言葉を失っている僕に、仮装女性が戸惑った様子で視線を揺らす。

 僕は仮装女性へと視線を戻すと、おずおずと彼女の手を振り払った。


「す、すみません……。あなた、誰ですか……?」


「えっ!?」

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