第8話 3日目 朝

前世の母も、よく怒鳴る人だった。

  こちらが少しでも反論しようものなら、大袈裟に、ヒステリックに、捲し立てる。未熟な子どものまま、大人になって、母になってしまったような人だった。

  それなのに、父の前では猫をかぶる。父は何も言わない。言わないというか、家庭のことは一切気にしない、自分には無関係だと思ってる。だから、母のヒステリーを止めてくれる人はいない。子どもの頃の私達は、母を怒らせないよう、顔色を伺うしかなかった。

  それでも、私はよく引っぱたかれた。我が強くて、思ったことをすぐに言ってしまう。口答えしてくる私は、可愛くなかったのだろう。

  姉は、叩かれなかった。母との争いを仲裁してくれた。彼女は、いつも優しかった。母にも、父にも、私にも。従順で、母の言うことをよく聞いた。

  ただ、何も言えない性格なのをいいことに、母は姉のことを何でも決めた。決めつけた。習い事も、友人関係も、進路も、普段の洋服や髪型にすら口を出して、彼女をまるで人形のように扱った。

  そのことについて、私が口を挟めば、また叩かれる。悪循環ここに極まり。

  小学生の頃校庭で遊んでいると、姉が迎えに来てくれた。帰り道は、私たち姉妹が二人きりになれる唯一の時間だった。そのとき、姉に聞いた。何故、母はいつも怒るのか。どうしたら、怒られないのか。

  姉は答えず、ただ微笑むだけで。そして、決まってこう言うのだ。

ーー大丈夫よ、ナナちゃん。

ーー私がいるわ。


目が覚めると、やっぱり異世界だった。

  やたら高級そうなベッドから、ゆっくりと身体を起こす。頭には包帯、すごいデジャブ。

  違うのは、ベッドのそばにしゃがみ、ソニアがしくしく泣いているとこだ。あぁ、また泣かせてしまった。

「ソニア。泣かないで」

「ごめんなさい」

  大粒の涙がこぼれる。

「また、なにもできない、で……」

  後悔の言葉。罪の意識に潰される前の、必死にしぼりだした声で、ソニアはごめんなさいと繰り返した。

『また、なにも』

  前世を思い出した朝も、包帯を巻いていた。もしかしなくとも、あれも同じ理由だったのだろう。何度、繰り返してきたか。

「大丈夫よ、ソニア。あなたのせいじゃないのよ」

  腹の底に、どでかい鉛を押し込まれたような気分だ。

  言葉にならない怒りと、同時に、やってしまったなと後悔がわきあがる。

  私は、短気なのだ。自覚はある。

  短気な母から生まれてしまったものだから、仕方ないといえば仕方ない。

  小学生の頃、友だちにイタズラした男子を思い切りぶん殴って、めちゃくちゃ怒られた。それ以降、手は出さないように気をつけてはいる。代わりに、言われたらすぐ言い返すようになった。

  そんな反抗的なところが、気に食わなかったんだろうな。母は。

  ソニアの頭を撫でていると、戸を叩く音がした。

「レイリアス、だいじょうぶ?」

  シャルルの声だ。慌てて、ソニアは涙を拭い、立ち上がる。可愛い目元は、真っ赤になってしまった。

  私がどうぞと返し、ソニアが戸を開ける。

やってきたシャルルの顔は、真っ青だった。それでも、私の顔を見て、少し安心したように息を吐いた。

「よかった」

  彼がおそるおそるといった様子で、ベッドに近づいた。

  唇を固く結び、私の頭の包帯に眉をひそめた。何か、話があるのだろう。目が、そう言ってる。

  ソニアは、シャルルに向かって頭を下げ、部屋を出ていく。気を利かせてくれたみたいだ。

「お兄様。ご心配おかけして、申し訳ありません」

  シャルルは、ゆるゆると首を振る。そして、机の椅子をベッド脇まで持ってきて、座った。

  沈黙が流れる。窓の外は、静かだ。鳥の声も、風の音も聞こえない。穏やかで、あたたかで、不気味だった。

「レイリアスが、来たばかりの頃」

  ぽつり、彼は話し始める。

「庭を案内したの、覚えてる?」

  はい。私は答えた。本当は、覚えてなんかない。それでも、今は話が先だ。

  彼の話を、聞くのが先だ。

「君と、仲良くなろうと思った。でも……、そのあと、そのせいで、レイリアスは怒られてた。ぼくの勉強のじゃまをしたって」

  さそったのは、ぼくなのに。シャルルはうつむいた。

「ぼくが、レイリアスと話さなければ、怒られないとおもった。近づかなければ、いいって、そうおもったけど……関係、なかったんだ」

  彼は、いくつだったろうか。レイリアスと2つ違いだから、9歳か。

「ごめんね、レイリアス」

  9歳とは、こんなに痛々しく笑うものだったろうか。

  自分を、責めてきたんだろう。

  自分のせいで。自分さえ何もしなければ。

  冷たい態度をとったのは、レイリアスのためだった。

  どうすればいいのか、分からないままに。

  ねえ。信じらんないかもしれないけど、人を殴るのに、大した理由は無いんだよ。

  自分の持て余した感情を、他人に処理してもらおうとする奴って、一定数いる。

  マリー夫人はそのタイプで、きっとシャルルがレイリアスに話しかけなくても、なんだかんだ理由をつけて、怒られたろう。

  だから、シャルルのせいじゃない。そんなのはありえない。

「今日の晩餐会が終わったら、お父様と話をする。きっと、こうするべきだと思うから」

  お父様に相談するしか、この問題を解決する術はない。その通りだ。

  お父様が数日留守にしていなければ、私が直に言った。告発した。

  シャルルもきっと、何度も考えただろう。けど、彼にとって、マリー夫人は実の母だ。

  母のことを告げてしまえば、どうなるか。分からない歳でもない。

  夫婦仲は険悪。これをきっかけに、離婚してもおかしくない。

  彼の手を見た。まだ小さな拳は、震えていた。それでも、彼は泣かなかった。

  かける言葉が見つからない私は、ただ無言で頷くしかない。このまだ小さな彼の覚悟を前に、何を言えるというのだろう。

「レイリアス、ひとついい?」

「なんですか?」

「どうして、部屋を出たの?」

   反射的に、何がと聞き返してしまう。

「今まで、1人で部屋を出たことなんて、なかった。……お母様がいるのに、抜け出したのには、理由があるのでしょう」

「それは……」

  私は、言葉につまる。

  話すべきでは、ないと思う。

  信じてくれるか分からない、というのも理由だが、一番は、子どもに聞かせたくない話だからだ。

  何者かが、母を殺そうとしている。

  いや、マリー夫人のことは言わずにいたとしも、誰が毒を盛ろうとしてると聞いたら、どう思う。

  前世の、ゲームの中の彼は、外で食事をしない。

  晩餐会、お茶会の招待は全て断り、夜会などでは極力何も口にせず、学園では特別に公爵家の料理人を連れてきて、料理を作らせていた。

  他者と関わろうとしない態度を、周りは『冷徹』と評し、他者と同じものを食べようとしないのを、『高慢』と断じた。

  それだけで、分かるだろう。

  彼がどれだけ母の死を悲しんだが。彼がどれだけ恐怖したか。どれほどのトラウマになったのか。

「……」

「言えないこと?」

「お兄様を、傷つけたくないのです」

「僕を?」

  予想外だったのだろう。シャルルは、目を瞬かせる。

「きっと、聞いたらお兄様はとても悲しみます。そうしてほしくないのです」

「なら、レイリアスは」

悲しげに、シャルルは目を伏せた。違う。この顔は、案じているのか。

「レイリアスは、今傷ついていないの?」

  一瞬、何を言われたのか分からなかった。彼が、私を見ている。

「僕が聞いたら傷つくような問題を、レイリアスは抱えてる。それは、辛くはないの」

「……私は、平気です」

  私は、マリー夫人の子どもじゃない。彼女に恩義がある訳でもない。

  殴られた怒りはあるし、ちゃんと罰は受けろとは思ってる。けど、今死んでもらうのは困るから、という我ながらドライすぎる理由で救おうとしてる。傷つくはずがない。

  そもそも、自分が死んだこと以上に、傷つくことなんかありゃしない。

  私はまだ、動けるはずだ。時間はない。

起き上がろうとする私を、シャルルは止める。

「まだ、安静にしないと」

「でも……」

  レイリアス。言葉をさえぎられる。

「僕はいずれ、公爵になる」

  静かな、でも強い口調だった。

「力ある者は、決して感情に流されてはいけない。いついかなるときも、心乱されず、我らの始祖トーズラントに恥じぬ振る舞いを。それが、トーズラント家当主の在り方だよ」

  諳んじるように、彼は語る。きっと、いつも言われているのだろう。父親、教育係、それ以外の全ての大人から。そうであれ、と。

「レイリアスは、トーズラント公爵家の人間だよ。君の問題は、公爵家の問題でもある。僕は、それを知る責任がある」

  ああ、そういえばそうだった。

  シャルル・リス・トーズラントというキャラは、そうだった。

  冷静な現実主義。

  建国以来続く公爵家の歴史と、その責務を理解し、その重みを背負い立つ。誇り高い人だった。アニメでしか彼を知らないけれど、それだけで十分分かる。きっと、彼は引かない。私が話すまで、聞くのをやめないだろう。

  子どもに聞かせたくないけど、そもそも今の私は彼より年下、子どもなのだ。子どもから『子どもだから話せない』と言われて納得出来るものか。

「分かりました」

  彼は、自らのやるべきことをなそうとしてる。

  私も、やれることは全てやるべきだ。

  晩餐会は今日の夜。もう時間が無い。

「お話の前に、私からお願いです」

  この話をすれば、きっと彼は傷つく。けれど、母親が死んだら、もっと傷つく。

  最善を尽くそう。私と、お兄様の未来のために。

「家族以外で、誰か信用できる大人を呼んでください」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る