食物連鎖
たくさんの爆弾が東京に落とされたのち太平洋戦争が終わった。陸軍代々木練兵場はアメリカ軍に接収されて カラフルな家がいくつも建てられた。舗装された道路にはおおきな外車が走っていた。ワシントンハイツである。このワシントンハイツの住民を相手に商売をしていた文具屋がのちに海外からの観光客も多い玩具屋キディランドとなる。
横浜に米軍基地が移されると、都内でもこうした米軍の土地となっていた場所が返還されるものと、されないものとに分けられることとなった。広尾のホテル山王は返還されずそのまま米兵や大使館員むけの保養地となった。一方ワシントンハイツは返還が決まったあと今度はオリンピック村として再開発がはじめられた。敷地には世界初の吊り橋構造を採用した代々木体育館が建築され、そのモダニズムの優雅さは宇宙人の乗り物のようにも見えた。
そして東京オリンピックも終了すると、ついにその地は市民に開放されることとなった。これが代々木公園である。
代々木公園の隣が明治神宮。金網で区切られただけの この2つの土地は航空写真では境界線がない。2つは1つで大きな森林なのだ。代々木公園が練兵場から目まぐるしく変化したのにたいして明治神宮境内は頑なまでにその姿を維持しつづけてきた。それというのも境内は初めから壮大な実験場として設けられていたからである。実験の内容はいっさい人の手を加えず100年の時間をかけて原生林を復活させようというものだ。結果として自然は100年またずに原生林を再現させた。そしていま人類が消滅した東京ではこの原生林が急速に範囲を拡大していた。
カーキのレインコートが境内の森を歩いていく。むかう先は加藤井と呼ばれていた井戸。アスファルトが敷かれていたはずの道路は けもの道のように狭くなり苔の生えた路面で足をすくわれる。恵比寿の井戸まで行く途中にある陸橋が先日の地震で倒壊してしまった。迂回すれば済む話ではあるし、新宿や代々木など他にも井戸はある。それに新しい小川のほうも利用はしている。それでも保険として選択肢を増やしておきたい。こうした理由から気になっていた加藤井を調査することに決めた。湿地帯と化した場所を黙々とあるく。やがて透き通った湧水があふれる古井戸が見えてきた。保護色になっていて先客に気づけなかった。湧水を採取しようと手を伸ばすとそいつと眼が合った。蛇だ。前にも後にも動くことができず雨音だけが永遠に繰り返されていた。蛇のほうはといえば余裕のある動きで身体をくねらせると男に向かって長い舌をだしてみせた。雨で濡れているせいかよけいにぬめりが強調されている。こっちに来いよ。餌にしてやる。背骨にそって汗なのか雨粒なのか水滴が流れるのを不快に感じる。以前にも同じことがあったな。緊張が臨界点に達したせいでかえって冷静な自分がいたりする。蛇が口を開いて威嚇した。ナメられまいと男も反撃の姿勢をとる。次の瞬間、空気を切るような音がした。一瞬だった。頭上から黒い影が降りてきて蛇を掴むとあっという間に雨雲の空に持ち去っていった。雨が瞳に入ってその影がぼやけた。神宮の杜に巣を作っている猛禽類だ。フードが脱げて頭から濡れていくのもかまわず黒い翼を見送る。命拾いをした。我にかえり手早くリュックから水質検査キットを取りだす。くしゃみが孤独の森に響きわたった。その日から3日間 熱でうなされたのは風邪をひいたのか井戸の水にあたったのかそれともこの時の恐怖心からなのか男にも判別できなかった。
専門店でキャンプ用品一式をそろえて千葉に遠征。目的は養鶏場。あちこち探して4羽捕獲に成功した。衰弱していたものの檻に迷いこんだ虫や流れてきた雨粒で生きのびてきた強者ぞろいだ。1羽は翌朝をむかえる前に冷たくなっていた。のこり3羽は栄養状態が良くなるにつれ食卓に新鮮な卵を供給してくれるようになった。
また千葉遠征では大量の大豆と成長しすぎた大豆の苗を発見した。大豆のほうはそれで味噌作りをはじめて、苗はパークタワーの1階に植えた。
他にも収穫があった。石油基地を発見し、別の工場で石炭の山を見つけた。海岸では漁船や漁をする道具を見つけたが手にあまるので場所だけ手帳に記してひとまず放置することにした。
千葉から帰ったその夜にパークタワー最上階にのぼった。東京の夜空に星が増えていた。下界に眼をやると たくさんブレーカーを落としてきたつもりでもまだ明るい建物のほうが多かった。北の方角、ずっと遠くで炎があがった。しばらくすると炎を中心にして一帯が暗くなった。連鎖反応でこちらまで停電するかと身構えたが、取り越し苦労だったようだ。それでも万が一を考えてエレベーターをつかわずに階段を降りることにした。
「そうか。わかったぞ」
地下駐車場のまんなかに置かれたおおきな作業机。男の手によって作られたものである。いまその天板に変電所や送電網の位置が示された地図がひろげられていた。突然 声を発したせいで肩にとまっていた野鳥がおどろいて屋外へ飛んでいってしまった。こぼした乾パンの屑を払って地図を丸めると男は必要な工具を掻きあつめようとすぐに行動に移した。
遠くまで果てることなく並んだ鉄塔は、電線という鎖で繋がれた無個性な隊列だった。変電所に到着すると男はただちに作業をはじめた。最初こそ何が何やらさっぱりだったが、試行錯誤のすえに必要なしと判断した地域のすべての送電網をオフにした。これで火災が減る。おまけに東京都心部への電力供給も安定するはず。安堵して初めて周囲がオレンジ色に染まっていることに気がついた。作業に没頭しているあいだに陽が傾いていたのだ。まるで怪獣の角のような設備や恐竜の化石みたいな鉄骨が男の足元まで影を伸ばしていた。
「都会暮らしで正解だったな」
孤独を好む彼でさえ田舎の夕暮れは肌寒い。人によってはこうした山里で暮らしたほうが生存率が上がるかもしれない。実際どこかの村でサバイバルを開始している帰還者がいるかもしれないし。しかしそれでも男には都会の生活のほうがあっていた。
その日からしばらく転戦を繰り返して 最終的に港区、中央区、新宿区、渋谷区、世田谷区、目黒区、中野区を除く関東全域の電力供給をストップさせることに成功した。もし停電している地域で他の人間が復活したら。たしかにそれは懸念材料にはなる。しかしその時はその時。〝連中〟は神ではないし それはこちらもおなじこと。それにパークタワー最上階から夜の関東を見下ろした時に明るく光る地域があれば逆にそこに人が住んでいるというアラートにもなる。
農道で自動精米機を見かけたのは最も遠い変電所からの帰りであった。
「その手があったか」と指を鳴らすものの小指にはまだ鈍い痛みがのこっていた。
翌日から都内の精米店をさがす。あるところにはあるものだ。渋谷の小さな店で目的の機械が見つかった。その夜は精米したばかりの米で食事をした。もうカビの匂いのする米を研ぐ必要はない。これからは籾や玄米を調達することで生産時期に関わらず新鮮な米を食べられる。よろこばしいことに変電所を巡った際に貯蔵施設もいくつか見つけていた。夢はひろがる。あわよくば自力で生産も。
変電所めぐりや精米機さがしであとまわしにされていた釣りをひさしぶりに再開する。しばらく見ないあいだに海岸付近は一変していた。あらゆる鉄が潮風で錆びて色が濁っていた。ビルがまた1つ崩壊していた。新宿、渋谷とくらべて植物が少ないせいか全体的に色褪せている。反面 海のなかは一層透明度を増して よりカラフルな魚が泳ぐようになっていた。もはや南国の楽園と区別がつかない。釣りができなかった時間を取りもどそうと1週間ぶっとおしでかよう。最終日はキャンプ用ストーブで暖を取りながらとなった。すこしずつ季節が変化している。1度だけ例のイルカらしき生物を見かけた。仮定が確信になりつつある。皮肉なことに男が生き続けるほど哺乳類復活の確率が上がっていく。孤独を好む彼にとってそれは迷惑な話であった。大漁の日もそうでない日も男は車中でロックを流した。口ずさむとすこしだけ強くなった気がした。
雑草が色褪せて線を細くした。物理学では弱い力とされているはずの重力に抗うことができず街路樹の葉が道路に1枚また1枚と敷きつめられていった。やがて銀杏が黄金の道を、紅葉が燃えさかる道を舗装した。例年より幾分すごしやすい夏がおわって秋風が吹きはじめた。男はパークタワーから外へと飛びだすと天にむかって拳を突きあげた。
「生きている! 俺は生きているぞ」
男の声に驚いて中央公園の鳥たちが一斉に飛びたった。復活してからちょうど3か月が経っていた。
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