ゴースト オブ マーメリアン

 生活の土台となる衣食住を安定させたことにより、サバイバルは第2段階へとステップアップした。手始めに渋谷駅周辺にある釣具店で釣り具一式を入手する。潮のにおいがまろやかになったのは気のせいではない。東京湾は底が見えるまでに透明度を増し、結果として捨てられたビニール傘やドラム缶が目立つようになっていた。しかしそういった好ましくない物もちかい将来 波に揉まれるか藻に覆われるかして目立たなくなるだろう。人間が消えたと知るや魚たちは一気に東京湾を占拠していた。まるで新宿駅や渋谷のスクランブル交差点だ。漣でもこの混雑ぶりなら不注意な1匹を引っ掛けるくらいはできる。

 野草やわずかな畑の収穫物それに当面は倉庫からいくらでも手に入れられる穀物。これらに加えてあらたに食卓にならぶようになった魚はビタミン、ミネラル、タンパク質、炭水化物をバランス良く供給してくれ、気づけば男は哺乳類絶滅以前よりも健康的になっていた。


「ジンゴーベー ジンゴーベー ジンゴー オーザウェー」

 蝉の声もなぜだか鼻歌に合わせてくれているような気がする。毎日がクリスマス。場所は目黒区のロードサイド型家電量販店。駐車場の端にある水道の元栓を慣れた手付きで閉めると つづいて店内へと侵入した。テレビ売場ではかつての賑わいのままに音と映像が放出されていた。どうやら人気のあったドラマを繰り返し再生させているらしい。大型テレビの前をとおる男とテレビのなかの女優がちょうど向かいあわせの形になったタイミングで女優がセリフを言った。

「人は独りでは生きていけないわ」

 男は足を止めることなく女優に返した。

「そうかな」


 配電盤がありそうな扉をみつけて躊躇なくブレーカーを落とす。一瞬でクリスマスソングが途切れ、あたりが闇となった。むせかえる暖房もきれた。昼となく夜となく照らされていた外の大看板も今夜からはさみしくなるだろう。フラッシュライトで足元を照らしながら先程のテレビ売場をふたたび通りすぎた。

「同調圧力ばかり気になる世界より今のほうがずっと生きやすいとおもうが」


 中央公園にあらたな問題が発生した。どこからかやってきた蜂が公園を占拠してしまったのだ。容易にはちかづけない。遠くから呆然と眺めるしかない漣の頭にひとつのアイディアが浮かんだ。

「たしか都心でも養蜂がおこなわれていたな。皇居とか代々木公園とか」


 目ぼしい場所をさがしてまわり、銀座でカラの養蜂箱を、港区役所で宇宙服みたいな防護服と燻煙器を、日本橋三越の屋上で分離機やその他 養蜂にかかせない道具をみつけた。しかし1番ほしい物がみつからない。辛抱強くさがしていると10番目の候補地でようやく蜂が住んでいる養蜂箱をみつけた。原宿の洋菓子店コロンバンの屋上だ。さっそく蜂蜜を入手してやろうとして序盤で失敗した。防護服のなかに侵入した蜂は左の鎖骨のあたりと右の尻を刺した。奮闘のすえ広口瓶いっぱいの蜂蜜を手に入れたのは日が暮れたあとだった。ぼろぼろで作業をおえて道具一式を片付けると、埃を被ったブルーシートに何かが隠れていることに気がついた。あらわれたのは養蜂専用ロボットだ。高島屋デパートに並んでいたような人型ではない。どちらかというとただの機械にちかい。背後に手を伸ばして、てさぐりでスイッチをさがす。エラー表示。すくなくてもバッテリーは残っているようだ。わるくない。あとで建物のブレーカーを戻してみよう。しばらくのあいだ黙ってみまもったが エラーメッセージが消えることはなかった。この程度の知能でもだめか。

「いや」

 エラーの詳細を指でなぞると、やおら棚のなかをまさぐった。べとついて埃がとれないチップをつまむ。基盤が割れていた。AI消滅とかそういった次元の問題ではなかった。物理的に破損していたのだ。チップの横に置かれていた小箱に興味を移す。値札を見てその高額さに目を丸くしていると、隙を狙った蜂に刺されて箱を落とした。落ちた箱の中から新品のAIチップが顔を覗かせた。試してみたところでおなじでは。一瞬不安がよぎる。耳元に羽音を感じて身をよじった。勝算はうすい。だが忌々しい蜂どもにこのままでかい顔をされているのも癪だ。すくなくともこれで意気消沈していないとアピールすることはできる。虫にそれだけの判断力があればだが。男は余裕の笑みを作ってみせると養蜂箱に向かってチップを掲げた。痛みで震えが止まらない手でなるべく威勢よくチップをロボットにさす。スイッチオン。わずかな間をおいて緑色のランプが点灯した。

「コントローラーの電源を入れてください」 

 独りごとをのぞいて誰かの言葉をきいたのはひさしぶりだった。不覚にも目頭があつくなる。よごれたバケツの中にべとついたコントローラーを見つけて拾いあげた。ロボットが充電器から離れてゆっくりと動きだす。高性能なロボットとくらべたら玩具みたいなぎこちない動きだ。1メートルとすすまずにロボットはエラー音を繰りかえし こちらの歯車を交換すれだの、あちらの関節が動かないだのと主張しはじめた。そして最後にどこかから煙を出すとバッテリー充電を訴えてそれきり動かなくなった。


 その日は朝から釣れなかった。あご髭をさする指に海辺特有の湿度が絡みつく。撒き餌をしてみるも寄ってきた魚は器用に餌と釣り針とを分けてランチを楽しんだ。場所を変えてみたが蛇に遭遇して逃げるありさま。どうやら農家も漁師もむいていないらしい。なかばあきらめて遠くをながめる。海の色は青と緑の中間あたりでまるで南国の島にいるような錯覚をおぼえさせる。さらに遠くに目をやれば車も電車も止まったままのレインボーブリッジが空と海との境界線に横たわっている。近いうちに海水から塩を作れるか実験してみよう。消費するだけなら都心で売られていた在庫で充分まにあう。しかし文明を石器時代にもどしたくはない。塩くらい自分でつくれるようにならなければ。それが人としての矜持。釣り糸はあいかわらず変化がない。まあ、こんなものか。波音をBGMに無限の思考に浸る午前。

「ん?」

 思考が中断され視線が沖に注がれた。なにかくろい物体が波間からジャンプして飛沫をあげた。

「イルカ?」

 たしかにそれは水族館で見るイルカのジャンプだった。しかしそれはない。可能性ゼロともいえないが。またジャンプ。2頭いる。いや3頭。イルカではなくサメかマグロかもしれない。だがもしイルカかクジラかシャチならば。いやまて。なにを期待している。閉塞感で満たされたあの時代に、同調圧力に潰されそうになっていた あの時代にもどりたいのか。しばらくそんなことを思いながら なにかがジャンプしたあたりを凝視していたが、それ以上は穏やかな波間のまま変化がみられなかった。太陽をあおぐ。カモメが影をつくっていた。ヒラメが釣り糸をひっぱった。


 ひび割れたアスファルトから雑草がのびている。倒壊した建物をよけながら車が走る。緊急停止したまま動かないタクシー。センターラインに横たわる歯医者の看板。釣りの帰りにはきまって通ったことのない道路をえらぶ。建物の電源を落としたり、出しっぱなしの水道をとめたり、つかえる道具がないかと物色したり。状況によっては帰りがおそくなることもある。そうやってすこしずつテリトリーを広げていく。

 その日は渋滞にぶつかった。いくつかの条件がそろうと稀に起きる。滅亡の瞬間に道路が混雑しており かつ先頭車両になんらかの問題があるとAI搭載車でさえ脇道に寄せることができずその場にとどまってしまう。ピックアップトラックを降りて先頭車両へと歩いてゆくと案の定 信号の手前で旧車が2台 今にもドラッグレースを始めそうに止まっていた。偶然だろうか。それとも仲間同士で本当に競争していたのだろうか。趣味はわるくない。R32とRX7。2台ともアイドリング状態が続いていたためにガソリンは空だった。まずは1台のドアを開けて全身で押してみる。GTRのゆっくりとした動きに合わせて後続車が順番に道路脇に移動しはじめた。この程度なら交通管理システムが機能していなくても自走で解決する。次はRX7。ハンドブレーキを降ろして全身に力を込める。喉の奥からうめき声を絞りだす。バックミラーに吊るされたキーホルダーが揺れて額にぶつかった。邪魔だなと睨むとイルカのデザインだった。車を押す動きに合わせてイルカがスイングしている。なおも車を押しながら男は思いかえした。〝連中〟は言った。質量はおろか空間さえ存在しない場所で。準備が整い次第人間を投入していく。そしてこうも言った。もし君が失敗したなら一度白紙に戻さなければいけない。いまのところはなんとか生きている。もしかすると実験は前倒しで成功とされ既にどこかの国で自分以外の人間が投入されているのかもしれない。人間以外の動物も同様に。連中が欲しているのは人の穏やかな生活ではなく宇宙の調和。いつまでも唯一の哺乳類と信じているほうがおめでたいのかもしれない。

「なんとか現状を把握できる方法はないものか」

 ロータリーエンジンが積まれたボンネットに座って後続の自動車が脇によけるのを眺めながらつぶやいてみる。シャツの肩で汗をふいて6輪トラックまでふたたび歩いてもどろうとするが途中でとまった。

「ああ、そうか」

 あそこなら現状をつかめるかもしれない。せっかく苦労してつくった道をすすまずにトラックはUターンをした。


 閑散とした上野動物園。好奇心をおさえきれず走りだす子供の姿も追いかける親の姿も見えない。キリンもいない。ゾウもいない。ライオンもサイもパンダもいない。時々スズメが舞い降りて餌の残りがないかと地面をさがしている。彼以外の哺乳類が復活している形跡は見当たらなかったが、どのみちもっと早くに訪れるべきだったと後悔もした。そうすれば救える命もあった。

 鳥類を1か所に集めた区域は鳥の墓場と化していた。かさなったフラミンゴの死骸。岩のように横たわったハシビロコウ。ペンギン館は水が濁って姿さえ見えない。熱帯館のカラフルな鳥たちはどうやら餌が尽きるよりも先に同じ場所で飼育されていた爬虫類に襲われたらしい。気分がわるくなって館をとびだす。そのときだった。風に消えそうなほど微かに笑い声が聞こえた。いや悲鳴だろうか。空耳か。幻覚とか幻聴とか正気かどうか不安になってくる。冷静になるよう言い聞かせて眼をつぶる。なにかアヒルのような水鳥の鳴き声かもしれない。音のするほうへと駆けだした。

 大鷲が剥製みたいに微動だにせず イミテーションの木の枝にとまっていた。やつれた姿に威厳はないが それでも瞳だけはまだ猛禽類の気高さを宿している。いそぎトラックにもどってボルトクリッパーとクーラーボックスと水筒を担いで引きかえす。

 大鷲は地面に降りると男が放ったヒラメを慎重に観察し、ためしにとつついた。ヒラメが骨になるまでに時間はかからなかった。売店からもってきた器に飲料水をいれて金網の穴から手を伸ばして置く。手をつつかれるのではないかと震えて水がこぼれた。大鷲も怖いのはおなじのようで人間が離れるのを見届けるとゆっくりと器にちかづいた。喉を潤すと気持ちがおちついたのか大鷲はあらためて人間に鋭い眼差しをむけた。もしかすると魚より新鮮な餌を見つけたのかもしれない。そうなれば残念だが戦うしかない。しばらく様子見しても襲ってくる気配がないので他に与えられる物は無いかと売店の方角に振り返ってみる。すると大鷲は飛びかたを忘れてしまったかのように不器用な羽ばたきをして、ボルトクリッパーで開けた穴からひょいと飛びだした。それから大きく羽根をひろげると男の頭をかすめるようにして空に舞いあがった。夏の太陽に消える翼を仰ぎ見ながら、はたしてアレはこの世界で生きていけるだろうか、生きのびたとしてこの先 関東の生態系にどのような影響をあたえるのだろうかと遅ればせながら不安になった。

「まあいい」

 そうつぶやく。どうせ生態系は破壊されてしまった。

「生きたいように生きろ」

 以来 男はペットショップを見つけると生きのこっている鳥や魚や昆虫をさがしては解放するようになった。昆虫は外に放すか幼虫なら地面に埋めた。鳥も生きていたら外に放した。寒さが苦手な南国の鳥はその場で放さずにパークタワーのアトリウムにつれてかえった。おかげでアトリウム内で育てていた果物はあらかた鳥に荒らされた。観賞魚は近場の川かそれがなければ代々木公園のバードサンクチュアリに放流した。どれも生きられるかはわからなかった。また生きのこったとしてそれが正解なのかもわからなかった。法律が機能している時代なら逮捕される案件。ヨツマダの部下が良いネタを見つけたとほくそ笑んだにちがいない。爬虫類に関しては見て見ぬふりをした。昆虫も男の主観で気味が悪いものは無視をした。彼は救世主ではない。ところが一方でそうした可愛いとはいえない生物ほど生命力が強いという事実もあった。餌が枯渇しきっていた毒蛇はガラスの向こうから男の喉元にむかって襲いかかってきた。もろい水槽ならきっと割れていた。また両生類のウシガエルを見つける度に男はほんのすこしだけ顎をさすって考えもした。食文化の異なる国ではたいへん美味なタンパク源。はたして自分に調理できるだろうか。いや無理だ。そんな事を言いだせば蛇もタランチュラも食べれないことはない。細々と大豆を育てる。栗やドングリを拾う。そのほうが自分にはあっている。


 1日のタスクがおわると男は書庫にこもって資料の整理をした。消えゆくインターネットから有益な情報を救出したい。そういった義務感もあったがなにより資料を整理するのが楽しい。サバイバル術、DIY、建築、電気系技術、自動車整備、生物、数学、物理、地理、その他あらゆる知的好奇心を満たしてくれるもの。大雑把に分類したものを細分化してさらに分類していく。司法書士をしていた頃はよくアンタには事務職はむいていない。体格をいかした職業を選ぶべきと からかわれていたがやはり事務職はたのしい。そんな調子で朝まで作業するものだから ついに寝ぼけてトラックの側面をガードレールで擦ってしまった。それからというもの男は資料整理は2時間までと決めた。


 人のいない街で夕方5時をつげる区内放送がながれている。ひびわれた高速道路をいつもとはちがう大型トラックが走っている。ハンドルをにぎる横顔に夕陽が刺さっていた。まぶしくてダッシュボードのティアドロップに手をのばす。いよいよ太陽電池や風力発電機を設置する。まずは積載できる車両をさがすところから。AI搭載型ではないものを見つけるのはひと苦労だった。関東を走りまわってガソリンと時間を浪費した挙句、最終的に見つけたのがBVレンタカーという店だった。都心部にあるとは盲点だった。きっと職人気質の経営者が独りで切り盛りしていたのだろう。車両を頂戴するのみでなく、男はその整備工場から車に関する様々なことを学んだ。


 大型トラックが手に入ると新宿駅周辺の家電量販店を手始めに目的の物を集めた。車の往来がとだえた幹線道路は設置場所にうってつけだ。できればビルの屋上にも設置したいところだがケーブルの長さや蓄電器を置くスペースなど慣れない高所での作業がたいへんであきらめた。危険な作業より広くてフラットな道路に直接設置したほうが早い。そして都合のよいことにパークタワーは広い道路に囲まれている。近場の家電量販店からあらいざらい風車と太陽電池をもちだしてしまうと、こんどはかねてより手帳に記してあった場所まで足をはこぶようになった。まもなく高層ビルと畑とあたらしい小川の周囲には大小様々な風車と太陽電池がならぶようになった。素人のやる雑な計測ではあったものの電力の総量はいつ関東全体が停電しても心配ないくらいには確保されているようだった。しかし漣はまだこれでも飽き足らずパークタワーの緊急用発電システムのメカニズムを解明しようと模索していた。


 リフォームの一応の完了を機に空いた時間で自動車の整備、修理に集中した。最初のピックアップトラックは見る影がないほどにボロボロになっていた。2台目のトラックはもともとサスペンションがイカれていた。整備工場やカー用品店を漁り、集めた部品を駐車場にストックする。務めを終えた細胞が新しい細胞に取って代わられるようにマシンの部品が入れ替わっていく。

 ならんだ2台をながてあごをさすった。

「もっと車が必要だ」

トラックだけではたりない。やりたいことが山ほどある。それにはほかの車両をあつめなければならない。まずはパークタワーのアトリウムに大量の土を入れたい。熱帯館のように果樹や野菜をプランターなしでそだてたい。それにタンクローリーは喉から手が出るほど欲しい。おそらく千葉周辺を探せば石油基地が見つかるはず。そこで定期的にガソリンを補充できるようになれば。いやもっと贅沢をいえば電気モーターの車両をうごかせれたら。ガソリン車限定でさがすから骨が折れるのだ。問題は搭載されているAI。あれが邪魔をしている。はたして本当に〝連中〟はAIを知的生命と認識しているのだろうか。それとも原因は他にあるのか。男はあごをさする。

「確かめてみるか」

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