愚者は平時に集団を重んじ非常時に個となって逃げる 勇者は平時を孤独に生き非常時には集団について思索する
しめった風が木漏れ日を掻きみだしていた朝、石井スポーツで冬登山用の防寒着を男は1人分 入手した。そしてその足でまっすぐ新築地市場へとピックアップトラックを走らせた。途中でスラム街を通り過ぎた。スラム街の中心では建設途中の高層ビルがピサの斜塔みたいに傾いていた。倒れるのは時間の問題。次の地震あたりか。バリケードはどちらかというと侵入者よりも脱走を警戒していた。その証拠に一定の間隔で監視塔が並んでおり、かつてはライフルを持った警備兵が外側ではなく内側を睨んでいた。漣も職を奪われたあと、この現場で事実上の強制労働を強いられていた。
労働者のなかでも序列が高い者は敷地のなかの飯場で寝泊まりすることができた。かれらは総じて上司との関係が良好だったが、それでも奴隷のようなあつかいにかわりはなかった。たまに利権がらみでどこかのパワードスーツが導入されることがあったが使用を許可されるのがもっぱらこの層だった。
トタンで作られた事務所兼飯場には数えきれないほどの工程表やポスターが貼られていたがそのうちカラーのものを男は鮮烈に記憶していた。カラーなのにくすんでいるのだ。予算削減のために黒インクを抜いた三食刷りという印刷技法がどの紙にも採用されていた。そうしたなか唯一色鮮やかだったのがやはりここでも額に入れられた首相の肖像画だった。
飯場で暮らせない序列がひくい者たちは、たいていバリケードのまわりにちいさなバラックを建ててそこで生活した。そこでもこまかい序列があって、上役にかわいがられている順番で入口のそばに、そしてだんだん離れていくという形になっていた。バラックの集落のまわりにはさらに労働者からおこぼれを貰おうとしているホームレスのダンボールやブルーシートがあった。運がよければ誰かに取り入って労働者に昇格することも夢ではない。特に現場で死人が出た翌日はチャンスだった。こうして大規模な公共事業があるとそこを中心にしてスラム街が形成されるのが東京では普通の光景になっていた。これらスラム街はまだ序の口で支配者層と折り合いがわるい者たちは23区から離れた町の集合住宅をあてがわれ、そこから通勤していた。わずかな給料は家賃とインフラと税金と交通費でほぼ無くなり、残った金で毎日の食費を捻出する。あらかじめ計算されたよくできたシステムだ。暴力で支配するよりもずっとスマートに人を家畜化できる。もっとも支配者層には暴力的なほうが好みの者もたくさんいたが。
通勤電車は強制されたわけでもないのに自然と下流国民が端の車両にかたまるようになっていた。大昔のようにその車両だけは常に呼吸もままならないほどの混みようであった。拘束時間のながさから遠方からの通勤を嫌う労働者は多かったが、独裁政権に尻尾をふりたくない者たちには他に選択肢がなかった。そうした苦しい毎日も今は昔。スラム街の横をトラックが疾走する。
市場に到着してドアを開けると潮の匂いがまとわりついてきた。海に行きたい衝動をおさえて代わりに手帳に新たな項目を記す。
「釣り具一式」
新築地市場には巨大な極冷凍庫が存在している。商社が保管したマグロや牛肉が凍りついているはずだ。入口を見つけると防寒着を着用して扉をあけた。それからロボット化されていない古いターレットトラックを操作してあえて扉に挟むように駐車した。極冷凍庫に閉じ込められたら最後 外からの救援はなく一晩でマグロや牛肉の仲間入りをしてしまう。
「さあ。はじめよう」
極寒の人工洞窟への第1歩。途端にまつ毛にこわばりを感じる。息が出しきるより先にぱさつく。30分後、男は鉛のように固い本マグロと国産牛肉とタラバガニと鮭の塊を背負って生還した。関東一円が停電するまでは今後何度も足を運ぶであろう。無事パークタワーに帰還すると早速戦利品の調理をはじめた。マグロは一塊を解凍して刺身に、牛肉とカニはやはり食べ切れるだけを切り落として焼いた。鮭と牛肉の一部は中央公園で燻製にした。栄養補給以上の満足。半強制労働の日々では想像もつかなかった贅沢。
漆喰の壁にモノクロのポスターを掛けて、これで居間兼ベッドルームを完成としたのが満月の夜だった。この日を境に男はメインとなる部屋から水場のリフォームへと作業場所を移した。まずは共有トイレのパーティションと汚い便器を取り除く。それに手洗い場もすべて什器を取り払っていく。この時になって蜘蛛の巣の張ったパワードスーツが活躍してくれた。壁と床のタイルをすべて剥がして、そのあとで業務用の洗剤を惜しみなくつかって下水と空調を徹底的に磨いた。こうして灰色の殺風景な空間がパークタワーの一角にうまれた。この時になって初めて男は隣にもう1つ女性用トイレがあることに気がついた。固定概念というものは恐ろしい。毎日視界に入っていたのにまったく意識にあがらなかった。結局男性用と女性用の間にある壁をドリルで破壊して、それから再び男性用トイレとおなじ作業をした。
こんどこそ何もない空間ができあがった。つぎは壁にシックな色調のタイルを貼り直していく。壁がおわるとすべりづらくて掃除のしやすいタイルえらんで床に。単調な作業がつづいた。根気のいるタイル貼りがやっと終わると、最奥に高級な便器と手洗い場を設置。トイレが隠れるようにパーティションを設けて、手前に浴槽とシャワーを設置した。さらに浴室の手前にはコインランドリーにあるみたいな大きな洗濯機を置いた。そして入口にちかい場所に小ぶりなシステムキッチンを設置した。各ポイントには水瓶が用意され少々原始的ではあったもののこれで水を供給するようにした。
水場が完成すると次は倉庫。こちらは他よりひとまわり小さなオフィスにスチール棚を並べることで終了させた。そばに置いておきたい物以外はすべてこの倉庫にしまったので居間兼ベッドルームはモデルルームみたいにすっきりした。これでおおよそ生活拠点は完成したが おなじフロアに手付かずのオフィスが1つ残ってしまった。フロア全体を造り込んでしまうとそのオフィスだけが異質に見えて気持ちがわるかった。
リフォームに割く時間が減るにしたがって漣の行動範囲は新宿区、渋谷区、港区から世田谷区、目黒区、中野区、中央区にまで広がっていった。特に目黒区、中野区ではロードサイドにホームセンターがおおく、通りがかることがあればかならず侵入して野菜の種とプランター、それに園芸用の土を入手した。次のステージにあがるための布石だ。しかしためしに植えてみるも成果はかんばしくなく、どうやら農業には向いていないということだけはわかった。貴重な種が芽もださずに土にもどっていく。ただ復活最初の日にスーパーで入手したジャガイモだけはすくすくと茎を伸ばしてくれた。都心で入手できる種の量には限度がある。このままうまく育てられないでいるといつか死活問題となる。男はもっと多くの種を欲した。たぶん駒場キャンパスなら。だがあそこだけは怖くて足が向かない。そこで戦略を変えることにした。人家や学校に侵入して果樹や野菜を根元から引き抜いたり枝を切ったりした。そうして自分のテリトリーに植えなおした。グレープフルーツ、バナナ、レモン、アボカド、オリーブ、リンゴ、梨、桃、ミカン、パイナップル。ほとんどが植え替えてまもなく枯れてしまった。だが一部は生き残った。うまくいけば野草やサプリメントが必要なくなるかもしれない。アトリウムで育てているものは生育が悪い。かわりに外敵もない。中央公園に植えたものは比較的元気だった。しかし収穫できそうでも結局 鳥や虫との争奪戦になってしまう。そうやって持続可能な栄養源確保に悪戦苦闘しているうちにやがてサプリメントに手を伸ばす機会が減ってゆき、おもいきってすべての容器を捨てた。これで倉庫に空きができた。また果樹目的で人家に侵入する際にはいつもの電気、ガス、水道のチェックは当然のことながら太陽電池や風力発電機がないか確認するようにしていた。見つけたら場所と大きさを手帳に記す。将来的にはパークタワーに運ぶ予定だがまだそこまで余裕がない。まずは大きな車両を手に入れなければ。何をやるかでなく何を後回しにするか。時にそっちの考えかたのほうが生き方がシンプルになることもある。
蒸し暑さが人類の遺物から微かな残り香を発散させていた午後、男はオフィス用コピー機を3階倉庫にあげた。出力するのはもっぱらネットで拾った情報だ。おかげで書き写す時間を短縮できた。やがて資料が収まりきらなくなると手のつけていなかったオフィスに書棚を並べて収めるようにし、コピー機もそちらに移動させた。書庫としてうまれかわった部屋はファイルがきれいに整頓されてむしろ人が存在していた頃よりもオフィスぽくなった。
これで完璧だ。あとは逐次修繕したり物を入れ替えていけばよい。かつて暮らしていた幡ヶ谷の部屋は不満もあったが慎ましくしあわせな生活だった。狛江の部屋は親しみを持てないまま終わった。スイートルームは今でもおきにいりだがなにかと不便だ。あらたに完成したこの場所が一番理想的な空間だった。男は自分の仕事を見回してニンマリとした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます