第9話 パワードスーツ

 犬の首輪。テーブルの上の会議室の資料。黄色のセーター。人が作ったあらゆる物が紫外線によって色褪せていく。反面暗所ではカビや苔が息を潜めるようにして人工物をゆっくりと覆いつくしていた。

 都市計画に巧みに取り込まれていた植栽は人が消えた途端 乱雑に繁茂した。鉄筋コンクリートのビルとビルとの隙間で申し訳なさそうに身を置いていた公園は樹木や芝生の勢力を車道にまでひろげた。屋上のビオトープは下の建物なんて土台に過ぎずとたくましく根を伸ばしていった。幹線道路では行儀の良かった中央分離帯の生垣や並木が境界線を突破して地上の覇権争いに名のりをあげた。こうして局所的にできた森林で野鳥たちは比較的安全に暮らした。以前は都会の喧騒が絶えなかった街角は鳥のさえずりにとって代わられ結局のところやかましいことにかわりはなかった。

 梅雨があけてから8日間 異常気象で東京は猛暑となった。アスファルトの照りかえしが容赦なく体力を削る。それでもシーズン全体で見るとその年の夏は過ごしやすいものとなった。これは人類の社会活動が停止したことにより地球温暖化やヒートアイランド現象が緩和されたおかげと男は解釈した。東京では様々な機械から排出されていた熱が減少した。いっぽう日増しに増えていく植物は陰をつくり日向との温度差で空気の循環を生んだ。その空気の循環がそよ風となった。ビルの倒壊も無関係ではなかった。東京湾から吹く風の通り道ができて街に吹く風は一層爽やかなものとなっていた。

 とはいえ夏のおとずれは漣の冒険にあらたな苦痛をも もたらしていた。いまだ電気がとおっている建物のなかは暖房の熱に夏の暑さが上乗せされて灼熱地獄と化した。一度はオフィスビルの一室に閉じこめられて命を落としかけたこともあった。エアコンのスイッチは隣の部屋にあって操作できない。重ねてドアノブには鍵穴がなく簡単には壊すことのできない特殊な物だった。窓は開閉できず日差しが睨みつけるのみ。どうやら貴金属を保管する特殊な部屋だったらしい。簡単には出られないシステムなのだ。朦朧とする頭で思いつくすべてをやってみる。窓のカーテンをしようとするが電動式になっておりコントローラーが見つからない。もう一度ドアノブの破壊にトライしてみるも引き抜いても扉は開かなかった。火を燃やして消火スプリンクラーを発動させる。出てきた水は腐って錆の色をしていた。腐った水の臭いが部屋に充満し、火を燃やした分さらに部屋の気温が上がって酸素も減ってしまった。

「これまでか」

 ソファに沈みかけた身体を楽観的怠惰と神経質的臆病さがまだだと起きあがらせる。気をとりなおして窓の破壊を試みる。生傷をいくつか増やしてやっと窓ガラスにひびが入った。そこから先は一瞬だ。飛んできたガラス片で頬から血が流れた。部屋は4階にあった。ロープや避難梯子のような物はない。外に出て指先や爪先を這わせられそうな場所を探しながら慎重に壁をつたっていく。だが3階の窓に到達したあたりで窓のさんが崩れて落下した。最後は伸び放題の生垣に受け止められてまたも生傷を増やした。

「生きてる。奇跡だな」


 夏の到来によりもうひとつ悩ませられたのが虫や両生類、爬虫類の増加であった。気温の上昇はこれら生物を一斉に地上へと湧きあがらせた。手帳に虫よけスプレーや蚊取り線香、殺虫剤などが追記された。逆転の発想があればそれらは貴重なタンパク源にもなったのだが漣の弱腰ではどちらが餌になるかわかったものではない。そして一見 増えたかのように見えるこれら昆虫、爬虫類、両生類等は実際には例年と比べて増加してはいなかった。人間から隠れる必要がなくなった分 目立つようにはなっていたものの、かれらを捕食する鳥類もまた増えていたからだ。さらに哺乳類がいなくなったことでかれらの栄養源が間接的に減っていたのも増加抑制につながっていた。あらゆる生物が食物連鎖の再構築を余儀なくされても結局最後はなるようになる。月夜の流れ星も青空を流れる雲もなにひとつ変わらず昼と夜とをくりかえすのみ。


 月に2回の頻度でかようになった東急ハンズで男は散髪用のハサミと櫛を、ヨドバシカメラでバリカンを手に入れた。鏡にむかって仏頂面をする。初手からミス。結果的に鏡のなかの人物はかなり前衛的なヘアスタイルとなったあと丸刈りを受けいれた。さいわい背後で笑う者もなく1か月後には再チャレンジが約束されている。リベンジは得意だ。そして季節が変わっても部屋の改築はつづいていた。初めての散髪と同様おもうようにすすまない事ばかりだったが男は根気よくつづけた。途中で行き詰るとネット検索をして学ぶ。またどこかで行き詰ると再び立ち止まって学ぶ。やがて殺風景だったオフィスが部屋らしくなっていった。ブラックウォールナットのフローリング。漆喰の壁。高い天井。ドリルで開けた空気孔。内装工事が一通り終わると同じ建物のテナント部から調度品を運び入れた。大きなダブルベッドも座り心地の良いソファも到底ひとりでは運べない重さだったがデパートの労働用ロボットは動く気配をみせず結局倉庫のすみで埃をかぶっていた台車が彼の相棒となった。気にいった家具ほど重い。すべて運び終えたとき唐突にパワードスーツの存在を彼は思いだした。強制労働を強いられていた当時序列の高い作業員が使用しているのを見かけたことがある。もっと早くに気づけばよかった。早速 食料調達の合い間をぬって物資運搬用のパワードスーツを探し始める。すでにロボットの時代になっていたせいか なかなか目的の物は見つからなかった。そしてついに福祉施設の物置で蜘蛛の巣を張った旧式を見つけた。しかしいざ使ってみると充電には時間がかかるし、その割に稼働時間がみじかいし、モーターの具合がわるいのか音もおおきくなにより動きが鈍かった。せめて車からの荷物を降ろして運ぶときに利用できればよかったのだが、なぜかそのスーツは階段のステップよりも足裏のサイズが大きくて階段の昇り降りには向いていなかった。そのうち男はパワードスーツに頼るのが面倒になって駐車場の片隅に放置して再び蜘蛛の巣が張るままにした。

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