角の潰れた分厚い手帳
土壌のpHが低い場合 溶け出たアルミニウムと花のアントシアニン色素とが結合して色が青くなる。酸性雨の影響かそんな青ばかりが目立つあじさいが大粒の雨に揺れる日々が続いていた。蛇の牙で傷つけられた手の甲は腫れがひかず痺れがとれなかったが、それでも左手なのはラッキーだった。右手のほうは小指が不自由ではあったものの すくなくともペンを持つことはできた。新しい手帳を用意しなければいけないほど何度も修正されたのち当面 必要なものが羅列された。
1.生活拠点
2.水
3.食料
4.衣類
5.電機、ガス、その他代替エネルギーおよびガソリン
6.移動手段
7.工具、農具、キャンプ用品一式、調理用具、その他さまざまな道具一式
8.日用品
9.情報
第1の項目は生活拠点。候補にあげられたのは新宿から車ですぐの駒場キャンパスだった。全体主義が吹き荒れる以前は東京大学の教養学部と工学部の一部だったが、第二次大政翼賛会が正式な形で発足した翌月には東京農大と合併。国の指示に従い農業や畜産に特化した研究をするようになっていた。噂では地下の施設で細菌兵器や新型ウィルスの研究をしているともいわれ、人体実験のために子供がさらわれていくというデマまで飛んでいた。だが万が一にもそれはないとする漣にとっては都会の利点を失わずに作物を育てられる最良の場所だった。なにより駒場キャンパスには野菜や穀物の種が最適な状態で保管されているはずだ。ピックアップトラックは甲州街道を南下してオペラシティの手前で左折、317号線を南へとすすんだ。
しかし残念なことに彼の目論見は着く早々に砕け散った。大学の敷地内に入った途端 大きな影がいくつもうごめいているのが双眸に映った。双眼鏡で様子をさぐる。人ではない。爬虫類のようだ。尻尾を入れると体長3メートルはあろうかという大トカゲ。そいつがキャンパスで群れをなしていた。トカゲはワニともコモドオオトカゲとも似ていてどこかがちがい、頭にはトサカのようなものを付けていた。個体によっては器用に後足で直立しているものまでいる。不快感をもよおしてそれ以上近づけなくなる。計画変更。車は再び北上する。
「いちからやり直しだ」
顎をさすろうとして左の手が腫れていることを思いだしてやめる。いったいどうすれば都心にあんな大きな爬虫類が生息できるようになるのか。人類が絶滅したからといって半年であの進化と繁栄はどう考えても異常だ。さきほど目撃したトカゲの尻尾をつい思い浮かべてしまって男は身震いした。うねうねと動くヘビのような尻尾。身震いに反応するかたちで すこし遅れて車が蛇行した。
挫折感をみやげに新宿にもどるとまたデパートのレストランにあがって調理した。その日はパスタにした。肉と魚はなにかいやなものを思いだしそうで喉をとおりそうにない。昨日とおなじ窓ぎわのテーブルにすわった。今日も窓外はまっしろだ。食事を終えるとティーカップを脇にずらして 仕切りなおしとばかりにタブレットと手帳を睨んだ。ページをめくる左手が通常の倍まで大きくなっているのをちらりと見てから目を背ける。包帯を巻きなおさなければ絞めつけられてよけいに痛い。気をまぎらわせるためにもどこで暮らすか集中する。せっかくだから大きな本屋か図書館にしようか。そんなわくわくするようなアイディアを思いつくが熟考のすえ首をふって再びタブレットを睨んだ。新宿、渋谷から近いことは条件から外せない。無人島や砂漠でサバイバルした経験があるのなら話は別だが 都会で生きてきたひ弱な漣にとって人類の遺産をいかに利用していくかが鍵だ。いくつか目ぼしい建物にチェックをいれるとティーカップの底に残った紅茶を煽って勢いよく立ちあがった。
JR新宿駅を中心にして円を描くようにピックアップトラックでホテル、デパート、オフィスビル、官公庁、病院などを見てまわった。独裁政権以降に建てられたビルは総じてもろい。復活前に頻発していたはずの地震により もうすでに何棟か倒壊していた。おかげで見晴らしがよくなった。こうして新宿西口はかつてそう呼ばれていた淀橋へとその姿を戻していくのであろう。そんな新宿西口の一角に古いビジネスホテルを見つけて漣は復活後初めて身体を洗った。そして住まい探しは一旦忘れてその夜は客室ベッドで睡眠をとることにした。翌朝、狛江の住まいよりもっと前に住んでいた幡ヶ谷のアパートを訪ねてみることにした。耳に入っていたとおり 住み慣れた建物は取り壊され 殺風景なオフィスビルに建て替えられていた。2階には政権与党の地元国会議員の事務所が入居していたらしく候補者のポスターと勇ましい標語が窓に貼られて日に焼けていた。
「ここにも思い出はない」
腹痛に見まわれたのは住む拠点を探して大きな病院を訪れていたときだった。場所としては最高だった。薬が手にはいりやすいのも魅力だ。ただなんとなく気が乗らなかった。もとが病院なので気が重くなるのが理由なのだろう。そんなふうに探索しながら考えていたら突然 おなかに激痛がはしった。病院で腹痛をおこすのは運がよかったというべきか。それとも病院に来たから具合がわるくなったのか。いずれにしても その日までの数日間で口にした飲食物のうちのどれかがよくなかった。一番近くにあったベッドに倒れ込み、そのまま熱と腹痛で時間の感覚が無くなるまで悶絶した。なにも口にすることができず、しかしこのままでは餓死してしまうと思って売店まで這っていき賞味期限を確かめてから飲料水を舐めるという生活がつづいた。下着を汚したくないという思いから一度トイレまで這っていったが用を足す前に力尽きて便器を枕に気を失った。意識がもどるとすこし歩けそうなくらい回復していたのでタブレットで必要な薬を検索して調剤薬局の棚から抜きだした。薬なら売るほどある。ついでに手の腫れに効きそうな薬も探してみた。薬は腹痛には効かなかったが、何の皮肉か手の甲の腫れは翌朝にはひいた。しかしここまで腹の激痛がつづくともう手の腫れなんてどうでもよくなり 夜も痛みで眠れない日々に今度こそ本当に死ぬのかとベッドの上であきらめの境地にいたった。結局拷問でも3階から落ちたことによる外傷でもガラス片による出血多量でも蛇の毒でもなく食当たりで死ぬのだ。漣はカッコつかない己の最期に力なくわらった。
死を覚悟した7日目の夜の明けて早朝、まるで見つからなかったメガネが頭の上に乗っかているのに気づいたときみたいに腹痛がとまった。売店で食べられそうなものを選んで少量ずつ口に運び、薬局のビタミン剤で身体を回復させていく。体重が1週間で10キロ減った。外に出ると止めたままの車が雨と土埃で印象を変えていた。
さらに数日のあいだ試行錯誤はつづいた。そしてついに漣は西新宿パークタワーを生活の拠点とすることを決めた。理由は以下の10点。
1、中央公園が道路を挟んだ隣にあり、農業をしやすい環境であること。
2、農地拡大を狙うなら新宿御苑、明治神宮、代々木公園と近場に候補となり得る土地が豊富にあること。
3、ガラス張りになっている1階アトリウムではビニールハウスと同様の効果が期待でき、冬季における食料調達に期待がもてる。
4、新宿駅に徒歩でもいける距離に位置しており、食料、衣類、医薬品、アウトドア用品、家電、工具、その他DIY用品、各種消耗品、ガソリンなど必要な物資が手に入りやすい。
5、新宿のみならず代々木、原宿、渋谷、代々木上原、初台と商業地域に囲まれており利便性がたかい。
6、パークタワーの商業エリアには おもに一軒家の建築を主眼においた資材、建具、家具、浴槽、システムキッチン、雑貨などをあつかった企業が集合しており部屋を改築する際にそれらが容易に調達できる。
7、ホテル側のパークハイアット東京および周辺ホテルからサニタリー等が補充可能。
8、最上階から関東の様子を広範囲に監視可能。
9、もしほかの人間が現れるとするならば、新宿駅や渋谷のスクランブル交差点で遭遇する確率が高いと想定される。つまりこの2か所を重点的に監視すれば生存確率があげられる。もしくはその人物にたいして救援措置を施せる。パークタワーならばこの2か所のどちらにもちかい。
10、新宿、渋谷はなじみのある土地。全体主義にそまった政府に目をつけられるまでは新宿の小さな司法書士事務所で働く善良な渋谷区民であった。だから土地勘はたしかだ。
手の腫れがひいたのを見てグローブを1双 入手した。これで怪我が減ればいいが。
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