混沌を生きる
新宿に戻るとその日の宿をインテリア雑貨の店Franc&Francに決めた。値札の貼られたテーブルの上に値札の貼られた電気スタンドをおいて手帳をひらく。調達した物を指でなぞり 他に必要なものが思いうかぶと書き足していく。右の小指と左手の甲の痺れがあいかわらず脈をうっていた。気づくと時計の針が夜更けを差していた。これまでの人生で感じたことのない不安に突然 襲われる。地球上で独りという事実に悲観などしてはいないが それでも孤独は人並みに気分を重くさせる。静寂に圧しつぶされそうになり1度はとめた店内放送の音楽を再び流すことにする。クリスマスソングはうんざりなのでちがう曲がないかレジカウンターをまさぐってさがす。適当に選ぶと女性が好みそうな甘い曲が空間を満たしてくれた。ジングルベルよりはマシだ。値札の付いたベッドに横になり無理に目を瞑る。人が消滅して半年経っていたせいでせっかくのマットが埃っぽかった。緊張とまどろみの波に身を任せる。うとうとして、また不安に目を覚ます。そうしているうちに大きな揺れが起きて身をおこした。地震だ。体感で震度4か5。売り物の枕が棚の上から頭頂部に落ちた。揺れと鼓動の不協和音に精神を逆なでされながらも、どの店も売場が乱れていたのはこれが原因かと納得する。おそらくだが人類滅亡以降地震が頻発しているのだ。揺れがおさまると男は再び横になって天井を眺めた。覚悟していたとはいえこの世界は過酷だ。生き残れるか。先例と同様脱落するか。まずは3か月。約束の3か月だ。わずか90日が途方もなく遠くに思える。
「どうとでもなれ」
考えるのが面倒になり投げやりな気持ちにダイブした。どのみち投入された時点で〝連中〟の第1の目的は果たされたのだ。
「それで充分じゃないか」
そう声にだして現実に身をゆだねると そのまま一気に熟睡の滝に落ちた。
悪夢。
うしろ手に手錠を嵌められていた。そしてぐらつく椅子に座っていた。被せられていた布袋から開放されると壁や床に染みのついたせまい部屋が視界にひろがった。スーツ姿の親衛隊が5人 目視できる。1人は知性を感じさせる眼鏡をかけた男。もう1名は痩せて猫背な男。そのほかに根が臆病そうなお調子者。格闘技でもやっていそうな大男。それから黒髪の女。頭から布袋を剥ぎ取ったのは大男だ。男は布袋を乱暴に床にすてると部屋の隅に立てかけられていた棍棒を掴んだ。それからもったいぶった動作で再び漣の正面に立った。一度女に振り向き、さあ始めるぞという笑顔を作ってみせる。女は応えて皮肉たっぷりに口角をあげた。お調子者が漣を挑発して奇声をあげた。
お調子者の言葉には反応せず大男は棒読み口調で漣に言った。「貴方には我々の行為を拒否する権利があります。仮に外的損傷等あったとしてもそれは自己責任であり我々の責任の範疇からは除外されます」
返事の隙も与えずに棍棒が喉を突いた。息ができず咳きこむ。心の準備を待つことなく男がオーバーなアクションで振りかぶった。女とお調子者が悲鳴のような歓声をあげた。瞬間 漣は椅子ごと身を倒して振りまわされる棍棒を避けた。肘がコンクリート製の床と背もたれに挟まれて激しく痛んだ。眺めていた4人が大男の空振りを笑った。大男は顔を真っ赤にすると乱暴に椅子を起こし漣の鼓膜に叫んだ。
「なぜ避けた。貴様に逃げるという選択肢は無い」
怒声のせいでキンと高い耳鳴りがした。壁に寄りかかっていた猫背が口を挟んだ。
「こいつ馬鹿か。法律を鵜呑みにしやがって」
知性を感じさせる眼鏡の男が近づいてきた。
「漣君だっけ。君たち下流がどうして生かされているか考えたことあるかな。それはね、君たちを見ているとこいつよりマシと思えるからさ。こんなクズよりオレたちのほうがずっと有能だって。それが君たち下流の唯一の存在価値なんだよ。だから君たちに権利とか自由とかそういったものは無い。わかるかい。ただ国会で決められた法律は守らなければならない。だからああいう文言がある。わかるかな。うーん、君にはちょっと高等過ぎるかな」
言い終わるや否や眼鏡は漣の背後にまわって髪を掴み身動きできないよう引っ張り上げた。
「これで空振りせんだろう。腕を叩くなよ」
「打つか。馬鹿が」
「おまえならやりかねないから言ったんだ」
「打つよ」お調子者が囃した。
大男は相手をする代わりに素早く棍棒を振った。ヒュッと風を切る音。顎にきれいにヒットし脳が揺れて記憶が吹っ飛んだ。眼鏡が満足そうに定位置に戻って猫背同様壁に寄りかかった。女が眼鏡になにか耳打ちした。漣が逃げる体力を失ったと見るや大男は再びオーバーなアクションで棍棒を振った。
意識が戻ると同時に顎がずれたような痛みが走った。ここからが本格的な拷問のはじまりだ。
内閣総理大臣 第二公設秘書のヨツマダ氏がもったいぶった態度で部屋にはいってきたのは いっそのことひとおもいに殺してくれないかと思いはじめていた頃だった。鼻には鉄のような臭いが充満し右眼は腫れて視界が狭まっていた。
「良い顔になったな」
秘書官はそう言って周囲に笑いを求めた。愛想笑いが部屋に充満する。漣はヨツマダの登場にささやかな驚きを感じた。言動からいって秘書官は漣を認知している。影の支配者と噂される首相第二秘書官に顔を覚えられているのは光栄だ。ヨツマダにせっせとゴマ擦るお調子者を退けて眼鏡が秘書官に耳打ちした。ヨツマダは軽くうなずくと漣に言った。
「感謝の言葉を述べたまえ。助けてやる。罪状を認めたら軽い刑で釈放してやる」
冤罪だと訴えようとして口が開かないことに気づく。顎関節が腫れるかずれるかしているようだ。
「黙秘のようですね」眼鏡が言った。
「そうか」秘書官がやれやれと大袈裟に首を振った。「残念だ。ところで漣 拓緋君はこのビルがなんて呼ばれているか知っているかな」
秘書官が女に言ってやれと顎で指図した。
「飛び降りビル」
「そのとおり。なぜか知らんがこのビルはよく飛び降り自殺が起きる。そのせいで窓の向こうの通りには人が寄りつかない。やれ」
棍棒が床に捨てられた音が響き大男が椅子ごと漣を持ちあげて窓際まで運んだ。漣はまだ開くことのできる左の眼で 担ぐ男の脇を盗み見た。この距離ならば後ろ手に縛れていようとも狙うことは可能。まだ終わりにはさせない。
「おい、手錠を外すのを忘れるな」
「ばれても咎める奴はいませんって。下級どもは臆病なんだから」
「いいや。それも公費なんだ」
一同が笑った。ビンゴ。男も一緒に笑い、それから余裕を見せようと窓のさんに不安定な形で背もたれを立てかけさせて、片手で椅子をおさえるようにしてバランスをとりながらもう片方の手で窓をスライドさせた。
「やだ気持ち悪い」女が言った。
一瞬自分の事かと漣は誤解したがどうやらスライドされた窓に張り付いた生き物を言ったらしい。
「ただのヤモリさ」誰かが言った。
「ふん」と大男が鼻で笑ってみせた。
その時大男の脇に大きな隙間ができた。身体を傾ければホルダーに触れられる。今だ。椅子ごと回転しながら床に崩れ落ちるようにして拳銃に指を伸ばす。安全装置。手首が重みに耐えられずまちがった方向に捻じれる痛みを感じる。そのまま狙わず1発。腰から足へと貫かれて漣と共に崩れる巨体。重みに耐え切れないあちらこちらの関節が悲鳴をあげたが無視してその態勢のまま後ろ手でホルダーから拳銃を引き抜き、床に転がった姿勢のままで背後に向かって適当に標準を定める。チャンスは僅か。しかし上手くいけば道連れにできる。想像もしなかった最期だがこれで日本を変えられるかもしれない。一縷の望みを名誉と思う。耳をつんざく破裂音。誰を倒したか目視はできない。だが部屋のざわつきで感触は掴んだ。反撃しようと銃を構えたらしい親衛隊に「撃つな」と眼鏡の声が叫んだ。「こんな小さな部屋で撃ったら跳弾でこちらもやられるぞ」
合点がいって漣はもう2発、3発と適当な方向にむけて放った。誰かの悲鳴。倒れていた大男が漣の手から拳銃を払い、唸りながら立ちあがると持ちあげるようにして椅子から漣の身体をはずして窓枠に座らせた。そのまま漣の両肩を押して外に落とそうとするが気配に気づいて背後に振り向いた。
「おいやめろ」
大男がまたも床にダイブした。おかげで視界がひらけて部屋の様子が見れた。猫背の男が脛を押さえて倒れている。秘書官がぐったりと壁に崩れている。その秘書官の胸を狙って眼鏡が拳銃を向けているように見えた。見まちがえか。パニックになったお調子者と女がこちらに銃口をむけている。大男が頭を抱えて身を縮めるのも待たず2人は奇声とともに引き金をひいた。漣の身体は放たれた弾丸の威力で真下ではなく放物線を描くようにして落ちていった。落ちる漣の瞳の先には1匹のヤモリ。割れたガラスに張り付いたままガラス片の鋭い断片と共に漣に追い打ちをかけんと落下していた。ちょうどその時、下の道路では子供達を乗せたバスが走っていた。アメリカのスクールバスに似せて黄色く塗られた車両だ。普段は通ることがないのだがその日は都内の大学で催される実験教室の参加者を各学校、保育園から拾い集めているところだった。放物線を描いて落ちる身体はバスのルーフに直撃してそのままフロントウィンドウを拭うように車両前方に落下。慌てた運転手がハンドルを切り損ねてバスは転倒。AIを搭載していない古い車だったことが災いした。この衝撃で未就学児から中学生までの子供達とその引率者が巻き添えとなった。ガラス片がわずかに瞳を避けて頬を切り裂いた。その頬の上をヤモリが歩いている気配がした。しかしそんな事はもうどうでもよかった。鉄みたいな臭いと生温さが鼻にまとわりつく。血液独特のぬめりや凝固感がアスファルトと肌の隙間を埋めていく。やがて体温が下がっていき身体に力が入らなくなるのを漣は認識した。もう痛みも感じない。ああ、いよいよ死ぬのだなと覚悟し視力がおぼろになるのを受けいれる。五感のうち最後に残された聴覚が女性と子供のうめき声を察知した。漣が最後に心でつぶやいたのは懺悔の言葉だった。知らない人々を、それも女性や子供を巻き添えにしてしまった。申し訳ない。
全身を走る痛みで眠りから覚めた。東の窓に日が射しこんでいる。いまだ痺れる左手をかばうようにベッドから起きあがった。マットに血と汗の跡がべっとり染みている。二度と売り物にならないだろう。もっとも売り子などどこを探しても見当たらないのだが。数千年にわたり社会に定着していた経済システムはあの日を境にあっけなく破綻した。
「さあ今日も混沌の中を生きよう」
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