STANDING ON THE STREET
崩壊は1年前。あちこちの建造物がイルミネーションで彩られていた12月24日 日本時間午後7時38分56秒からはじまり直後に終了した。つまりその瞬間にすべてが消滅した。さかのぼること1時間前、漣は親衛隊からの拷問により死亡した。そう、彼は1度死んでいる。
意識がもどったときには気温がいくぶんやわらいだ印象だった。それもそのはず。彼は冬を超え春を超えて梅雨時に投入された。つまり蘇った。場所は恵比寿にある煤けた雑居ビルの裏手。その車道の真中で彼は倒れていた。雑居ビルにはヨガ教室や占いの店が入っていたが3階に総理秘書官ヨツマダ氏の所有する拷問部屋があったことを世間は知らなかった。死の直前まで漣はその部屋で痛みと屈辱に耐えていた。横たわる裸身を雨粒が叩いていた。雨の匂いに混じって錆びた鉄の匂いが漂ってくる。意識がはっきりするにつれ体温が雨に奪われていることを自覚し身体が震えた。震えに刺激されて全身の痣や切傷がよじれるように痛んだ。〝連中〟は復活に際して傷の手当を約束していたはずだがこの点については当てにならなかったようだ。あるいは本当はもっと酷いありさまでこれでも献身的に治療された結果なのかもしれない。そんなことを考えているあいだにも傷口から血が滲みだし雨粒と混じっていった。咳を1つする。体中に激痛が走りどこかの傷口が開いた。右眼が腫れていて視界が悪い。漣はこのまま立ち上がることもできずにまた死ぬのだなと運命を受けいれた。それでも〝連中〟の目的は達成されたのだ。もう許そう。自分を。
ふたたび意識がもどったときには雨が小降りになっていた。どうやらまだ生きているらしい。周囲の様子を見ようとして不器用に首を回す。すぐ目の前に横転したバスのバンパーがあった。雨に光るバンパーに死にかけの男の顔が映っていた。バスはアメリカのスクールバスに似せた黄色い車両だった。そのバスの窓ガラスなのか、それとも雑居ビルの3階のものか、裸で倒れている漣のまわりにはガラスの破片が散乱していた。血もでるわけだ。衣服はどこかに飛ばされて見あたらなかったが履きつぶした安物の作業靴は爪先でそこにあることが確認できた。両手にはめられていたはずの手錠が輪を閉じたままで手首から離れていた。代わりに両手首には血の滲む傷跡が残された。服は失ったが手錠からは解放された。悪くないスタートだ。立ちあがろうと身体に力をこめるが右手の薬指がうずくように痛い。折れている。おそらく肋骨も何本か。産まれたばかりの子馬のようによろよろと身体を起こし悲鳴とともに背筋を伸ばした。視界が広がり、そこが恵比寿であることをあらためて確認する。景色の色合いが記憶とちがうのは火災による黒と植物の繁殖による緑色が増えたせいだ。ここが知っている場所でよかった。知らない土地だったら1歩目から立ち往生していたであろう。足元を見回して自分が死んだ場所を眺める。刑事ドラマのような白線でもあれば感慨深いのだが地面を見つめたところで虚無感しか湧いてこない。裸足のまま雨水の溜まったかび臭い靴をつっかけていよいよ男は歩きだした。足の裏がぬめぬめとして靴の中で滑ったが生傷を増やすよりはマシだ。ビルをぐるりとまわるようにして表通りにでた。ガラスが割れ落ちて煤で黒くなったビルの窓枠、赤色点滅を繰り返している信号機、色褪せた店先ののぼり、突然主を失った自動車はそのほとんどが道路脇に緊急停車していたが間に合わず追突しているものもあった。転倒した自転車のチェーンにダウンジャケットが絡まっている。他にも歩道のあちこちに衣類が打ち捨てられていた。そのうちのいくつかは雨風に流された末に下水溝に向かって集められ形容しがたい塊と化していた。散った椿の花びらが誰にも掃かれることなく黒く変色している。男の脳裏に浮かんだのはなぜか東京大空襲だった。第2次世界大戦で起きた重苦しい記憶。資料を見て知っているので実際の空襲のほうが比べものにならない惨状だったのは承知している。しかしどことなく空気感が似ていた。顎をさすろうとして刺さったガラス片に気づく。また傷が増えた。周囲を見渡し眼に入ったドラッグストアまで呻きながら足を引き摺った。
店内にも所々に白衣やコートが散乱していた。無人の店で店内放送だけが流れている。店内は微妙に荒れているといった印象だった。漣より先に物色した人物がいたのだろうか。それとも彼のあずかり知らないところで暴動でも起きたのか。どちらにしても今は詮索している余裕などない。鏡、ピンセット、脱脂綿、消毒液、絆創膏、包帯、鎮痛剤、湿布、風邪薬、必要な物を手当たり次第に籠に詰めると店の隅で治療を始めた。ガラス片が1つ抜ける度に悲鳴をあげる。何度かあきらめてこのまま死にたいとねがい、何度か耐えきれずに気を失った。背中に刺さった手の届きそうにない最後の1片を特別長いピンセットでなんとか抜き取って浅い傷には絆創膏、深い傷には包帯を巻いた。それから見よう見まねで小指にテーピングをした。不自由になったぶん動かす度に痛みをこらえる必要がなくなった。ナイフくらいはまだ持てそうだ。最後に風邪薬を噛み砕き30分ほど息を整えるために血の床で横になった。
動く気力が湧いてくると再び店内を物色して賞味期限が切れたスポーツドリンクと携帯食料品とビタミン剤を喉に流した。顎が腫れているので口を開くたびに痛みが走る。予備にとおなじ健康食品を籠に入れて出口にむかった。防犯装置が雄叫びをあげる。無視して街を見渡した。次は3軒先の衣料品店だ。店はこんな事態にでもならなければ一生入店することが叶わない上流階級専用店だった。上流専用を表す赤看板が慎ましくドア横に掲げられている。手に取ったTシャツの埃を叩きそれで身体を拭く。やはりこの店も微妙に荒れている。まるで巨人が建物ごとつまみあげて揺らしたみたいだ。そのくせ長い期間誰も足を踏み入れていないようで床に埃が溜まっている。サイズの合うシャツとスラックスを見繕って下着も無しに袖を通した。これで裸に靴といういでたちではなくなった。いくぶんまともだ。店内には優雅な音楽。ドラッグストアと同じクリスマスソングだ。音楽にあわせて鼻歌など歌ってみる。やっぱり口が痛い。突然バックヤードからメジャーを垂らした店員が現れた気がして身構えた。よく見ると姿見に映った己の影だった。かび臭い作業靴を鏡に投げつけて割り、湿った足を青色のデッキシューズに押し込んだ。奥の商品棚からバックパックを引っ張り出し、ドラッグストアの籠をその場に捨てて荷物を入れ替える。人前に出ても恥ずかしくない身なり――とはいえ世界には彼しかいないのだが――に整えるとショーケースに飾られた指輪の中で一番尖ったものを選んで壁の肖像画に投げつけた。ガラスが割れる音と共に額縁が床に落ちる。肩に巻いた包帯に朱色が滲む。
「大人げなかったな。どうせ何千万枚もあるのだろうし」
カラフルなゴルフ用パラソルを開いてさらに3軒先のスーパーマーケットへ。
腐敗臭で顔を歪ませた。このときになってはじめて現在の日時が気になった。人がいなくなってから相当な時間が経過しているのはたしかだ。出入口の扉を全開にしてすこしでも空気の入れ替えがされるようにする。それでも足りず腕で鼻をおさえながら食べられそうな物を探して歩いた。どうやらどこの店も散らかっているのは変わらないらしい。なにか異変があったことはたしかなようだ。しかしいまは原因を探っている余裕などない。空腹を満たすのが先だ。手始めに棚に並んだシリアルの箱を開けて牛乳もかけずに貪る、炭酸水、ピクルス、せんべい、ツナ缶、ゴルゴンゾーラチーズ。ビールとウィスキーは傷に悪いだろうと背中のバックパックに詰めるのみにした。芽が出たジャガイモもやはり別の目的で背中へ。店内のクリスマスセールの装飾がいまとなっては痛々しい。懐中電灯の包装パックを破り捨てて電池を入れて点灯を確認する。売り場をひとまわりして疲れたので固いベンチに腰を降ろした。風邪かそれとも一種の蘇生ボケのようなものか、座った途端 熱が出てきて天井がぐるりぐるりと回った。それも束の間、彼はもう1回死んだかのように意識を失って倒れた。
めざめてもまだ照明は点灯した状態だった。漣はぼんやりとなぜ電気の供給は維持されているのだろうと考えた。食べ物の腐り具合や洋品店につもった埃からしてあの日からかなりの日数が経過しているのはまちがいなかった。とっくに停電しているのが自然だろう。はたしていつまでもってくれるだろう。水道やガスは。インターネットは。交通管理システムはどうか。身体をおこす。睡眠をとっても倦怠感は拭えなかった。なにかが身体から失われている。その「なにか」が足りないせいで体調が整わないのだ。視線を腕に移した。まだ傷口が塞がっていないものがいくつもある。
「今は朝だろうか。それとも昼だろうか」壁に貼られたパートタイマー募集広告のモデルにむかってたずねてみた。モデルは何もこたえずただ白い歯を見せていた。
時計を探して2時30分であることをつきとめる。窓外の明るさからいって昼だろう。思ったほど長い睡眠ではなかった。あるいは一晩寝て翌日を迎えたのかもしれない。外に出ると相変わらず雨は止みそうになくどんよりと曇った空が漣を睨みつけていた。そういえばまだ太陽を見ていない。まさか消えてしまってはいないだろうな。哺乳類みたいに。
「さて次は何処へ行くか」
雑居ビルに戻って財布や免許証を探す手もあった。しかし没収された物が大切に保管されているとも思えない。それにこんな世界になってしまったからには金も身分証明も果たして必要なのか疑問だ。逡巡したのちとりあえず漣は恵比寿駅へとむかった。
ホームから見えていたはずのランドマークが倒壊して空がひろくなっていた。電車も地下鉄も動く様子はない。まだ生きている電光掲示板が全線緊急停止中という文字を点滅させていた。街中と同様こちらも衣服が散乱している。漣はその中からスマートフォンを見つけて拾いあげた。正規の物ではない。裏ルートから購入した物だ。いつの頃からかスマートフォンやタブレットは上流国民以外使用の許可がされづらくなっていた。電車を移動手段にしている者が所持できるのは闇市で取引した物と相場が決まっている。使えるか試してみた。ロックが掛かっていて反応しない。それでも電波が繋がっていると知れただけ大きな進展だった。それとスマホを信じる限り今日は12月ではなく6月の中旬らしかった。つまり半年ほど時間をずらされたということになる。気温も和らぐわけだ。暗証番号を特定してやろうと指を振りあげたが次の瞬間バッテリーが切れてしまった。もはや石ころと変わらぬ塊。一瞬躊躇したあと手からスマホをすべりおとさせた。
駅前のロータリーに並んだ自動運転タクシーも電車と同様エラー表示されて動こうとしい。たよれるのは己の足だけらしい。
「OK つぎに進もう」
記憶をたどりながら都道413号線を南下する。ちょうど渋谷川に沿うようなかたちだ。人もなく車も走っていない閑散とした道路で独り足をひきづる。並木の桜の木が緑の葉を茂らせている。耳に聞こえるのは雨音のみ。悪いことばかりではないと気づかされる。騒音が消えた東京は実に落ち着く。不意に人影が視界に入って心臓に近い肋骨が痛みをうったえた。
「なんだ」と胸をなでおろす。
企業の受付に立つ警備ロボットだ。男は臆病な己を笑った。川の名が渋谷川から古川へと移ったあたりで幹線道路にわかれをつげて ちいさな橋を渡った。橋の中央まできて川を覗く。記憶よりも水が澄んでいる。
「おっ」
生き物だ。水面に鴨が浮かんでいた。気のせいか人類がいなくなったおかげでむしろ元気そうに見えた。やはり鳥類はそのままだ。
「おたがい生き残ったな」
無視されるのは慣れている。
橋を渡りきり住宅街へ。公園に転がっていたマウンテンバイクを起こして鍵が掛かっていないことをたしかめると袖でサドルを拭いた。自転車を漕ぐのはそれはそれであちこち痛むが歩くよりは早く進める。それになにより足裏の怪我を気にしなくていいのはありがたい。錆びたチェーンの不快なオルゴールを聴いているうちに目的の場所が見えてきた。自動車整備工場だ。自転車を乗り捨てて挨拶もなく事務所に入った。勝手にデスクを漁って目ぼしい車のキーを握りしめる。ガレージには1台のガソリン自動車。ボディを舐めたらとろけるのではと思わせるほど艶出しされた黒いピックアップトラック。それがエンジンを外された状態で放置されていた。それまでの慣習から自動車と呼ばれた4輪自走ロボットとはちがう、人が運転しなければいけない、しかもオートマではないマニュアルのガソリンエンジン車。おまけに6輪駆動ときている。どうやらタイヤを交換しているところだったらしい。生々しく作業途中のまま残ったつなぎを事務所の隅に隠して名も知らぬエンジニアの仕事を半年越しで引き継いだ。重い荷物を持ち上げたり運んだりするのは生傷に良くない。身体が張り裂けるのが先か部品を取り付け終わるのが先か漣にも先が見えなかった。積み直したエンジンにオイルを入れ、他に足りない部分がないか確認して回る。最後にジャッキを蹴とばして隅にどかした。満身創痍の身体を運転席に埋めてエンジンを掛けてみる。年配の男性やよほどの物好きならニヤリとし、常識のある女性や若者ならしかめっ面で耳をふさぐような爆音が工場内に響き渡った。さいわい漣は必要に応じて前者にも後者にもなれる。ガレージから車道へと出る際に習慣で左右を確認してしまいひとり笑った。車道に出てもすぐに信号に反応してアクセルを緩めてしまい、また苦笑した。ステアリングをまわし、すぐそばにあるEVスタンドに入っていった。奥に申し訳なさそうに立つ給油機の前に止め臭いガソリンをタンクに入れる。もちろん払う金など無かった。逆にレジから小銭を抜き取って自販機で飲料を買い賞味期限を確認してからがぶがぶと飲んだ。事務所にガソリン用アルミタンクがあったのでついでにそいつにも満タンに入れて荷台に積んでやる。空を仰ぐ。雨は止みそうにない。車はドリフト気味にスタンドを離れ今度は北へ。
傷の応急手当をして、ひとまず空腹を逃れて、服と靴とバックパックと傘とそれに自動車を1台 手にいれた。次に欲しいのは情報。良き指導者は真摯に情報を開示し、独裁者はにやけて隠蔽する。情報は明日を生きる命綱。男が向かったのは新宿。漣はタブレットを入手しようとしていた。一般人では入手困難となった情報ツール。キラー通りをまっすぐ進み、とはいえ途中の自動車や倒れた建物を迂回しながらだが、青山墓地をこえて新宿御苑をぐるりと舐めるように左折して新宿駅へ。駅をすぎたら右折してクリスマスセールのままのヨドバシカメラ前で車を止める。無人の店に入店して適当なタブレットを選ぶと早速マニュアルと格闘しはじめた。2つのタブレットがスクラップになった。そしてついに1台の立ち上げに成功した。インターネットを起動してみる。閲覧可能なサイトは記憶していたものよりずっと少なくなっていた。サーバーのほとんどが停止しているのだろう。それでもまだ利用できるページがある。それだけでありがたい。ニュース記事を開いてみる。最後の更新はクリスマスイブの夜で終わっていた。記事を斜め読みしていく。首相礼賛、各省大臣礼賛、影のフィクサーと呼ばれた秘書官の御言葉に身震いする。高級官僚の人事異動、フェイクまみれの経済面、でたらめな統計、バイアスのかかった国際ニュース、カルト団体の広告、反社会的組織礼賛、嘘か本当か裏取りすら許されない異国を戦場とした戦況報告。報道は人類が滅亡するよりもずっと前に滅んでいた。せいぜいアメリカの元大統領が亡くなっていたことに軽いショックを受けたくらいで特に気にするニュースは無し。それでも検索しだいでインターネットは宝の山となる。できる限り生き続けて欲しいと祈りながら赤ん坊をあつかうようにタブレットを助手席に置く。休む間もなく次の場所へ。今度はアナログだ。手帳とペンと替芯。新宿駅南口にある大型雑貨店東急ハンズに赴き、手に一番しっくりくる物を時間をかけて選んだ。人間がいた頃にはいつもせかされるように買い物を済ませていたので妙に贅沢な気分だ。手帳選びが終わるとついでにA4のコピー用紙をバックパックに詰めてエスカレーターへ。ところがその階の上に向かうエスカレーターだけがなぜか停止していた。見ると最上部で服が挟まっていた。それで緊急停止したのだ。スイッチを探してオフに。そこから先は念のため動いているものはすべてオフにして己の足で歩くことにした。
レストラン街がある最上階。1番大きい洋食屋を選ぶと勝手に厨房に入って物色を始めた。床が水浸しになっている。どこかで雨漏りしているのではなく栓をしたシンクに出しっ放しの水があふれているせいだ。厨房の床には排水溝が付いているのでプラスマイナスでこの程度で済んでいる。こういうパターンもあるのかと頭を掻き水道を捻った。冷凍された肉と魚、それに保存状態の良い野菜を見つけて調理を始める。さいわいガスもまだ生きているようだ。これで5つのインフラを確認できた。わるくない。高級なバターとオリーブオイルを贅沢につかう。自然と鼻歌が出てくる。聴きすぎたせいで6月というのに出てくるのはクリスマスソングばかり。料理の経験がなかったので肉を焦がして硬くし魚は半身がフライパンにくっついて食べられなくなった。それでも温かい料理を口にできるのはありがたい。完成すると見晴らしの良い席を選んで清潔なテーブルクロスを敷き食器を並べた。雨の東京を眼下にしてやはり緑色が増えたなと感想を述べながら肉を頬張る。味は目指していたものとはかなり異なっていたがまあそれも良し。いい加減クリスマスソングに飽きてレジにあったスイッチを消す。ついでに暑すぎる空調も消した。席に戻って再び東京の様子を観察する。灰色の雲の下で黒い煙がいくつか昇っている。火災だろうか。先に双眼鏡を入手しておけばよかった。やがて雨が強くなり窓外は真白な霧と化した。空腹が満たされるとティーカップを脇にずらし、この先 手に入れたい物資を思いつくままコピー用紙に書き殴っていった。何度も書きなおしては丸めたコピー用紙を捨て、満足できる程度にまとまると今度はそれを丁寧に手帳に書き写した。清書されたものをあらためて眺めてみるとほとんどの物資が下の階で手に入りそうだと膝を叩いた。
並べられた商品のうち最も高額なフラッシュライトを選んでショウケースから取り出し、空いたスペースにスーパーの懐中電灯を置いた。高級品の並びに収まれば安物でも見栄えがするかと思ったがやっぱりそれなりにしか見えなかった。バックパックも同じく洋品店の洒落た物から大きくて丈夫で実用性の高い物へと交換した。新しいバックパックにタブレット、手帳、ペン、懐中電灯、医療品を詰めなおし、そのうえにナイフ、ライター、キャンプ用ストーブ、ロープ、非常食、水筒を追加で入れていく。バックパックが重たくなる度にリストに引かれた傍線も増えていく。バックパックに入り切らなくなると外に止めたトラックまで歩いていって荷物を積み、また空になったバックパックを担いで店に突入した。ダッチオーブン、ポリタンク、その他キャンプ用品一式、工具一式。大きなブルーシートを手に入れて車の荷台に被せる。これで荷物を濡らさずに済む。
おなじ建物には隣に高島屋デパートがひろがっている。1つの建物に東急ハンズと高島屋が隣り合わせではいっているのだ。さらにその隣の建物は紀伊国屋書店だが、そこも天空回廊で繋がっている。この新宿高島屋から東急ハンズ、紀伊国屋書店までの大きな商用施設は新宿と呼ばれていながら実際の所在地は渋谷区千駄ヶ谷になるのだが紀伊国屋書店までいくともう新宿駅より代々木駅のほうが近い。漣はいま東急ハンズ側から高島屋デパート側に探索する場所をかえたところだ。彼は催事場でロボットの展示即売会が催されたあとを見つけた。
「これは良いぞ」
警備ロボット、清掃ロボット、育児ロボット、建設労働ロボット。様々な商品が主が来るのをまって並んでいる。なにもすべての労働を自分でやる必要はない。人類が残してくれた遺産を使わない手はない。だが手前に立つデモンストレーション用の汎用型ロボに声をかけても反応がない。背中のスイッチに手をのばす。スイッチはオンでバッテリーはフルだった。
「なにがいけないんだろう」顎をさする。
小一時間試行錯誤してみるものの結局どのロボットもまったく動こうとはしなかった。理由があるはずだ。あるいは人類の消滅と関係しているかもしれない。というよりもおなじ理由では。そう考えた。〝連中〟のやりそうな事だ。急に人の姿に似た隊列に恐怖を感じる。まるで立ったまま死んだ囚人のようだ。
次のフロアへ。
バックヤードで医療センターを見つけた。あらためて傷口を消毒し雨と血で汚れた包帯を捨てて巻きなおした。
「自分でも感心するよ。よく生きてる」そう言って微動だにしない看護師ロボの反応を待ってみる。
紳士服のフロア。ボクサーパンツ7枚と靴下7足。そのうち1組を早速履く。一旦デパートを離れて道路を挟んだ向かいのAVIREXの店へ。着ていた服を脱いでカーゴパンツ、Tシャツ、フライトジャケットに着替えた。デッキシューズも脱ぎ捨ててワークブーツに履き替える。上流階級専門店の服は見た目には都会的で上品だがサバイバルにはむかない。着替え用にと買物袋に必要な分を詰めてさらに隣のリーバイスの店でジーンズとシャツを追加。これで当面の衣類には困らない。舐めたらとろけそうな艶をしたピックアップトラックの荷台には柔らかい物から固い物まであらゆる荷物がひしめき合った。アクセルも相応に重たくなる。漣はブルーシートの隙間から漏れた雨水でせっかくの荷物が濡れないか心配しながら車を次の場所へと移動させた。
狛江にあるワンルームアパートは主人が帰宅する以前から扉が開いていた。おかげでドアノブを蹴破る手間が省けた。漣自身も鍵を持っていなかった。親衛隊に奪われたきりだからだ。部屋の中はもとの状態に収まっている物がなにひとつも無いほどに荒らされていた。このことからも親衛隊が漣を家に帰すつもりがなかったことがうかがえた。はじめから殺すつもりだったのだろう。せめて写真だけでも。そう思ってカビ臭いガラクタをひっくり返してみたが見つからなかった。割れた窓ガラスの破片を避けながらベランダに出ると転がった観葉植物が1つ。ひろって裏の空き地に植えなおしてやろうと外に出た。この辺りの夜は寂しい。シャベルで穴を掘っていると誰も居ないはずなのに背中に視線を感じた。ふりかえると体長1メートルの蛇が鎌首をもたげていた。人間がいなくなったのでテリトリーを広げたようだ。爬虫類や両生類は苦手だ。ぬめりとした皮膚感、予測しづらい動き、ASPDいわゆるサイコパスを彷彿とさせる無感情な瞳。体長10センチに満たないヤモリでさえ見ると飛びあがって逃げてしまう。身体が硬直する。噴き出す汗が生傷を刺激した。蛇は人間に興味があるようにも無いようにも見える動きをつづけた。観葉植物を放置してしゃがんだ姿勢のまま後ずさりしてみる。うごいたのがかえっていけなかったか。蛇が今度ははっきりと漣を見すえた。細い身体からは想像できないほど縦に大きく開いた口。その先端には注射針のような鋭い牙がなまめかしい白色を見せていた。永遠と思えるほどの睨みあいのすえ 蛇はおどろくべき跳躍力で襲いかかってきた。反射的に左腕で顔を覆い、持っていたショベルで応戦する。蛇の首にショベルの刃先が当たり細長い生物はそれまでのベクトルとは違う方向に叩き落とされた。柄から手首さらに骨の折れた小指へと伝わった生き物の重みと柔らかさに身震いしてしまう。次の瞬間 左手の甲に冷感に似た痛みを感じた。見ると放物線を描いて血が滲み出していた。蛇は態勢を立て直すとあきらめずに宇宙で唯一の哺乳類を威嚇した。ふたたびの睨みあいがつづいたが、やがて夕食にするにはリスクが高すぎると藪の中に消えていってくれた。
やっとのことで部屋へ逃げ帰り、壊れたドアからいかなる者も侵入しないよう急場でバリケードを張る。それでも壁や天井のどこかに爬虫類や虫が這いずりまわっていないかと眼が勝手に探してしまう。考えてみれば哺乳類以外は何事もなく地球で暮らしているのだ。やっかいな世界に放り込まれたものだと顎をさすった。いやしかし本来なら喜ぶべき状況なのかもしれない。仮にすべての生物が絶えてしまったならば人は1年と生命活動を維持できまい。勇気さえあれば久々の動物との再会にこちらから握手を求めるべきだったのかも。勇気さえあれば。タンスの下敷きになっていたバスタオルを引っぱりだそうとして尻もちをつく。その拍子に転がっていた椅子の足で背中を突かれた。身体を拭くのをあきらめる。
「やめよう。ここには何もない」
立ちあがりバリケードを外して玄関の上にあるブレーカーを落とした。高性能のフラッシュライトを点灯させて最後にもう1度だけ部屋を見わたしてみる。
「最後までこの部屋には思い入れを持てなかったな」
外に出ると雨音が強くなっていた。蛇の影に怯えながら駐車場まで走り、ブルーシートの掛かった車の荷台をまさぐって医療用具を引っ掴んだ。運転席で消毒するうちに手の甲が脈打つように痛み腫れあがっていった。また1つ傷が増えた。手首から先が痺れて感覚が失われていく。まさか毒などないと思うが。予想より医療用具の消費が早い。またどこか病院かドラッグストアに寄らなければ。エンジンを掛けてヘッドライトを灯す。痺れる左手が不器用にギアチェンジをした。右小指の骨折と左手の腫れ。よく車を運転できるものだと自分でも感心する。絶え間なく揺れるワイパーがリアウィンドウの雨粒を蹴散らしていた。車がエンジン音をあげてやけに寂しい夜道を走っていく。
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