バードサンクチュアリ
雪煙を弾けさせてピックアップトラックが夜道を走る。なかなか見ることのできないガソリンエンジン車だ。しかも前2輪、後4輪の計6輪駆動。交通管理システムによるAI搭載型EV車の一括制御が可能となって以来すっかりおぎょうぎの悪い車と嫌われていた旧車。有毒な排気ガスを撒き散らし、うるさい音で周囲を不快にし、おまけに運転ミスで事故を起こしかねない。だが人類が滅亡して以降はこういった車のほうが頼もしい存在となった。人型ロボットが動かないのと同じく自動運転を基本とするAI搭載型EV車は上手く機能してくれない。中枢となる交通管理システムが消滅してしまったからだ。知能が高い故の弊害といえよう。
崩壊したビルの谷間に東京都庁が見え隠れしている。巨人の音叉を横目にさらに甲州街道を南下していく。そういえば すべてのブレーカーを落とした最初の建物は都庁だったな。あの時からクリスマスシーズンにあわせてライトアップされていた赤と緑の照明も消えていたのだっけ。そんな回想をしているうちに眼前に新宿パークタワーが現れた。スピードを落としたトラックが右折して地下駐車場へと飲み込まれていく。
東京都庁と新宿パークタワーは中央公園を挟んでそそりたつ双子の高層ビルである。独裁政権が樹立するより昔に同じ建築設計士の手によって生みだされた。都庁が巨人の音叉ならパークタワーは天を射抜く3本の矢だった。双子は老朽化してもなお洗練さを衰えさせなかった。むしろ近年建設された建物よりもずっと頑強で荘厳な佇まいを維持している。それというのも第二次大政翼賛会が幅をきかせるようになって以来、ビル建設には癒着や手抜き工事がつきものとなってしまったからだ。そのせいで人類滅亡後、頻発するようになった地震に耐え切れず倒壊していく建物は皮肉にも新しい順番という状況がおきている。
中央公園の南に位置したパークタワーは地上52階、地下5階の複合ビルで、オフィス、テナント、ホテルがそれぞれ建物のなかで住み分けられていた。かつては。現在は唯一の哺乳類である漣がここを根城としている。
6駆のルーフに積もった雪をはらい荷台のポリタンクを降ろす。そいつを肩に抱えて階段を登る。周辺の井戸で水を汲み上げて3階まで運ぶのは彼の日課のひとつだ。3階は男の生活拠点となっており、エレベーターホールを中心に水場、倉庫、書庫、そして男が普段食べたり寝たりする部屋と並んでいた。漣が寝泊りする部屋はもとは殺風景な事務所だった。それを時間を掛けて好みの部屋に改造した。ブラックウォールナットのフローリングに漆喰の壁。アルミ製の空気孔はドリルで開けた通気口を隠すのみでなくそれ自体がアンティーク調のインテリアとなっていた。秒針の音が耳障りなアナログ時計。空気孔と同じ風合いのペンダントライト。額に入ったモノクロ写真はマンハッタンの風景で人の姿は写っていない。チーク材の食器棚には高級な食器が収まっているがどれも数は1枚ずつだ。大きいサイズの合皮のソファ。重いオーク材のテーブル。鉄製の薪ストーブ。ストーブの上に並ぶ業務用の大鍋と家庭用の小鍋。ダブルベッドに敷かれたシーツには皺ひとつない。月明りを追い払うようにカーテンを閉める。いまさっき運んだポリタンクの水が大鍋へとそそがれる。ストーブの火種に空気を食わせて薪が赤くなるのをしばし見つめる。やおら立ち上がり残った水を隣の水場まで運んだ。水場はもとは便器が並んだ共同トイレだった。ここも漣の手によって徹底的に改築され調理場と洗濯場とバスタブとトイレがそれぞれパーティションで仕切られたスペースになっていた。
すべてのポリタンクを運び終えるとこんどはバックパックに入れられた品物を倉庫に収める。棚に工具、ボールペンの替芯、洗剤、下着が並べられる。先入れ先出し。賞味期限がせまった缶詰と種子、鳥の餌。最後に拳銃を所定の場所に置いて終了。漣は拳銃を枕の下に置かない。寝つきが悪いからだ。片付けを終えると暖かくなった部屋に戻りタブレットを充電器とスピーカーに繋いだ。底冷えする世界にジャズが染みていく。朝はクラッシック、午前はボサノバ、午後からはロックかクラブ系、日が暮れるとジャズ。それが漣の1日。曲を掛けっぱなしのまま今度は一階アトリウムへと降りていく。
アトリウムはかつてはイベント会場に使われていたほどの広さをもち、天井も高いところで3階分あった。その天井と壁の一部がガラス製になっていて今は月光と雪明かりが建物内部を照らしている。人類滅亡以前はビジネスマンや利用客が往来していたこの場所も今では漣の手によって室内農園兼バードサンクチュアリに様変わりしていた。昼に入手した鳥の餌を備え付けの器に入れてまわる。夜更けのせいか鳥たちの反応は鈍い。鳥の数は捕獲した半分まで減っていた。作物も思うようには育っていない。つくづく生き物を育てるには向かないのだなと首を振る。気を取り直して各所の戸締りを確認。同時にパークタワー周辺に設置してある太陽電池や風力発電の雪を払ったりバッテリーを交換したりした。とはいえ自前で確保しなくても電気は途切れることなく供給されているのだが。奇妙なことに。火力発電所がストップしているのは当然だろう。水力、風力、地熱、太陽光発電の一部がまだ生きているのかもしれない。それに地上で唯一の原子力発電所も。そしてこれら発電所がもたらすエネルギーが新宿まで届いているのは電力供給システムの知能が高過ぎず低過ぎずちょうどよいバランスだったおかげと考えられる。高過ぎればおそらく哺乳類と一緒に消滅し、莫迦なら人の手を借りずに稼働し続けることができなかったに違いない。それでも人がいた頃のように常にメンテナンスされている訳ではないのでどこかの電線が切れたらそれきりお終いだ。奇跡に甘えてはいられない。
バッテリーを3階まで運ぶ作業をポリタンクと同様に繰り返す。倉庫に並べ終えると用事もないのに習慣で隣の書庫にも足を運んだ。入って右の棚に並ぶ書籍は図書館から運んできたもの。左にずらりと整列したファイルはインターネットから抽出した情報をプリントアウトしたもの。インターネットは閲覧できるページが毎日のように減っていっているもののかろうじて利用できていた。すくなくとも拳銃よりも役にたつ。
ようやくエレベーターホールに置いたコート掛けにコートを吊るすことができた。そのまま服を脱いで洗濯機を回す。苦労して運んだ水があっという間に消費されていく。それでも水の心配はしていない。足りなければその辺の雪を溶かせば良い。
大鍋がぐわぐわと音をたてはじめた。物理学風にいえば水分子が激しく動いて外に飛び出しはじめている。宇宙は数式に支配されている。ピタゴラスが信じたように。漣が思っていた以上に。沸いた湯を水場まで運んで風呂桶で汗を流した。ぱりぱりに乾いたタオルで傷跡だらけの全身を拭く。部屋着に着替えると休む間もなく食事の用意を始めた。古くなったチーズ、痩せたジャガイモと大根の葉、乾燥させた野草と椎茸。宇宙食のチキンジュレ、新鮮な玉子をふたつ、2年以上前の玄米を2週間前に精米したライス。飲み物はこちらも古くなった茶葉による日本茶。デザートにはチョコバー。コーヒー豆が底を尽きてきた。手帳を開いて忘れないよう記入する。豆自体がそろそろ貴重品となってきている。劣化によりいよいよ入手困難となればインスタントに手を出すかそれとも自分で栽培するか。できるだろうか。稲の栽培でさえ敗北続きなのに。無論ミルクは無かった。牛が存在しないのだから。一方腐ることのない砂糖は港の倉庫に行けば一生分以上の量を手にすることができる。しかしここしばらくは砂糖を入れる代わりに無理に蜂蜜を多めに入れていた。早く消費してしまわねば食べ切る前に春が来てしまう。手に余るほどたくさんある物と、喉から手が出るほどに欲している物。食料調達は偏りが過ぎる。時々手を休めてはコーヒーをすすり残り水で食器を洗う。片付けが終わると就寝前の日課としているSNSとラジオのチェックをはじめた。人間が色として認識できない波長。その電磁波が人の居ない世界を寂しく飛び交う。この1年あまり意味あるメッセージを受け取ったことは1度もなかった。だが今夜は状況がちがう。いつもより時間を掛けてラジオのチェックする。スピーカーから出るガリガリという雑音がジャズのベースに干渉して耳障りだ。スイッチを消してタブレットに目を移す。更新されることのない仮想世界の遺物を手早く確認していく。どのSNSも変化無し。
「取り越し苦労か」そうあってほしい。
日課を辞めないのはまちがっても人恋しいからなどではない。一種の義務感と防衛本能。それ以外に理由はなかった。男の唯一の望みは鳥のさえずりと川のせせらぎに包まれてこのまま穏やかに暮らしていくことだけだ。
デパートのどこかに鳥が出入りできるくらいの穴があるのだろう。それとも地震が頻発するせいで少しずつ土台からずれてきて、たまたま今日のタイミングで崩れただけ。不安に振り回されてはいけない。楽観的怠惰と神経質的臆病さ。
「バランス、バランス」言い聞かせてアプリを閉じかけた。その時だった。
「ん?」
最後のSNSが突如として目の前で更新された。ワシントンDCからだ。傷跡だらけの指が髭面の顎に触れようと移動する。
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