無人デパート

 最初に漣を驚かせたのはチョコバーを持ち去った何者かは缶詰やドライフードなど他の食料品に手をつけていなかったという点だった。これは疑問であると同時に衝撃でもあった。まさか先方は食料調達に困らない生活をしているというのか。にわかには信じがたい。

 一旦食料品売場を離れて同じ建物に同居する東急ハンズへと場所を移した。その日 物資調達で歩いてきたコースを遡るようして移動する。どのフロアも彼の手で照明が間引きされていて仄暗かった。フラッシュライトの光が手掛かりを探して回る。ふと漣は自分が百貨店の夜間警備員になったような錯覚を受けた。へたな泥棒より怪しい風貌の警備員。背中のバックパックが各階で調達し終えた荷物の重みで肩に食い込んでいた。野菜の種、工具、ペンの替芯、洗剤、鳥の餌。角の潰れた手帳にはそれら入手した品目と日付そして入手場所が丁寧に記されていた。緊急事態が起きなければあとは缶詰を賞味期限の近い順に選んでバックパックに詰め、そして家路へと向かっていた頃だ。侵入者がひろい売場のどこかに隠れていないか視線を飛ばしながら停まったままのエスカレーターを慎重に登っていく。途中でなにか気がついたように立ち止まり男は毒づいた。

「なぜ拳銃を置いてきた」

 いつもそうだ。必要な時に限って助手席に置いてくる。取りに戻るべきかと逡巡するが、既にこの建物にはいないだろうという楽観視が勝って再び硬い階段を登り始めた。慎重と呼ばれる臆病。前向きという名の楽観。そうやって男はバランスをとって今日まで生き延びてきた。

 各階これといって異変無し。ラジオも触れられた形跡は無し。工具も漣以外に触れた者は無いようだ。過去に1度だけ足を踏み入れたことのあるバックヤードへ。華やかな売り場とは打って変わった埃っぽい部屋。電気はあらかた漣の手によって落とされていた。パソコンの裏に押し込まれた背広や制服をフラッシュライトが照らす。前回漣自身でやったものだ。その時以来何ひとつ変化が見られない。ただ悠久の時間を経て朽ちるのを待つのみ。

高島屋と東急ハンズが入ったビルの隣にも行ってみようとガラス張りの天空回廊を渡る。右手にはJRの線路があった場所。現在は真白な雪原だ。せっかく足を伸ばしたのに時間を浪費しただけだった。隣のビルにも変化なし。再び高島屋に戻って雪の積もった屋上から下の階へとしらみつぶしに確認して歩くことにした。レストランは漣が最後に使った時から時間が止まっている。書き殴って捨てたコピー用紙があのときのまま床に転がっている。レストラン街の1つ下の階の催事場ではロボットの隊列が漣を圧倒した。人の消えた世界に並ぶ人に似た物。警備専用ロボット、肉体労働用、農業特化型、家事特化型、育児専用、汎用型。近くの1台を小突いて溜息をついた。1台。1台でかまわない。このうちのどれかが起動してくれれば負担が大幅に減るのに。期待外れの群れをひと睨みしてまたエスカレーターを降りていく。次のフロアは子供服売場だ。

「ん?」

 足がとまった。なにかわからない。なにかが心のなかで引っ掛かった。子供服に関心を持つ機会はひさしくなかった。なので断定はできない。それでもなんとなくフロアが広くなったような気がした。フラッシュライトをあちこち向けてみる。ハンガーラックに身を潜める者はいない、迷い込んだ鳩が羽ばたくこともなかった。後ろ髪ひかれる思いでさらに下の階へ。婦人服売場変化無し。紳士服売場変化無し。通過するついでに下着を補充して手帳に記す。化粧品売場変化無し。続いて知る限りの出入口をすべて開けて回る。いずれも積もった雪に邪魔されて開けられない。開けることができても足跡のない無垢な雪景色だ。

 今度はデパートを離れて新宿地下道を北へ。レトロフューチャーを想起させる通路で動くものは漣のみ。かつて照明を間引きした際に使用した脚立が壁に立て掛けられたままになっている。いつ停電しても文句の言えない状況。むしろ電気が供給され続けているほうが奇跡だ。フラッシュライトの電池を東急ハンズで交換しておけばよかったと後悔する。やっぱり拳銃も。楽観的怠惰と神経質的臆病さとの葛藤。そうこうしているうちに東京メトロ新宿三丁目駅改札口が視界に入ってきた。駅構内に入ろうとして改札機に止められる。余計な機械ばかりが生きている。警報を無視して窓口に侵入し解除スイッチを探した。ついでに配電盤を開けて電気系統をあらかた落としてしまう。

 ホームには緊急停止したままの地下鉄。ここにも衣類が散乱していた。駅員の帽子。通勤鞄とネクタイ。セーラー服と割れた手鏡。ストローラーを覆うように被さった婦人服。いつものように衣類を見えない所に隠そうと拾ってあるく。車内の優先席にそっと置くが見渡せばその車両だけでもホームの数より多い衣服があることに唖然とさせられる。おびただしい数の人の残像から悲鳴が聞こえてくるようで耳を塞ぎたくなった。

「まあいい。この場所自体が納骨堂みたいなものだ。先を急がせてもらおう」

 地下鉄を降りて坑道の奥へとフラッシュライトを照らす。さほど遠くない場所で光はあっけなく闇に飲み込まれた。どこかで地下水がこぼれているらしくぽつりぽつりと音がする。あいたほうの手が不精髭をこすった。しばらくそうするのにまかせたのち漣はデパートに引き返すことを決意した。

「まさか東京全域に張り巡らされた路線をくまなく探索するわけにもいくまい」

 それにしてもと漣は考える。仮に人間がいたとしてそいつが地下鉄の坑道を利用しているのならなかなかの切れ者といえよう。これなら天候に左右されず広い範囲を移動できる。こちらもそうしておけば雪に埋まって死にかけることもなかっただろうに。


 探索範囲を狭めることにして再びデパートにもどった。メインエントランスを彩るディスプレイ。埃を落としてライトアップしてやれば瞬く間に輝きが戻るだろう。サンタクロースの顔が日本最後の首相となった人物に酷似しているのは偶然ではない。こんなところにまでと溜息をつくが それも含めて消滅してしまったのだから結果オーライと顔をあげた。ふとサンタの脇のソリが視界に入って急に気になりはじめる。荷台に積まれた袋の数に不自然さを感じたのだ。もうひとつあったほうがバランス良くないか。ソリに積まれた袋の中には実際にクリスマスプレゼントとして用意された品物が今もまだ入っているはずだった。デパートで購入した商品を一旦店側で預かり、任意のタイミングで渡すべき相手にサンタロボットが手渡す。そんなサービスが哺乳類絶滅以前には流行していた。近くによってソリを覗いてみようと壇上にあがる。ソリの周囲には大小様々な箱が散乱していた。飾るにしては乱暴だ。蹴ってみると重い。己もディスプレイの一部と化してしまった男は今度はソリの背後に立ち並ぶ陳列棚を気にしはじめた。かきわりの役割も担っている格子状の棚、そこには無数の玩具が並べられていた。電池が切れるまでレールの上を回っていたはずの列車、ねだる女児とさしてかわらない幼さのままごと人形、メタリックなバルーンはしぼんで他の星に住む生命体みたいになっていた。漣が気にしたのはマトリョーシカの下段に並ぶクマのぬいぐるみだった。現実世界ではありえない赤色と緑色のクマ。赤と緑が交互に並んでいるのが途中から乱れていた。しかし地震の際にどこかに落っこちた可能性も考えられる。もとはどうだったろう。記憶をたどろうにもおぼろげなものしか浮かばない。まさか今になってディスプレイを鑑賞することになるとは。もうすこし近づいて触れてみようと手を伸ばすが次の瞬間 無音の世界でガラス戸を叩く音にふりむかされた。腰に手をやるが拳銃は車の助手席。万事休す。

「なんだ。おどかすなよ」

 犯人はエントランス前の広場を根城にしているスズメだった。寝ぼけて窓にぶつかったようだ。舞台から降りて外に出ようとするが、その前に親らしき別の1羽が飛んできて連れもどした。

「鳥かな」

 そうつぶやいてディスプレイにふりかえった。チョコバーの犯人も違和感の正体も建物に侵入した鳥かもしれない。そうあってほしい。きっとどこかに出入りできる穴が開いているのだろう。今はそう思おう。


 外に出るとあたりが暗くなっていた。都市を覆う雪原が月光を反射して仄かに男の背中を照らしている。男は三日月に向けてふうっと息を吹きかけてみる。漂白された吐息は1メートルも月に近づかないうちに闇のなかに霧散した。ワークブーツが鎖みたいな形のフットプリントを作り始める。何メートルも何メートルも。行く先には黒いピックアップトラックが待っている。大きくて頑丈で融通の利かない古いヤツ。

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