第11話 St. Christina and St. Rita
(こ、ここでいい? どう? マッティ?)
あたしは今、どこの誰かも知らない赤の他人の立派なお家の屋根の上にいます。
(問題ないとマッティは判断する。ここからであれば彼らの動きが捉えられる。では、次だ)
次、次、次。
もう、これで五台目なんですけど、と声に出さずに文句を言うあたし。
この先に横たわる環状七号線の交差点に控えている人たち――多分、自衛隊と警察の合同部隊だ――により築かれた検問を突破するため、マッティが考案した作戦のうちのひとつが『彼らの動きを観察すること』だった。
大規模な編成と人員で展開されているのは、国道4号線と交差する『
「ね、ねえ? マッティ?」
あたしは、密集した民家の屋根から屋根へと飛び移り、駆けながら、後ろ前に背負ったサブバッグの中にちょこんと鎮座しているミルクティー色のハンサムなくまのぬいぐるみ――マッティに尋ねる。
「どうした? アオイ?」
「これってさ――」
指さしたのは、バッテリー充電済みのハンディタイプのデジタルビデオカメラだ。
「あといくつ設置したら終わりなの?」
「その回答は難しい、とマッティは言う。『敵』の展開数にもよるからだ」
「『
「アオイが大事な者を救う妨げになっている者たちだ。ならば『敵』だとマッティは判断する」
「……っ」
ついつい、今この瞬間を切り抜けることだけに精一杯になってしまっていたけれど、あたしのするべきことは、奴ら――『ノグド』に連れ去られてしまった弟の、
「マッティの考え方はシンプルなんだね」
「イエス」
次の家の屋根までは少し距離がありそうだ。
たたた――たん!
小さな歩幅で一気に加速して踏み切ると、宙でくるりと一回転して隣家の屋根に着地した。
「よっと。どう? 着地もバッチリでしょう?」
「……素晴らしい。次からはなるべく音を小さくして欲しいとマッティは懇願する」
「ご、ごめんなさい……」
でも、中等部の頃から体操部で厳しい練習を重ねてきたのが、こんなところで役に立つとは思ってもなかった。はじめ、マッティに『アオイは猫のように屋根を散歩できるか?』と尋ねられた時には、あたしの頭の中はクエスチョンマークだらけになった。まさか、こんなことを。
「次も飛ぶよ。しっかり掴まっててね、マッティ」
たたた――たん!
たたた――たん!
あたしは集中し、できるだけ速く、できるだけ音を立てず、できるだけ正確に飛ぶ。
『次の大会は――クリスティーナ――
『え……!? は、はい! ありがとうございます! 頑張ります!』
顧問でありコーチでもある
ああ、クリスティーナ――聖クリスティーナ。
その信仰ゆえに、貴族だった実の父親から数多くの残酷な拷問を受け、裁判によって裁かれた
もっと良いのだってあったと思うのに。
最後は弓矢に射抜かれて死ぬ、だなんて!
はじめて聖クリスティーナについて調べてみた時に、まだ小等部だったあたしは愕然としてしまったのだ。その悩める心の
『きっと神父様が、生まれたてのアオイさんを見た時に、聖クリスティーナの強さや信念があなたの中に宿っている、とお感じになられたのよ。でも、そこまで神経質になることもないわ』
『そう……ですけど……』
『だったら、あたしはリタよ』
『
そう聞き返すと山咲先生はおどけた仕草で肩を
『そう。カッシアのリタ。DVに苦しみながらも夫を改心させたけれど、結局は夫もその復讐を決意した息子ふたりも失って、修道院に入ったそうよ。でも、その頃にはだいぶ歳をとっていたから断られてしまって、懲りずに通い続けて、四回目でやっと!』
いつも厳しくて怖い、という印象だった山咲先生の、今まで見たことのない
『イエス様の像から飛んできた
そう言って、ぐるり、と目玉を回してみせると、優しい微笑みを浮かべながらあたしの身体を抱きかかえるようにして、山咲先生はこう囁いた。
『……でもね? 今は意外と好きよ? このクリスチャンネーム。……だって、暮森さんを笑顔にすることができたもの。それだけでもラッキーだわ!』
『それに……先生は良い匂いがします』
『あら、嬉しいわ!』
それから山咲先生は、急に表情を引き締めるとこう告げた。
『それにね? リタは、絶望的状況、必死の状態、望みがない時の守護聖人なの。大好きなみんなを救うチカラが、あたしの中のどこかにあるって考えたら、とても素敵なことじゃない?』
『ええ、そうですね』
『次の大会、きっと優勝できるわ! このあたしがついてるんだから、ね、暮森キャプテン?』
あの時から。
山咲先生は、あたしの憧れの存在になったんだ。
また……会えるかな。
ううん、山咲先生はリタなんだもの。こんな『絶望的状況』だからこそ、きっと――。
たたた――たん!
「……よし。これで持ってきたビデオカメラは全部設置できたよ、マッティ」
「では戻ろう、アオイ」
静かに明けていく空を見上げながら、あたしは猫のように屋根から屋根へと飛び移る。
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