2.灰色の天使様

 ――このつまらない世界なんてなくなればいいと思う


『おさげの天使様』こと朝比奈あさひな真琴まことは、電車の椅子に座りながら読み終えた本をゆっくりと鞄に片付けた。

 新学期が始まった春。真新しい制服を着た一年生も多く乗る電車内はこれまでと違った楽しそうな雰囲気に満ちている。



(霞んで見える……)


 そんな当たり前の風景を真琴が見なくなってどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。見るもの聞くものすべてがまるで何かがかかったかのようにはっきりと映らない。

 いつも通り真琴はずっと下を向いて駅まで過ごした。




(また無いか……)


 高校に着いた真琴。

 エントランスにある靴入れに、また自分の上履きが無くなっていることに気付いた。慣れたこととは言え一瞬体が動かなくなる。心を何か黒い幕のようなものが包む。



(あ、あそこにある……)


 真琴の上履きは少し離れたところに投げ捨てられるようにして落ちていた。落書きとかはされていない。真琴は近くにあったことを安堵しつつも、これ以上何も感じないよう心を殺した。




 ガラガラガラ……


 教室に向かう真琴。

 真っ黒なおさげの少女はとにかく目立たなく一日過ごしたいと願って学校にやって来る。だがそんな彼女のささやかな願いは自分の机を見てやはり無理なんだと思った。



(ごみ……)


 机の上にはごみ箱をひっくり返したようなごみで溢れていた。

 真琴は無表情になって教室後ろにある清掃道具を取りに行く。朝のまだ少し冷たい空気の中、真琴に注がれるクラスメート達の視線。真琴の高校は女子の比率が多く新しいクラスも女子が多かったのがだ、誰も彼女を助けようとする者はいない。

 その理由の女が真琴に声を掛けた。



「朝比奈ぁ、朝から掃除~? えらいじゃ~ん」


 真琴の前に腕を組んで現れた女子、たちばなカエデ。

 真っ赤なボブカットに少し冷たい印象の顔立ち。クラスカーストのトップに立つ一軍女子である。



「そんなんじゃないから……」


 真琴は彼女を避けるように教室後ろへ行こうとする。すると取り巻きの女子達がその行く手を遮るように立つ。カエデが笑いながら言う。



「手伝ってあげようか~?? あはははっ!!!」


 教室中に響く笑い声。

 真琴に何の落ち度もなかった。ただ新学期早々『暗い』とか『ウザイ』と言った理由でカエデの目につき、真琴への嫌がらせが始まった。



 ――このつまらない世界なんてなくなればいいと思う



 真琴は笑い声が響く教室でひとり立ちながら、もやがかかってはっきりと見えない風景を見つめながら思った。






「きゃはははっ!! ほんとマジ、最悪ぅ~」


 放課後、カエデは取り巻きの女達と一緒に下校していた。

 話題はやはりいじめ対象である真琴。さしたる理由もないくせにいじめをし、共通の敵がいるという安心感に皆が包まれている。取り巻きが言う。



「ねえ、カエデ。今日はファミレス行ってから、カラオケしない?」


 カエデが答える。


「ファミレスより『カノン』行こうよ」


『カノン』とは学校の帰り道にある喫茶店である。一杯ずつドリップされたコーヒーが美味しい少し大人の店。取り巻きが言う。



「えー、また? ファミレスのドリンクバーでさあ……」


「カノンでいい」


 カエデの強い言葉。

 それには理由があった。




「いらっしゃませ」


 喫茶店『カノン』。女子高生とは無縁の大人びた喫茶店で、ドリップコーヒーが売りのお店。それほど大きくない店だが近所の主婦やサラリーマン、カエデと同じ女子高生などいつも繁盛している。



「どうぞこちらへ」


「はい……」


 カエデはそこで働くアルバイトの大学生に席まで案内される。学校ではカーストトップのカエデ。その彼女が最も女の子らしくなるのがここ『カノン』である。

 カエデはその赤い髪同様に頬を赤く染め、案内してくれた男子大学生の顔をちらりと見る。



さん、今日も素敵……)


 カエデはその彼の胸につけられた名札の『三上』と言う名前を見て心ときめかせる。椅子に座った取り巻きがカエデに言う。



「カエデ~、良かったね。三上さんいて」


「ち、違うわよ!! そんなんじゃないって」


 そう拒否しながらも横目でカウンターに戻って行く三上を見つめる。

 カエデが女子高生から絶大な支持を受けるファミレスではなくこの喫茶店にやって来る理由。それはアルバイトの三上龍之介であった。



(素敵……)


 龍之介がカウンターでコーヒーを淹れる姿が好きだった。

 落ち着いた感じでいつも笑顔でいる。

 初めて会った時からカエデの心は龍之介にぎゅっと掴まれたままである。




「龍之介君、コーヒーみっつね!」


「はい!!」


 龍之介は高齢のマスターに代わり、ずっとコーヒーを淹れている。同じくアルバイトの大学の先輩と小さなこの喫茶店を切り盛りしている。




「カエデ、声かけちゃいなよ」


「えー、そんなの無理だし。って言うか、そんなんじゃないって!!」


 そう言いながらもカエデの視線はずっと龍之介を見つめたままである。



(あ、来た!!)


 龍之介がトレーに水の入ったグラスを持ってやって来る。緊張しながら龍之介がやって来るのを待つカエデ。龍之介があることに気付く。




(あっ。やっぱりそうだ。『おさげの天使様』の制服はこの子達と同じだ!!)


 今朝、電車の中で見かけた『おさげの天使様』。

 ユリ一筋で、女子高生などに全く興味のなかった龍之介が、彼女の着ていた制服が今椅子に座っている女子高生達と同じだとようやく気付いた。グラスをテーブルに置きながら龍之介が思う。



(うん、間違いない。同じ制服だ)


 嬉しそうな顔をする龍之介。取り巻きに肘で突かれたカエデが恥ずかしそうに龍之介に言う。



「あ、あの。いつもコーヒーありがとうございます。とっても美味しいです……」


 最後は消え入りそうな声。とてもカーストトップに立つ女の声ではない。憧れの人の前ではカエデとてただの乙女。龍之介が笑顔で答える。



「ありがとう。あの、その制服、どこの学校なのかな?」


(え?)


 カエデは意外な言葉に驚いて龍之介を見つめた。



「興味があるんですか……?」


 恐る恐る尋ねるカエデに龍之介が答える。



「うん、ちょっと知りたいかなって思って」


 そうはにかむ龍之介にカエデの心ははち切れそうなぐらい激しく鼓動する。



「れ、令華高れいかこうです……」


 最後は下を向いて小さな声で答えたカエデ。龍之介が言う。



「そっか。ありがと。アイスコーヒーみっつね」


「は、はい……」


 注文を受けカウンターに戻る龍之介を取り巻きたちが見ながら言う。



「え!? なにあれ?? もしかして気にしてんの、カエデのこと??」


 その言葉にカエデの顔が更に真っ赤に染まる。


「そ、そんなんじゃないって!! 違うよ」


「だって学校聞かれたし」



「違うって!!」


 そう言いながらもとろんとした目でカウンターに立つ龍之介をカエデはじっと見つめていた。






 ――このつまらない世界なんてなくなればいい


 同じ時間。

 ひとり帰りの電車でただ本の活字だけを見つめながら真琴が思う。ぼやけた視界。虚ろに響く周りの音。灰色の世界にひとり彼女はいた。



『おさげの天使様』


 そんな色のない世界に住む彼女が、龍之介と知り合うことになるのはこの後すぐのことである。

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