S.11 「そんな顔、初めて見た」
命からがらエルドの元に逃げ出した後、俺は長く気を失っていた。が、一瞬だけ目が覚めた時のことを覚えている。
霧が掛かったようにぼんやりとした視界の向こうにエルドがいた。どこかに寝かされているのか、運ばれている最中だったのかまでは分からない。酷く曖昧な視界を除いて、他の感覚は何一つとしてなかった。キャパオーバーした情報と拒絶にも似た強いパニックで、身体が全力で休息を求めている。まるで開いてはいけない箱を開けてしまって、それを再び閉じようとしているみたいに。
俺の意思に関係なく、この意識はじきに再び途切れるだろう。それまでの間、俺はただ俺の顔をじっと覗き込んでいるエルドを見つめ返していた。
エルドは、今まで俺が見たことのない顔をしていた。心配と安堵が入り混じったような顔だった。どちらも二年前の俺達にはなかったものだ。あの頃、俺達はひとつだった。何をするにしても失敗は存在せず、信頼という言葉すら不要で。相手に対する心配も安堵も要らなかった。少し誇らしげにも見えた。それも、かつて彼が俺に常に向けていたものとは違う気がした。
エルドは何を考えているのだろう? その時、彼がぽつりと呟いた。
「そんな顔、初めて見た」
ああ、お前も同じことを考えていたのか。
そう応えたかったけれど、声になったか分からない。俺がどんな顔をしているのか知りたかったが、もう眠くて仕方なかった。もっとエルドと話したいのに。既にエルドの顔も見えなくなって、俺は急速に闇の底に落ちていく。黄金色の光を思いながら。
俺は、物語の夢を見る。
*
俺は沢山の物語を知っている。
長く語り継がれる古い伝承の数々から、子供の妄想か酔っ払いのホラ話かというような荒唐無稽な話まで。教えてくれたのは姉か、エルドか、全く別の人物か。誰でもない気もするし、誰もがそうな気もする。俺にあまり昔の記憶はないが、ひとりではなく複数の人物によって書かれた本を拾い集めてきたような。そう喩えてみせれば、俺の覚えている物語がいかに多様であるかが伝わるだろうか。
昔の記憶と共に物語の枝葉末節は忘れてしまったが、深く記憶に残っているものも幾つかある。それは、例えば
それは、風を切って飛ぶ鳥。彼は蒼の美しい翼を持ち、どこへでも行くことができたがどこでも孤独だった。彼は使命に身を捧げ、誰よりも強く、故に誰も信用していなかった。
それは、砂を蹴って駆ける獣。彼は己の力と身に纏った瘴気で駆けた土地を滅ぼす侵略者だ。その瘴気は人々の理性を飛ばす効果がある。戦時中、彼は人々によって熱狂的に支持された。ひとつの宗教だったと言っても良いだろう。だが、戦争が終わり彼を忘れた人々は知らない。その生の終わり、彼がひとり滝壺の底へ沈んでいったことを。彼は強く、近づいた者は皆一様に狂った。故に最期まで誰も傍に近寄ることができなかった。
それは、樹木や花を背に乗せて空を飛ぶ鯨。彼は大きさを自由に変え、どんな状況でも背に乗せたものを確実に護る。それは、彼にとって世界で一番大切なものだから。たとえその背に住んでいた人が消えても、彼は住人の願いと記憶を護り続ける。彼は鳥や獣ほど強くはない。が、守護に関しては敵う者がいないほどだ。物語の中で、彼の
俺の傍に鯨はいない。俺は沢山のことを忘れている。リアと戦った時もそれを実感した。ただ、それは忘れたかった記憶なのではないか。今ならそう思う。この先思い出すことが、少し怖い。昔の俺はどんな人物だったのだろう。俺は「俺」だったのだろうか。何か、少しでも何か違っていれば、リアとも友達になれたのだろうか。
俺の中に残る沢山の物語。最初の大部分が欠けた俺の物語は、果たしてどのような終わりを迎えるのだろう。俺は何を望むべきなのだろう。まだ死にたくない。俺は「俺」のままで在りたい。ひとりも嫌だ。俺は「俺」を知ってほしい。覚えていてほしい。そのために、これからどうしていけば良いのか。
*
ヒビだらけの天井が見える。何処か廃墟の部屋だろう。硬いマットだけが辛うじて残されたベッドに寝かされていた俺は、数回瞬きしてからゆっくりと身を起こした。首を左右に回し丹念に周囲を確認してから、ことりと傾げる。
「エルド・・・・・・?」
俺をこのベッドに寝かせたのはエルドのはずだ。ほんの一瞬だが、彼が俺の顔を覗き込んでいたことを覚えている。あれが夢ではないのなら、エルドが気を失った俺を介抱したと考えて間違いない。
だが、彼は今どこにもいない。適当な廃墟に俺を放置して、またどこかに消えてしまったらしい。思わず愚痴めいたものが零れる。
「俺は、お前とちゃんと話したいのに」
エルドのところに何とか辿りつくまで、そのことばかり考えた。彼と友達になりたかった。リアみたいに裏切らず、ずっと味方でいてほしい。この先何があっても。過去に何があって、俺が何を忘れていたとしても。
リアのことは、今は考えられない。彼女がずっと俺を騙していたことも、俺に心臓を抉らせて自ら死んだことも。ただ、明かされた事実の数々とその衝撃で目眩がする。リアが話したことだけじゃない。あの時、俺は一瞬だけ自分が自分じゃないみたいだった。
俺は何者だろう。何を忘れているのだろう。何度も繰り返した疑問。俺は今も、自分が忘れたことを知りたいと思っている。姉が殺された理由を、エルドが変わった理由を、俺が知らない俺を知る必要があると思っている。リアは俺を騙していた。彼女は死んだが、「ミーチェ」という新たな敵の名前が明かされた。まだ他にもいるかもしれない。敵の存在が明示された以上、俺も何もかもを忘れたままの状態に戻ることはできない。俺は「俺」になりたい。「俺」で在りたい。誰かに縛られることなく。
だが、「知りたい」「知らなければならない」という思いの他に、俺の中には恐怖があった。過去の俺を知ることへの恐怖。俺は「忘れたいから」過去の多くを忘れたのではないか。深く埋めた罪を暴くような、そんな事実ばかりが出てくるのではないか。全てを知った後、俺は再び「俺」を忘れようとするのではないか。
しかし、今は知った後のことを考えても仕方ないだろう。怖くても、動かなければ何も始まらない。まずはエルドを探すべきか、リアと戦った場所に戻って落としてしまった彼女の心臓やミーチェの痕跡でも探すべきか。初心に返って、再び自宅への帰宅を試みるべきか。震える足でベッドから立ち上がろうとした時、目の前に何かが現れた。
「
突然の闖入者に、俺は武器を構える暇もなく慌てて距離を取る。何故こんなところにと一瞬思ったが、見た感じここは俺の家でもエルドの基地でもなさそうだったので現れてもおかしくはないのかもしれない。リアとの戦闘を経て、
しかし、無い。逃げた時に落としたのだろうか。俺の手元に武器は何一つ残っていなかった。俺は状況の打開策を考える。暫く頭を捻らせて、俺はようやく
武器は備えているようなのに、何故。
「もしかしてお前、あの時の生き残りか?」
リアとディア・ノクトを探索している時に魔法陣を刻んだ虫か、彼女と戦った時に集まった虫か。どちらにせよ、あの時俺が操った
俺はフラフラと飛ぶ
まず、脚に似た巨大な銃器を外す。武器を手に入れるだけならこれだけで良い。が、俺はさらに最奥、
そもそも、俺が操っていた
それに、
(
俺は金属の板に手を伸ばす。幸い、ここには何でもあった。俺が望むものは何でも揃っていた。ディア・ノクトならどこでもそうだった。だが、俺はそのことに初めて違和感を覚える。ディア・ノクトとは何なのか。俺は何故ここにいるのか。未だ帰ることができない「外」にある家が建つ街セディナはどんな場所か。そこで他人とすれ違ったことがあるか。そもそも家の周囲を歩いたことがあるか。ディア・ノクトになら沢山人がいる。だが、俺は彼らとまともに話したことがあったか。ひとつでも彼らの日常を知っているか。ディア・ノクトにおける「人間」とは、ただ俺が望む時に現れて必要な情報や物資を与える存在ではなかったか。
——俺は、何者か?
全ての謎に対する答えを、俺は知っている気がする。忘れてしまっただけで。しかし、もう一度思い出すのは勇気が必要だった。何故忘れてしまったのか。それを知るのが怖い。だが、もう忘れるわけにはいかない。俺は思い出さなければいけない。もう誰にも奪わせない。誰にも隠させない。裏切らせない。そのために強く、強く、強く。
ただ望んだ。強い願いが望みを叶えるのなら、全てを捧げてもいい。だから知りたい。教えてくれ。俺が忘れたものを。お前が知っていることを。
『そんな顔、初めて見た』
あの時。エルドの顔を見て俺がそう思った時、お前も同じように呟いた。ぎゅっと眉根を寄せて、しかし嬉しそうに。あの時、俺がどんな顔をしていたのか教えてくれないか。
エルド、お前は知っているのか。金属アームの長さを調整し、腹部にバネやトグルを仕込みながら、心の中で今唯一信頼できる味方に問いかけた。
(お前は知っているのか)
忘れた事実も、過去の俺がしでかした罪も。
それが、あまり良くないことだということは分かっている。好んでリアを殺そうとした俺のことだから。俺は忘れたくて過去を忘れたのかもしれない。それでも、俺は思い出したい。リアのことも、エルドのことも分かるかもしれないから。
「だから、俺が忘れたくなってもお前が覚えていてくれよ」
「はい! ボクがご主人の記憶も大切なものも護りますね!」
陽気な声にはっと顔を上げる。慌てて周囲を見回すが誰もいない。机に視線を戻すと、ロボットのクジラがレンズの眼と大きな口で器用に「笑顔みたいなもの」を作っていた。
「えっ?
ただ
「ご主人が望んだから、ボクは今こんな形でここにいるんですよ?」
俺はロボットの硬い身体を指で突いて、うーんと首を傾げる。
「何となくクジラのことは考えていたけど、おしゃべりは望んでなかったと思うんだがな」
「名前はアルがおすすめです!」
「話聞かないのも望んでいないんだよな〜?」
噛み合わない会話をしながら、俺は堪えきれず小さく吹き出してしまった。相変わらず好き勝手に喋るクジラを眺め、先ほど彼が「おすすめ」と言った名前を思う。
「ま、『アル』はお前の名前にいいかもな」
アル。俺の中にある物語の、鯨の名前。壊すより護ることを。最期はたったひとりになっても、大切なものを護るために強くなった者の名前。
「お前は俺が忘れても、真実を、俺の記憶を覚えていてくれるのか?」
「もちろん! そのために生まれてきましたから!」
そっと問いかけると元気な返事が返ってきた。俺はほっと息を吐く。悪くない。想定外に喧しいけど、いいやつだ。
俺は笑う。昔エルドといたずらの相談をした時のように、戯けた調子で更に問う。
「お前、強い?」
「はい! ボクは最強のクジラロボットですから!」
「頼んだら色々できる?」
「何でもお任せください!」
アルはアームを動かしながら、俺の周りをぐるぐる回った。
「じゃあ、とりあえず今の俺のことを覚えていて」
命じると、アルはアームを伸ばして俺の額に当てた。計器みたいなものがチカチカと明滅する。
「ご主人の魔力から、今までの記憶を記録しました。パターンは解析済みですので、今後は指示を受けずとも自動で記録し続けます」
アルの言葉は、俺が今後何を知り何を考えても彼が全て自動で記録し続けることを意味していた。俺は神妙に頷く。それでいい。それがいい。
俺は、もうひとつアルに頼んだ。
「それから、エルドを探してほしい。途中で見つけた
エルドと話したい。あいつが知っていることを知りたい。彼と、友達になりたい。なるべく安全に。未知数の敵がいる今、ディア・ノクトのどこにも安全な場所なんてないかもしれない。が、
できるか? 俺はアルに問いかける。彼はくるりと宙返りをした。
「もちろんです! 見つけた
「『エルドくん』って、その呼び方は一体何なんだ」
「エルドくんは、ご主人の友達で相棒らしいので! 古今東西、相棒のことは『◯◯くん』と呼ぶのが習わしです」
「探偵小説か何かと勘違いしてない⁇」
アルの発言にひとつひとつツッコミを入れながら、俺は笑いを止めることができなかった。「相棒」という響きが気に入ったのもある。エルドが聞いたらどんな顔をするだろう。
まずは彼を見つけなければ。自信たっぷりに応えたアルに任せるべく、窓の外にアルを放つ。静かになった部屋で軽く首を回し、椅子から立ち上がった。俺も外に出ようと思う。
一箇所に留まるのは、多分あんまり良くない。アルは俺の魔力で居場所が常に分かるはずだし、どこにも安全な場所がないならいっそ常に動くべきだ。その方が危険だが、できることも増える。怯えて動かないのはもったいない。
建物の外は、しんと静まりかえっていた。人の足音や羽音もない、ディア・ノクトのいつもの夜。ドキドキしながら外に出た俺はホッと息を吐く。これからどうしよう?
リアと戦った現場に戻ってみるか。それとも別の、例えばもう一度帰宅を試してみようか。そんなことを考えていた俺の前で、不意に何かが動いた。
(そんな、さっきまで何の気配もなかったのに)
反射的に後退りながら俺は戸惑う。しかしそんなことはお構いなしに、夜のヴェールを剥ぐようにしてひとりの女性が現れた。
その女性は、黒くぴっちりとしたスーツを着ていた。全身に夜の色を纏ってはいるが、白い膝を露出するタイトスカートとハイヒールのパンプスはとてもディア・ノクトらしくない。外見年齢は恐らく姉ぐらい。栗毛の襟足だけ少し長いショートヘアはひとつの乱れもなく整えられ、細いフレームの眼鏡で覆った
彼女は真っ直ぐ俺を見ている。俺を見て、とても上品に微笑んだ。
「こんばんは、良い夜ですね。貴方は迷子ですか?」
「お前は誰だ?」
俺は警戒する。武器を構えようとして、何もないことに気づいた。アルを作るのに夢中になり過ぎて、自分の武器のことを忘れていた。何という失態だ!
手を腰に当てて右往左往する俺を見て、何故か女性が目を見開く。笑いでも堪えているのだろうか。だが、舐めないでほしい。たとえ相手が敵で俺を殺そうとしても、すぐにその辺に落ちている武器を拾うなり
俺はアルを呼ぼうか迷った。が、その前に起こった女性の衝撃的な行動で頭が真っ白になった。
彼女は、懐から小さな石の人形を取り出した。翼を広げた天使の象。
「それは・・・・・・!」
「ええ。貴方が殺したリアの心臓です。可愛いでしょう?」
女性は、人形の頭を愛おしげに指で撫でる。それから俺を見て優雅に一礼した。
「申し遅れました。私は神によってルブフォルニアの管理を任されております『情報局』の局員、マチルダと申します。親しい者にはミーチェと呼ばれることもありますね」
彼女は自分がリアの親友で、俺を殺そうとした者だと名乗った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます