S.9 「自分の思い通りにならないのは、嫌?」
ディア・ノクトは天気の変動が少ない。
空にはいつも丸く明る過ぎる満月が昇り、常に暗闇の底にあるはずの街をぼんやりと人の目に映す。ふらふらと夢の中を彷徨い歩くような酩酊感。どこまで行っても終わりがないと確信できる万能感。雲の一欠片も、俺の視界を遮るのには値しない。
しかし、今は珍しいことに雨が降っている。
細く、冷たい雨だった。氷のように冷たい雨は、俺に立ち止まることを余儀なくさせた。否、雨を言い訳に立ち止まりたいと思ったのは俺かもしれない。冷たい水を避けて、崩れかけた建物の隅に身を寄せて、誰かに話を聞いてもらいたかった。酷く動揺しているこの気持ちを、ほんの数分前に親友が「敵」と断言した少女にでもいいから。
『そいつは敵だ。今すぐ離れろ‼︎』
エルドとようやく連絡がついた時、彼はリアを示してそう怒鳴った。もし彼女と出会う前だったなら、俺はあっさりエルドの意見に従っただろう。しかし短くない時間をリアと共に行動した俺は、彼女が敵ではないと思っていた。きっと、彼は何か勘違いをしているのだ。そう思った俺は、エルドにリアの事情を説明しようと試みた。リアが記憶を失っていること。彼女はディア・ノクトに迷い込み、家に帰りたいと思っていること。そのためにエルドにも協力してほしいことを告げた。
だが、エルドは協力を拒絶した。それどころか彼はリアが敵であるという態度を崩さず、彼女が俺を騙しているとまで言い放った。
『俺が間違っていると言うのか、エルド』
リアのことはとにかく、彼が協力しないと言い放ったことに俺は衝撃を受けた。二年前から今まで、そんなことは一度もなかった。エルドは俺の親友だ。俺の最高の相棒だ。彼はいつでも俺がしたいことに協力してくれた。俺が知りたいと言ったことを調べ、俺がディア・ノクトの秘密を解き明かしたら褒め称えた。俺の言ったことを疑ったり、拒絶したり、反論したりすることなんか一度もなかった。
しかし、あの時は違った。
『ああ、間違っているよ、シン』
エルドははっきりと断言した。俺が「間違っている」と。しかも、彼は俺がそれを「分かっている」はずだとまで言ったのだ。
『シンなら多分、もうとっくに気づいている。ただ、オマエの心がその子が襲撃者だって認めたくないだけなんだ。・・・・・・ああ、でもオレももっと早く気づけば良かったな。オレが、一番最初に、シンが寂しいと思っていることに気づくべきだった』
それは、哀れみすら含む声で。
『リアは敵だから協力できない。けど、オレはシンの味方だ。信じてほしい。オレはシンと本当の友達になりたいし、なれると思っている』
本当の友達? 俺とエルドは二年前からもうとっくに友達だ。たったひとりの親友だ。それとも。
「自分だけが友達だと思っていたって気づいたの?」
俺の話を聞いて、リアが問いかける。俺は力なく頷いて、しかし、言い訳をするように口を開いた。
「そのことは今はいいんだ。エルドは友達になりたいとも言った。あいつがどうして友達じゃないと思っているのかは知らないけど、そのことについて聞く機会は何度もあるだろう。間違いなく味方なら、今はそれでいい」
二年前から明らかに変わったエルド。その原因を追求するのは後でいい。まだ、ディア・ノクトが維持されているのなら。いや、俺は外に出たいんだったか?
とにかく、エルドが味方なら問題ない。不満がないと言ったら嘘になるが。
「味方だ。信じろって言うなら、もっと色々教えてくれたらいいのにな・・・・・・」
エルドが知っていること、彼がリアを敵と断じる理由。全てに納得のいく説明がほしい。そうぼやくと、リアが小首を傾げた。
「直接聞いてみたら?」
「聞いてみたよ。でも、今は危ないから教えられないって」
俺と通話することすら、エルドは警戒しているようだった。彼は酷く疲れた声をしていた。エルドは早口で俺に告げた。
『オレもオマエも殺されないために、今はこうするしかない。オレが護りながらヒントを出している間に、シンがそのクソチートで出し抜く以外方法がないんだ』
エルドはそう言って通話を切った。手元の携帯電話はもううんともすんとも言わない。俺は壁にもたれて天を仰ぐ。
「もう訳が分からないよなああああ‼︎」
思わず叫んだ拍子に、背後の崩れかけた壁がガタリと揺れた気がした。俺はびくりと肩を震わせ、慌てて背中を壁から離す。そこで、リアが呟いた。
「エルドがあなたを友達じゃないと言ったのは、あなたが彼と同じことをしたからよ」
「えっ?」
俺はリアの方を見る。彼女は雨音のように淡々と話した。
「わたしには分かる。きっと、ずっとそうだった。あなたが何を知っているのか。何を望んでいて、そのために何をするべきだと思って行動しているのか。誰にも教えない。だから誰も分からない。誰も何も理解できないのに、従わされる。あなたはそうあるべきだと、まるで運命のように支配される。そんな一方的な関係が『友達』と呼べると思う?」
「・・・・・・俺は、エルドを支配してなんかいない」
返した声は、自分でも分かるほど力なく掠れていた。
エルドは、俺の一番の相棒で親友。俺達は対等だ。ずっとそう思っていた。が、確かにリアの言う通りかもしれない。二年前、俺が望んだことをエルドは望んだ通りにしてくれた。彼と意見が対立して喧嘩、なんて一度もなかった。それは、俺がエルドにそうさせていたのかもしれない。
俺はエルドを支配したいと思ったことはない。だが、頭のどこかで彼が自分に従うのは当たり前だと思っていた。エルドだけではない。ディア・ノクトの全部、ルブフォルニアの全てを余すことなく知り、望めばどこに手を伸ばすこともできると確信している。そう、今気づいた。
顔を上げる。そこで、俺の気づきをリアも知ったのだろう。彼女はくすりと笑みを漏らした。
「あなたは神様だった。何もかも壊しても、それをひとつ残らず忘れても、全部の上に立つのが当たり前だった。それとも、そんなに自分の思い通りにならないのは、嫌?」
「神様」という言葉は、何故か俺の胸を強く打った。まるで目指すべき道を示されたように、あるいは見えないように深く隠していたものを掘り当ててしまったように。本能のような喜びとこびりつくような恐怖と躊躇が同時に襲う。
――俺は、何を忘れている?
幾度となく繰り返した疑問。俺はまだ何かを忘れている。それは確信している。思い出したら、きっと何もかも変わってしまうことも。
それでも、俺は「今の俺」で考えて、リアの問いに答えた。
「嫌ではない、と思う。これが『本当の友達』になるということなら」
エルドと喧嘩するのは嫌だ。意見が合わないのはイライラする。何で分かってくれないのだろうと思う。
ただ、それがエルドの本当の姿なら悪くないと思った。ようやくエルドと再会して、変わった彼に戸惑った。だが、同時にエルドのことを今までよりもずっと近く感じた。それは嬉しいことだと思う。だから。
「俺は、もっとエルドのことを知りたい。あいつともっと話すべきだと思う。喧嘩はいやだけど、昔よりもっとエルドと仲良くなれそうな気がするんだ」
エルドは、俺と本当の友達になれると言った。俺もそうなりたいと思う。エルドが考えていることを知りたい。見ているものを見てみたい。それが俺を変化させると知っている。俺がエルドを見つけて手を伸ばしたように、エルドが俺を変えていく。ずっとそうだった。
ただ、今まではそれが痛みを伴ったことはなかった。俺はエルドといたらいつもそれだけで楽しかったし、彼もそうだと思っていた。だが、きっともうそれだけでは駄目なのだ。
喧嘩は嫌だ。意見が合わないのは面倒だしイライラする。それでも、俺は今ここにぶつかるだけの「俺」と「エルド」が存在することを喜ぶべきなのだ。未知は恐怖を、変化は痛みを伴う。エルドが知っていて、俺が忘れていること。「危ない」と言って俺に教えてくれないことを知るのは、危険というだけではなく俺にとって苦痛を伴うことなのかもしれない。「クソチート」というのはよく分からないけれど、エルドは俺に詳細を話さず誘導することで痛みを減らそうとしてくれているのかもしれない。彼は優しいから。
それでも、俺は自分だけ知らない「俺」と「エルド」が在ることが寂しい。
(そうか、俺は「寂しい」のか)
ぐるぐると考えて、俺はそう思い至った。ひとりは寂しい。俺が知らないエルドが、姉が、リアがいることが寂しい。「彼らが知る俺」と俺が違うことが寂しい。寂しいのは嫌だから、もっと彼らのことを知りたい。俺のことを知ってほしい。こちらから手を伸ばすだけじゃ嫌だ。俺が家族や友達として彼らを求めるように、彼らにも俺を求めてほしい。
そして、本当に互いを理解するためには傷付く覚悟も必要なのだ。エルドはそれを避けてくれようとしているみたいだが、俺は彼をちゃんと知るためには少しくらい痛い方がいい。多分、エルドは俺が忘れたことを知っている。彼は既に、
返事を聞いたリアは、少し驚いているようだった。紅玉の瞳を見開いて、何も言うことなくじっとこちらを見ている。無理もないと思う。俺も驚いている。
だがきっと、考えるきっかけを得たのはリアと出会ったからだ。彼女と出会わなかったら、俺がエルドと「本当の友達」になりたい、ちゃんと話したいと考えるのはもっと遅かった。だから、俺は微笑んでリアに告げる。感謝の代わりに。
「リアとも『本当の友達』になりたいな。君のことも教えてくれる? ・・・・・・って、あ」
言ってから、彼女は今記憶を失っていることを思い出した。我ながらうっかりしている。リアの記憶を取り戻して、ディア・ノクトの外にある家に帰す。そのために、ずっと一緒に行動していたというのに。
リアのことを知りたい。友達になりたい。でも、まずは彼女の願いを叶えてからだろう。
幸い、雨は既にあがっていた。俺は立ち上がる。雨の雫を受けて、寂れ沈黙の底に沈む廃墟も少し輝いて見える。見慣れた景色の中に新しいものを見つけたような高揚。軽くなった心のままに俺は肩を回し、何故か動かないままのリアに手を差し出した。
「そろそろ行こう? 大丈夫。リアの記憶は、俺がきっと見つけるから」
リアは、俺の顔と手を交互に見てぽつりと呟いた。
「あなたも変わるのね? ずっと誰のことも考えない、誰が傷ついて誰があなたの犠牲になっても気にしない、我が儘な神様のままだと思っていたのに」
「え・・・・・・?」
「驚いた。とても驚いたわ。こんなことわたしも、きっとミーチェも考えもしなかった。でも、ごめんね。あなたとは友達になれない。わたしはもう、わたしの神様を決めているの」
一体、リアは何の話をしているんだ? 戸惑う俺に、彼女は己の掌を開いて見せた。そこには大人しく鎮座する一匹の
「ミーチェから連絡があったの。時間稼ぎは終了。でも色々想定外のことが起きたし、今後のことを考えて『
それは、死を宣告する天使にも似て。
「時間稼ぎ・・・・・・?」
俺は混乱する。リアが「ミーチェ」と呼ぶ人のことは知らない。今俺が知らない人物のことを話すということは、つまり彼女が記憶喪失と言っていたのは嘘だったということだ。否、今はそんなことはどうでもいい。大事なのはその後。彼女は「『
ディア・ノクトではない場所の家で、俺は姉と住んでいた。だが、俺は家がある場所を知らない。姉といつから一緒にいるかを知らない。一番古い記憶は、自分の部屋で目が覚めた俺に姉が微笑む姿。
『おはよう、シン』
これはいつの、いや、何回目の記憶だ?
「俺に何をするつもりだ、リア」
リアが敵であると、俺はまだ信じたくない。彼女と友達になりたいと思った。なれると思った。リアに、この嫌な予感を否定してほしかった。
しかし、彼女は無慈悲にも告げる。淫靡な微笑みに、もしかしたらただの希望かもしれないけれど、少しの哀しみを含ませて。
「ミーチェのために、シンには死んでほしいの」
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