S.6 「家に、帰れない?」
エルドと出会ってすぐの頃、姉に髪を切ってもらったことがある。
その時まで自分の格好になんかとんと無頓着だったが、エルドと出会ってから彼みたいになりたくて仕方なかった。服は肩から膝までを覆う一枚の布だけなんて嫌だ。エルドみたいに動きやすいズボンを履いて、格好良いパーカーやジャンバーだって着てみたい。ディア・ノクトを探索するのに裸足なんて嫌だ。エルドが持っているような格好良い靴を履けば、きっともっと色々な場所を駆けることができるだろう。エルドに憧れていた。彼みたいになりたかった。エルドみたいな「少年」になって、彼と一緒に夜の街を走り回ることができる友達になりたかった。
そのためには、地面を引きずりそうなほど長い己の髪も邪魔だった。エルドみたいにひとつに括っておけるように、せめて肩ぐらいの長さにしたい。だから姉に頼んだ。
これまで服や靴が欲しくなった時も姉に頼んでいた。俺が望んだものを(何故か黒と赤ばかりだったけれど)嬉々として用意してくれていた彼女は、しかし髪を切る時だけ俺の要望を無視した。
いや、髪は切ってくれた。「長くて邪魔だもんね」と言いながら、嬉しそうに俺を椅子に座らせて。だが、切った長さは肩までではなかった。姉は俺の髪を肩よりもうんと短く、とても後ろでひとつに括れないほど短く切ったのである。
俺は当然文句を言った。「エルドみたいにしたかったのに」とごねて、姉の服の裾をぐいぐいと引っ張った。姉は俺の手を止め、小さな子供を慰めるように頭を撫でた。
『外に出て遊びたいのでしょう? なら髪は短い方が良いわ。心配しなくてもいつかは伸びるものよ。「あの人」だって、貴方ぐらいの頃はすごく短かったんだから』
姉は座っている俺の正面に屈み、視線を合わせてにっこりと優しく微笑んだ。
『ねえシン、手を出してくれる?』
問われて、俺は右手を出す。姉のほっそりとした小指が俺の右手の小指に絡み、俺達は小さな約束をした。
『私の神様。まだとっても小さな、私の龍。でも貴方は、私に欠けたものを思い出させてくれた。私が無くした部分を満たしてくれた』
姉が胸に手を当てる。そこにはまだ、彼女の心臓が収まっている。
『私が貴方の願いを叶えてあげる。外に出たいというのなら、私が私の全部を使ってきっとどこにでも連れ出してあげる。だから、貴方は絶対に自由になってね。自由で大きな龍になって、その時は髪を伸ばしてね。貴方の黒髪も紅い瞳も、とても綺麗なのだから』
「私の龍」。強く言い聞かせるように、姉はその言葉を繰り返した。俺がそうあれと願うよりは、俺と知らない誰かを重ねるように。
たったひとりの家族だった姉のことを、俺はよく知らない。彼女はいつの間にか俺の姉になっていて、同じ家に住んでいた。俺は偶に姉の「お願い」を聞いていた気がするが、内容はよく思い出せない。それよりも、俺が姉に「お願い」を聞いてもらうことの方がずっと多かった。
姉は俺の「お願い」を何でも聞いてくれた。ほしいものは何でも与えてくれたし、弟として随分と可愛がってもらった。昔はそれだけで十分だった。
だがエルドと会ってから、俺は姉に誰かと重ねられるのが嫌になった。俺はシンという「少年」であるということを強く意識するようになった。俺は姉の言葉を否定し、姉もあまり「私の龍」と言わなくなった。それで一応の平穏は取り戻したはずだった。
しかし、姉はそうではなかったのかもしれない。二年前はただ無邪気に、エルドとディア・ノクトの探索に出かけてもいつも玄関先で出迎えてくれる姉のことを嬉しく思っていた。だが、エルドと会う前に比べて彼女と話す機会は確実に減っていた。少しよそよそしいというか、困惑していた気もする。俺には隠していただけで、姉が心身のバランスを崩していた可能性があると言われたら否定できない。
そういう小さな積み重ねがあって、俺が姉の死の理由の一端を担っているというならそうかもしれないな、ぐらいは思う。だがエルドの基地から放り出される前、彼が発した言葉は明らかに俺が姉を殺したと断定するものだった。
『違う。分からないのか、シン? 睡蓮さんを殺したのはオマエじゃないか』
基地の床が崩れる前に聞こえたエルドの声。あの言葉を思い出す度に酷い頭痛がする。全身が必死で何かを拒絶するように強張る。違う。俺じゃない。俺が姉を殺すわけがない! だが、俺は覚えていないのだ。自分の部屋の隣に何があったかも、目の前で姉が死んでいた理由も。あの時、部屋のモニタに何が表示されていたのかも。
そして、ディア・ノクトとエルドの明らかな変化。
——俺は、何を忘れている?
何かを忘れてしまったのか、何も知らないうちに世界が変わってしまったのか。
とりあえず、エルドの言葉は一度忘れることにした。俺が姉を殺すなんて有り得ないし、何より俺は家に侵入し
そこまで考えたところで、エルドがまたいなくなっていることに気づいた。俺がいる場所はディア・ノクトのどこかだと思うのだが、周囲を見渡してもありきたりな廃墟ばかりでエルドの姿はどこにもない。基地の床が崩れた拍子にはぐれたのだろうか。突然床が崩れたり扉の接続先が変わったりすることはディア・ノクトではそう珍しいことでもない。が、エルドとはぐれたのはやっかいだった。また長期間行方不明になられても困る。まずは彼がいる場所を探すべきか。
最初にエルドと話すために作った通信機はどこかに落としてしまっていたが、幸いにも魔法陣を刻むのに使えそうな細い金属の棒は見つけた。魔法陣は絶対に必要な以上、そのために
次は適当な場所で通信機を。そう考えて探そうと動きかけたが、試しに家に帰ってみることを思いついた。エルドに危険と言われて脱出してから大分時間が経っている。流石に脅威も去っている頃だろう。家にはディア・ノクトを探索するのに有用なものがあるし、真犯人を探すためにも姉が殺された現場を確認しておきたい。一度帰宅しても損はないはずだ。
最も、俺は自分が今どこにいるか分かっていない。ディア・ノクトは広大な、
意気揚々と家に繋がる扉を描こうとして、不意に思い至った。
(あ、今ならエルドがいる場所にも繋げられるか?)
彼が行方不明だった時に試しては失敗していたので、同じ方法でエルドがいる場所に直接行ける可能性をすっかり失念していた。
少し迷ったが、もうその気分だったのでまずは家に帰ることにする。今ならいつでもエルドに会えるだろうし、後に回しても問題ないはずだ。彼がどこかに存在し、誰かに邪魔さえされなければ、俺はどこからでも彼を見つけることができる。
家も同じ。これは「家に繋がる扉」だと信じれば、描かれた扉は魔法陣としての力を発揮し家と接続される。ここがディア・ノクトのどこでも関係ない。俺は家に帰れる。
「ただいま・・・・・・あれ?」
——はずだった。
声と共に一瞬で家と扉が繋がるはずが、様子がおかしい。魔法陣はバリバリと帯電しているように蒼白く明滅し、全くどこにも繋がらない。少し気合いを入れ直してみたら、ようやく自分の部屋らしいものを見ることができた。いつものベッド、窓、椅子に机。モニタの前に人がいる。俺は外側から部屋を見ていて、今そこは無人であるはずなのに。紺のスーツを着た栗毛の女が立っている。俺はこいつを知らない。侵入者だ。排除しなければ。俺が手を伸ばそうとしたその時、女が増えた。モニタの方を見る女を護るように、揃いのスーツを着た同じ背格好の栗毛の女が十人ぐらいぱっと現れた。女達と目が合った時、目眩を起こしたように視界がぐにゃりと歪み景色が変わった。
その場所は家ではなかった。全く知らない場所だった。白い部屋に人形のように規則正しく並び、背中の肩甲骨の間辺りをコードで繋いだ男と女。体つきも髪や肌の色もバラバラの彼らは、しかし不気味なことに皆全く同じ顔をしていた。茫洋とした瞳が俺を見つめる。俺は彼らを破壊しようとした。そうできると信じた。
しかし邪魔が入った。始めに視界を覆い尽くす蒼い薔薇。何故かエルドの気配。そして、扉の隙間から手を差し込むように俺を狙う強烈な殺気。
思わず扉から飛び退き、直後俺は目を見開く。殺気に覚えがあった。
「こいつ、あの時の!」
間違いない。姉が殺された日、背後から俺を襲った奴と同一人物だ。姉を殺し俺を殺そうとした犯人が、執拗にも再び現れたのである。
だが、あっちから出てきてくれるならむしろ好都合。犯人の正体を見破ってやろうと俺は意気込んだ。が、既にそこには誰の気配もなかった。逃げ足の速い奴である。
とにかく、一連の出来事から判明した事実がひとつ。
「家に、帰れない?」
少なくとも、俺の帰宅を妨害したい奴らがいるらしい。複数人からなる集団であることは間違いないだろう。同じ顔の気持ち悪い女達と、白い部屋に繋がれた気持ち悪い男女と、姉を殺し俺を殺そうとするおっかない殺気。奴らを排除して帰宅することは可能だと思うが、いかんせんリスクが高過ぎる。俺はそこまで何でもできるわけではない。
俺は一旦帰宅を諦めて、エルドに今見たものを相談することにした。自分ひとりで処理するには情報が混雑し過ぎている。エルドに聞いてみた方が整理しやすいだろう。それに、本当に一瞬だったがエルドの気配がした。彼が敵だとは思いたくないが、そうでなくとも何か知っているかもしれない。
通信できるものを探しても良いが、直接エルドがいる場所に行った方が早いだろう。俺は家に繋がる魔法陣に背を向け、新たにエルドに会うための扉を描くべく金属の棒を握り直した。その時、すぐ横の崩れた塀の陰からひとりの少女が現れた。
その少女は、美しい蒼の髪を持っていた。背丈は俺と同じくらい。
少女と目が会う。瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなった。見た目によらず素早い動きで駆けてきた少女は、肘まで覆う艶々した生地の手袋をはめた両手で俺の手を掴み、こちらが何か問いかけるよりも早く嬉々とした声を上げた。
「あなた! 良かったらわたしを案内してくれませんか?」
少女が微笑む。その笑顔は一輪の薔薇を思わせた。
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