S.5 「久しぶり、シン」

 ディア・ノクトが元々どういう街だったのか、どうして人が住めない廃墟になったのかは何となく予想がついている。が、そもそもこの夜の街がどれほど広がっているのかを俺ははっきりと知らなかった。

 昼間は歩き回るのも困難なほど濃い霧に包まれ、夜間は深い闇に閉ざされる街だ。月光があるから夜の方が探索しやすいとは言えどその光は淡く、街全体を余すことなく照らすには至らない。地図を書こうにも建物も道も日々幻想ゆめのように姿を変え、前日と似たような道を歩いても一度として同じ場所に辿り着いたことがない。ただ、遠くに見える白い塔がディア・ノクトの外にあることは知っている。その周りには人が生活する「生きている街」が存在することも。これらの知識だけが、夜の街が世界の果てまで広がっていないことの証明だった。

 不本意なことに、俺はディア・ノクトについて細部まで把握しているわけではない。だから、廃墟の崩れた壁の間に立っていたエルドが突然現れた階段で地面の下に降り始めても、それほど不思議だとは思わなかった。

 

『久しぶり、シン』

 

 エルドの声に導かれて辿り着いたディア・ノクトの片隅。初めて会ったところとよく似た場所で俺を待っていた彼は、開口一番にそう言うと背を向けて歩き出した。彼が他に何か言うことも、俺が話しかける隙も与えなかった。俺はエルドに聞きたいことが沢山あったし、色々と文句も言いたかった。が、どこか腰を落ち着ける場所に案内してくれているのだろうと思ったので、そのまま黙って彼について歩いた。

 薄い金属でできた階段は長く、深く深く地下へと続いていた。一歩進むごとに底冷えするような冷気が周囲に立ち込め、闇はとろりと濃くなっていく。足下もおぼつかなくなり、慎重に階段を降りる必要があった。それでも好奇心は止まらない。どこまでも広がっていると思っていたディア・ノクトが、まさか地下にも続いていたなんて! 闇の向こうに耳を澄ませても、自分達の足音しか聞こえない。階段の周りに、何か特別なものや空間があるとは思えない。だが、エルドが案内してくれているということはこの先に何かあるということだ。

 俺は元来黙って歩くのが得意ではない。すぐ目の前にエルドがいるのならなおさら。僅かに金の髪が見えるだけになった背中へ、俺は嬉々として問いかけた。

 

「なあエルド、そろそろ教えてくれよ。この階段の先には何があるんだ?」

「・・・・・・シンは、何があると思う?」

 

 エルドは質問を返した。だが、その問いは俺にとって懐かしいものだった。

 ディア・ノクトを案内してもらう時、彼はよくそう問いかけた。俺は様々な夢を語り、大体はそれと似たような場所が現れた。しかし、いつも俺の想像を超える何かがそこにはある。だから、俺はディア・ノクトが好きなのだ。

 エルドが言葉を重ねる。俺の想像を掻き立てるように。

 

「地下深く、闇の向こうには何でもある。何でも現れる。シンが望んだ通りに。もうオレは制限しない。もうオマエと競う必要はない。行きたい場所、見たいものが何でも叶うとしたら、シンは今どこに行きたいと思う?」

 

 詠うような言葉は半分くらい聞いていなかった。ただ、行きたい場所と言われて、今の俺が真っ先に思い浮かぶのはひとつだけだろう。

 

「エルドの秘密が分かる場所。お前が知っていること、全部教えてくれるんだろ?」

「まあ、今はそりゃそうか」

 

 今は顔の見えないエルドが、それでも僅かに肩を震わせて笑ったのが分かった。

 

「じゃあ、案内するとしようか。ようこそ、オレの前線基地へ」

 

 エルドの芝居がかった声と共に、淡々と響いていた足音が階段とは違うものに変わる。とうとう最下層に辿り着いた。その時、突然闇に覆われていた視界が眩い光に染まった。

 俺は驚き、思わず目を細める。光に慣れてきたころ、ようやく辿り着いた場所を把握した俺はわっと声を上げた。

 

「こんなの、まさに秘密基地じゃないか‼︎」

 

 思わず放たれた叫びは歓喜に満ちていたと思う。ディア・ノクトの地下に広がっていたのは、まさに謎の施設の一部を勝手に間借りして造った秘密基地とでもいうべき空間だった。

 壁と床は真っ白な強化プラスチックか何かに見えるが、具体的には分からない。あんなに階段を降りないといけない地中深くの建物なのだから、きっと特別な素材でできているのだろう。一部黒いところがあって素材も違うように見えるが、こちら側ではその模様に意味があるとは思えない。これは反対側に全く別の設備がある証拠だ。壁の側に立てば、ヴーンと微かに低く唸る機械の作動音を聞くことができる。反対側には何があるのだろう。

 否、今はエルドの秘密基地に注目するべきか。とは言っても物は少ない。情報屋の彼は、私物は少なければ少ないほど動きやすいのだろう。商売道具は彼の頭の中にある。ボロボロのソファ、ベッド、ハンガーラックはあったが、どれもどこにでもありそうな形状をしている。実際、この基地を作る時に適当に拾ってきたのかもしれない。唯一ハンガーラックに掛かっている服だけは綺麗で種類があった。情報屋は他人と会う必要があるから、服装を整えることは彼にとって重要視するべきことなのだ。エルドが着ているかっこよく動きやすい服は二年前から俺の憧れで、何度か姉に同じものを用意してもらったことがある。

 他に特筆するべきものは、床に直置きされたモニタとキーボードだろう。他のものがありきたりであることに比べ、それらは良いものを長く使い込んでいるという印象があった。恐らく、エルドは普段日がな一日モニタの前に張り付いているのに違いない。家にいる時の同じように、未だ知らないことを知るために。

 主人が不在の時もモニタは起動したままにしていたらしい。今も画面上で何かプログラムが動いているのが確認できる。俺は興味を惹かれてモニタに近づきかけ、ドサっという大きな音に思わず足を止めた。

 振り返ると、エルドがソファに沈みこんでいた。俺は彼が自分の基地で瞠目していることに違和感を感じたが、それよりも明るい場所で見た彼の状態に言葉を失った。

 

「エ、エルド。お前、ボロボロじゃないか!」

 

 暗いところではよく分からなかったが、エルドは驚くほど満身創痍だった。身体のあちこちに小さな傷があるのはもちろん、目の下に濃い隈と鼻血の跡がある。

 彼はこの基地のことを「前線基地」だと言った。俺が知っている限りエルドに戦闘能力はないはずだが、彼は彼なりの方法で戦っていたのだろう。もしかしたら、姉を殺し俺を襲った襲撃者がエルドも攻撃したのかもしれない。だとしたら許せないことだ。

 エルドは鼻の下についた血液を指で拭い、何かを思い出すように僅かに上を見上げて言った。

 

「あー。まあ、色々あったからなあ・・・・・・」

 

 苦く笑う顔にも隠しきれない疲れが滲む。通信機越しの彼の声が疲れているように聞こえたのも、きっとこれが原因だろう。そうとも知らず「冷たい」などと文句を垂れたことが、何だか申し訳なくなってくる。

 

「何て顔してんだよ、シン」

 

 オロオロしている俺のどこが面白かったのか、ポカンと口を開けたエルドが次いで声を立てて笑った。再会してから初めて聞いた笑い声だった。

 

「オレは大丈夫だ。大変なことになるっていうのは、ある程度覚悟してたし」

「・・・・・・お前は何をどこまで知っているんだ、エルド」

 

 秘密基地に入る前から聞きたかった質問をぶつけた。ようやく本題である。

 床に腰掛けて背筋を伸ばした俺に対して、ソファに座っているエルドも居住まいを正した。彼は声を潜め、言葉を選ぶように慎重に話し始めた。

 

「今シンの周りで起きている状況は、半分くらいは睡蓮さんが計画して起こしたことだ」

「姉さんが・・・・・・? 何のために?」

 

 姉が関わっているらしい話は、既にエルドから聞いている。だが目的が分からない。

 事件が起きる前、俺の周囲はそこそこ平穏だった。エルドがいないことはつまらなかったけれど、それ以外は可もなく不可もなくという日々が続いていた。

 その平穏を享受していたのは姉も同じ。それを壊して、彼女は何をしたかったのだろう。

 己の命を失うことになっても、彼女が求めたことは。

 

「睡蓮さんが望んだのは、シンを自由にすることだ。少なくともオレはそう解釈している」

「俺を、自由に?」

 

 どういう意味だ。俺は自由に生きている。自由に姉と生活し、ディア・ノクトを探索してきた。今までずっと。

 

 ——それとも、これは「俺の自由」ではない?

 

 困惑する俺にエルドは構わない。まるでそれぐらいは予想していたというように、彼は平静なまま話を続けた。

 

「オレも大体は睡蓮さんの考えに賛成している。どこまで仕込みなのか完全に把握しているわけじゃないし、仕込みだと思うが間違っていると思う部分もあるけどな。少なくともシンを自由にしたいという気持ちは理解できるし、オレもそう思っている。今の状態を変えれば、オマエともちゃんと友達になれる。そう確信している」

 今度こそ、オレの意志で。

 

 自分の意志だということをエルドは強調した。まるで今までがそうじゃなかったというように。「オマエと友達になりたい」と彼は言う。二年前、一緒にディア・ノクトを探索していた時のエルドにとって、俺は友達じゃなかったというように。

 今の俺は自由じゃないという。姉と暮らした日々も、エルドとディア・ノクトを駆け回ったことも嘘だというように。

 

 ——脳裏に人影が映る。無数の目。そこに映る全てが見えていたあの頃。


 俺は、何を忘れているのだろう。何を、思い出してはいけないと思っているのだろう。

 

「エルド、俺は」

 

 足下がぐらぐらと揺れているような気がする。不安に駆られてエルドの名前を呟いたが、声が掠れて上手く届かない。続けるべき言葉も分からない。どうしようもなくなって逃げようとした時、エルドの言葉で我に返った。


「ただ、それを嫌がっている奴がいる。シンを閉じ込めておきたいと考えている敵がいる。だから、お前も早く」

「そいつらが姉さんを殺した犯人なのか」

 

 「敵」と言われて、俺が思いつくのは奴らだけだ。姉を殺し、俺を襲い、エルドを攻撃した犯人。これは疑問ではなく断定だ。だって、間違いなく俺は見たのだから。

 そうだ、逃げる前に姉が死んだ理由を知らなければ。俺の敵がいるのなら探さなければならない。そのためにも、もしエルドが犯人を知っているのならば聞き出す必要がある。勢いよく顔を上げてエルドを見る。何故か、彼はひどく戸惑っているように見えた。震える声が彼の口から溢れる。

 

「違う。分からないのか、シン? 

 

 その言葉が引き金になったように、突然基地の床が崩れた。

 頭を抱えた俺と、口を両手で抑えたエルド。二人とも受け身も取れず、どこか深いところへ落ちていく。ディア・ノクトの地下より深く、全てを忘れられる場所へ。

 落ちる時、床のモニタが見えた。その画面に映っていたのはディア・ノクトの地図と思われるものが表示されていた。 

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