第39話 『私のはじまり』ーカタナ視点ー
夜になるといつも蠢く記憶がある。
一〇年前。まだ七歳だった私は、すでに剣の才能を開花させていた。
同級生はもちろん年上の男子も相手にならない。ときには大人すら倒してしまうこともあった。
物心つく前から竹刀や木刀に触れ、父や祖父の姿を目に焼き付ける。そんな環境が恵まれているなどとは思いもしない私は、早々に天狗の鼻を伸ばした。
いつからか毎日の稽古に意味を見出せなくなった。
やる気や楽しさなど感じなくなった。
どうせ自分が一番強いという、幼く愚かな自惚れが心身に満ちていた。
だからあの日。学校から家に帰らなかった。
罪悪感はなく、生まれて初めて稽古をサボった解放感が気持ちよかったのを覚えている。
目指したのは駅前の映画館。
好きだったアニメの劇場版が公開していて、最初の一週間は数量限定のマスコットがもらえる。親と行く予定は週末で、残っているか不安だった私は一足先に向かったのだ。
「あら、あなた一人? 保護者の方は?」
「え? えっと、あの」
チケットは親のアカウントを使ってネット購入していたから、問題なく突破できた。
けれど入口で引っかかった。まさか女児向けアニメを女児だけで見れないとは、とても驚いた。
「あぁ、海。ここにいたのか」
背後に立っていたのは父ではなかった。
でも、顔と声には見覚えがあった。門下生の一人で、私に負けた中年の男。剣は弱いけど、よくお菓子をくれたので懐いていた。
だから普段と違って呼び捨てにされた意味に気づき、自然と体が動いた。
「パパ! もうおそいよ!」
「ごめんごめん。ポップコーンを買ってたんだよ」
多少はぎこちなかったと思うが、即興の親子はゲートを通ることができた。
「ありがとう! あ、あの、おじいちゃんたちは」
「たまにはゆっくりしておいでって。だからぼくが来たんだよ」
今思えばいくらでも不審な点があった。
剣に関しては厳しい祖父と父が、簡単にサボりを許すはずがない。
仮に許したとしても、だれにも言わずに来た私の行動を知っているはずがない。
そもそも週末だけしか来ないただの門下生に、娘を任せるはずがない。
けれど幼い私は好きなキャラのマスコットと映画の内容に感動して、疑念など微塵も感じずにいた。
十分に満足したところで男が家まで送ると言い出した。映画館の入った商業施設から出ると、外はすでに夜の装いに着替え始めていた。
「そうだ。せっかくだから、ちょっと探検していこうか」
男は笑って、大きなリュックサックを揺らした。
これから目覚める飲み屋街や、野良猫の通り道など、普段なら絶対に通らない道を歩いていく。
ほとんどだれともすれ違わないまま、一階が駐車場なっている古いビルに着いた。
「ねぇ、どこまでいくの?」
さすがに疲れてきたので、目の前のリュックに問いかけた。
「うーん……この辺でいいか」
「え?」
なにがなんだかわからない。ただ、一瞬で世界が変わった。
靴の下にあったはずの地面はランドセルと触れていて、前にいたはずの男が自分の上に乗っている。
優しかったはずの笑顔が狂気に染まり、私を見下ろしていた。
「い、いたい! なにするの!」
「馬鹿なガキが。練習サボって一人でプラプラしやがってよ。どこまで大人を舐めてるんだ」
荒い息遣いでよだれが揺れるのが、本当に気持ち悪かった。
「はな……せ! はな、せ!」
このときまで、まだ私は自分の力でなんとかなると思っていた。
でもその欺瞞はあっという間に崩れ去る。
「……なんで?」
いくら暴れても大人はびくともしない。
都合よく竹刀があるわけでもないし、ルールなんて存在しない。
ただ乗られただけの重さと力任せの手に、最強を自負する少女は敗北したのだ。
「道場じゃ、よくも恥かかせてくれたな。大人の力を見せてやるよ。大人の仕返しをしてやる」
「い、いや……たすけて! だれかたすけて!」
「このビルも停まってる車も、ずいぶん長いこと放置されてる。人なんて明け方に酔っ払いが通るくらいだ。だれも来ねぇよ」
じたばたしてる間にリュックからガムテープが出てきて、口と手と足を縛った。
「ひひひひ」
あれ以上に気味の悪い笑顔を、私は知らない。
絶望と後悔が一気に押し寄せてきて、どうすることもできない無力感に涙した。
これから起こることを想像もできない。
しかし大きすぎる恐怖に、全身の力が抜けていくのがわかった。
「――――はああああああああっ!」
勇ましい声がした。
私は思わず、観たばかりの映画を思い出した。
助けを求める人の下へ、必ず現れる正義の味方。強くてきれいでかわいらしい、少女たちの姿を。
「グぶぁ!」
目の前の光景がスローに見えた。
走ってきた勢いのままハンマーみたいに振り回された黒いバッグが、男の顔面に叩きつけられた。あまりの衝撃で体が真後ろに倒れ、私から不快な重みが消えた。
「けがはない!?」
黒髪を揺らし肩で息をする女性。
リクルートスーツを着ているが、上着と靴は走り出す前に脱ぎ捨てられていた。
「お姉さんが来たから、もう大丈夫! 怖かったね」
すぐさま跪き、べたつく拘束を解いてくれたお姉さんは、優しく頭を撫でながら抱きしめてくれた。
「こわ……かった……こわかったよぉ!」
久しぶりに子どもらしく泣いた。
涙と鼻水でシャツに染みが広がっていたが、お姉さんはなにも言わなかった。
「だよね、怖かったよね。でも警察も呼んだし、必殺『企業説明会の資料でパンパンバッグ・アタック』でぶっ倒したから! 会場からの帰り道に迷ってたら声が聞こえたの。よかった、間に合って……あっ!」
彼女も怖かったはずだが、大人として明るく振る舞ってくれていたんだと思う。
でもマスコットを見つけたときの声は、まるで当時の私と同じ年齢の女の子だった。
「このアニメ好きなの?」
「う、うん」
「わたしもー! 映画観たんだね? 今シリーズ十作品目だけど、いっしょに出てた一作目の女の子たちが、わたしのヒーローでねぇ。ずっと憧れてて、いつかなりたいって思ってるの」
「おとな、なのに?」
今思えば命の恩人にずいぶんと失礼な質問だが、お姉さんは笑って答えてくれた。
「うん! わたしもだれかのヒーローになりたいから。それにかわいいしキレイで、しかも強いって最高じゃない?」
子どもだった私よりもまっすぐで、純粋な笑顔だった。
すごく眩しくて、かわいらしくて、一気に心を奪われた。
このときからお姉さんは私の憧れになったのだ。
「オープニングが神でねぇ。映画でも流れてたんだけど」
憧れが心震えるメロディを口ずさみ始めたとき、視界の端で蠢くものがあった。
男がリュックに手を入れ、なにかを取り出そうとしている。
「おねえさん!」
叫ぶよりも早くお姉さんは異変に気づいていた。
抱きしめていた体を離し、埃を被った車の陰に押しやった。
「しねえええええ!」
裏返った声が反響した。
取り出したビンから液体が振りまかれ、お姉さんの顔にかかった。
――――白い煙と嗅いだことのない臭いがした。
それが人の肌と肉が溶ける臭いだと知ったのは、何年もあとのことだ。
「ぎっ……ぐぅ!」
想像を絶する痛みだったはず。
なのにお姉さんは声を上げなかった。
幼い少女にこれ以上のトラウマを与えないため、激痛に耐えたのだ。
「うわあああああああああああああああああっ!」
代わりに響いた雄叫びが男の顔に恐怖心を浮かばせた。
体当たりしてしがみつき、殴られようと転がろうと絶対に離さない。
「がんばれっ! おねえちゃん、がんばれっ!」
無力で弱いわたしは応援することしかできなかった。
悔しくて情けなくて、でも、なにもしないでいるなんて考えられなかった。
声はすぐにパトカーのサイレンに塗りつぶされ、駆け付けた警察に男は取り押さえられた。私は保護され、お姉さんは一足早く救急車に乗せられていく……はずだった。
「まっ……て、ください」
運ばれるお姉さんの顔には布がかけられ、鼻から下しか見えない。
「お嬢ちゃん、いる?」
「う、うん」
「さっき言ってた、初期のオープニング。歌うから聞いてくれない?」
私はもちろん、周りの大人たちも驚いた。
救急隊員からは「なに考えてるんですか!」と軽く怒られていたほどだ。
「だってせっかく映画を観た日にこれじゃあ、嫌な思い出になっちゃうじゃないですか。そんなの、あんまりですよ」
決意が固いと判断したのか、隊員さんは「短めにお願いします」としぶしぶ了承した。
「あのね。わたし、この歌は頑張りたいときとか、落ち込んだときによく聞くの。さっきもね、助けに入ったときに心の中で歌ってた。すっごい勇気が湧いてくるんだぁ」
「ほんとう?」
「うん。だからね、きみも嫌なことを考えそうになったら、この歌を歌ってみて。きっとアニメみたいに、ワルモノをことをやっつけるヒーローが来てくれるから」
「……おねえさんもきてくれる?」
わたしの言葉に、お姉さんは少しだけ言葉に詰まった。
そしてゆっくりと丁寧に答えてくれた。
「うん。もちろん」
お姉さんは担架の上であの曲を歌ってくれた。
歌詞の意味をぜんぶ理解したわけじゃない。
けれど、とても胸が熱くなった。
歌い終わると、お姉さんは満足そうに微笑みながら運ばれていった。
あの日から毎日真剣に稽古に励んだ。二度とあんな目に逢いたくない想いと、お姉さんみたいになりたい憧れを持って。
いつかもう一度会って、ちゃんとお礼を言うために。
今度は私があの人のヒーローになるために。
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