第31話 『ひとひら』
お茶のぬくもりのある香りが胸いっぱいに満ちる。
うちが用意したお茶菓子はすでになく、今はかおりさんが買ってきてくれたお土産の最中がこちらを見上げていた。
「いつもご丁寧にありがとうございます。これ、大好きです」
すっかりバレている私の好物。
サクサクとした食感の中に柔らかい甘さの餡子。特にお気に入りなのは、栗の入ったちょっぴりお高めのやつだ。
「いいのよ、このくらい。海ちゃんに喜んでもらうと嬉しいから。もう高校二年生よね? 学校はどう?」
「はい、文武両道に努めています……まぁ努めているだけで、結果が伴っているかはべつの話ですが」
「あら、伴ってないわけないわ。海ちゃんは優秀ですもの。通ってる女学院は市内でも有名じゃない。剣道も頑張ってるし、おばちゃんが保障するわっ」
私よりも小さい体から大きな優しさが漂っている。
この人の笑った顔が私は大好きだ。
けれど、その笑顔をずっと見ているわけにもいかない。
申し訳ない気持ちを感じつつ、こちらから話題を切り出した。
「あの、最近の様子はどうですか? お姉さんの」
思った通り、というかいつも通り。
かおりさんの顔に染みついた影が浮かんだ。
「相変わらず。最低限のメッセージはくれるし、掃除に行ったら声も聞かせてくれるわ」
かおりさんの娘、花田未来さん。
彼女がバトル・アリーナで探し続ける、私の恩人。
だけど現実では、かおりさんを通じて住んでるところもわかっている。誕生日も、今年で三〇歳になる年齢も。
今に至るまで抱える、彼女の苦しみも。
「そう、ですか」
安堵と悔しさが強く押し合う。
私がかおりさんと偶然再会して三年。
そしてあの事件から一〇年、ずっと変わらない現実だ。
こうなった原因はあの事件であり、責任は私にもある。
「……海ちゃん。あの子にあなたと会ってること、言っちゃダメかしら?」
先ほどまで楽しげだった婦人から、どっと疲れの臭いがした。
彼女の気持ちは痛いほどわかる。長い間変化のない現状をなんとかしたい。今までやらなかった方法を試してみたいのだ。
けれど。
「やめたほうがいいと思います」
私には賛成できない。
「前にも言いましたが、お姉さんの傷を考えると私の存在はむしろ負の側面が強いでしょう。それに自分の現状を第三者に知られているとわかれば、きっと深く傷つきます」
「そう、よね。ごめんなさいね、変なこと言って」
自分を責める瞳の暗さ。
たぶん、こういうところが似ているんだろう。
私はそっと手を握って首を振った。
「謝らないでください。今じゃないってだけですから。私がバトル・アリーナでお姉さんを見つければ、絶対に知られることになります。そのときまで、どうか待ってください」
握り返す手は私の母より小さくて、冷たくて、最中の皮みたいに崩れそうだった。
「そうよね……そのために、海ちゃんは頑張ってくれてるんだものね」
「はい。三年前、お姉さんがVテイナーにハマってると聞いたときから準備して、ようやくここまで来ました。自分で言うのもなんですが、海月カタナはそこそこ注目を集めています。リスナーにいるかはわかりませんが、名前くらいは知られてるかと」
聞いた話によると、お姉さんはかなりのVオタだ。
いろんなVを応援し、そのおかげで少しだけ明るさを取り戻したという。
今の彼女にとって推し活が生きる糧となっているのだ。
「まあ、本当? じゃあ今度、知ってるか聞いてみようかしら」
「うーん、それなら来月に。今、大きなイベントをやってるんです。いろんなVと戦う機会がありますし、活躍できれば……その……推して、もらえるようになる……かもなので」
こればっかりは淡い期待だ。
けれど、かおりさんは私の想いを汲んで頷いてくれた。
「じゃあそうするわね。わたしもVテイナーに詳しかったらよかったんだけど。海ちゃんしか登録してなくて」
「いえいえ、それだけでも有難いです。というか、ちょっと恥ずかしいというか」
「あっ!」
穏やかな声が急に弾けて、思わず体が跳ねた。
「ど、どうしました?」
「忘れるところだったわ! 海ちゃんに見てもらいたいものがあったの!」
かおりさんはスマホを取り出すと、慣れない手つきで操作を始めた。
「あの子がね、よく送ってくれるスタンプがあって。三年くらい前から、とくに送ってくるようになったの。そしたら、この前Vテイナーさんのだってわかったの」
「ほお! お姉さんの推しということですね!」
「そうなの! えっと……これこれ!」
覗き込んだメッセージのやり取り。
誤字がありながらも綴った言葉の返事は、一言かスタンプのみ。
そのスタンプが私の目を離さなかった。
「海ちゃんの配信をたまたま見たら、この子がいたの! もしかして、あの子も見てるんじゃないかしら?」
送られていたのは喜怒哀楽を可愛らしく表現する少女。
夢と元気を届ける桜の妖精。イベントでの私のパートナー。
桜色ひかるのスタンプを、私の恩人が使っていた。
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