1-20 ミーンミーン
小さなコンサート会場に一台のグランドピアノが佇んでいた。
周りに置かれているイスは、今までこのビルで共通として使われていたオフィスチェアとは違い、木材のイスにふかふかのクッションと皮が張り付いた、座り心地の良さそうな長時間の観賞に特化した座椅子だった。
椅子をよく見れば、なんとなくクッション材が沈んで薄くなっている様に見える、あれは経年劣化でクッションの性能が下がってきているだけだ、と自分に言い聞かすが、背中を伝う冷たい汗のせいで、別の理由があると思う、思考に戻される。
「なんだ…俺が壊れちまったのか?、」
自分の感覚は何かが居ると知らせている、だから周囲を見渡しているのに、何もいない。
「なんか居る、」
アセビも何かを感じている、それなのに現実には何もいないことに恐怖を感じて、腕を掴んで離さない。
「確かに何かが居るよな、まさか幽れいか?」
見晴らしの悪い狭い道を通っていたと思ったら、気がつけばいつのまにか、コンサート会場の座椅子が並ぶ、中腹まで歩いていた、
注意していたのにそんなことありえない、それに今さっきまで、暗すぎて見えなかったのに今は、どこからか降りてきた光に照らされて、座席の端っこから会場の端っこまで見える、まるで何かに誘われた様に、こんなところまで入り込んでしまった。
「何かが変だ、アセビ、一旦退くぞ。」
「え…ウウ、」
「オイどうかした、退くぞ」
腕を掴んでいるアセビは、いつも俺の片手の力でも持ち上がるくらい軽いはずなのに、今は俺の足の力でもその場から動かなかった。
「ヤダ!」
急に軽くなって持ち上げたと思ったら、手を振り解いて、階段での走りなんかより何倍も速い速度で走り出した。
な、なんだ?おかしい、さっきまでの俺みたいな状態になっているのだとしたら、まずい第一コイツは感受性が高すぎる、それも全部クソがッ。
こんな可哀想な能力を持つ様に育てた、
この子の環境に対する怒りを飲み込み、
「待て!」
ピアノに向かうアセビに向かって走った。
十分に加速できない距離だとしても、エイキチの異常な筋力での走りでも追いつけないほど早い、足はそんなに回転しは見えないのにまるで何かに引き寄せられている様に走っている。
ついに肩を掴んだ時には、そこは会場のど真ん中でピアノの前、メインステージに乗ってしまっていた。
「クソ」
敵意を全開にして攻撃をしてくるんじゃないかと嫌な想像をして悪態をつくが、でも現実は想像とは違っていた、今さっきまで敵意すら感じていた気配が全員静かになったのだ。
座椅子が少しだけ深く沈んだ。
今気づいたがこの部屋を照らしていた変なスポットライトは、ピアノの上空まで吹き抜けが続いていて、そこから差していた太陽の光だった。
「エイキチ、」
その声を聞いた瞬間、アセビの顔を持ち上げる、顔を近づけて何か変なところは無いかしっかりと見る、涙も跡だけになっていて、目は同じく虚な目になっている事を確認して、やっと胸を撫で下ろす。
「マジでびっくりした、お前戻ったか」
「うん戻っちゃ」
「ほんとに大丈夫か?」
「コレ、何?」
アセビはピアノを指で指す、
「ハー…ピアノか?楽器だよ、レコーダーの音楽とかを奏でてる生の楽器、」
俺が言い切るより先に、アセビは興奮した顔で、顔を近づけてきた。
「もっとよく見たい!」
もう一度アリーナを見回して、敵意や攻撃性はないのを確認した後、仕方なく了承すると、アセビを両手で抱っこの逆を向かせて持ち上げて、ピアノを上から近づけて見せる。
埃が溜まっていて、干からびているが、色がかすかにわかる、美しい紅色をしている、
カバーもかけてあった跡があって、太陽光を直に浴びてピアノを守っていたのだろう、劣化で溶けて足元に落ちている。
「中は?」
アセビの要望どうりに機械みたいに動いて、慎重に屋根を開けて中を見ると、蜘蛛の巣や折れたハンマーの上に虫の死骸が塊になって床の方が見えないくらい溜まっていた。
「ウオッグロッ…ごめん」
俺はあまりの光景に少しだけ目を逸らしたが、アセビは熱心に中を見ていた、
目を輝かせているなぁとあせびの顔を見ていると突然、アセビは前傾姿勢になり、
蜘蛛の巣の中に飛び込んだ、
「オオーオーイ!!」
蜘蛛の巣を振り払い、頭まですっぽり入ったアセビの首根っこを掴んで上げた、その手には一枚だけ楽譜があった。
「何してんだー!お前ー!」
「この楽譜置きたい、」
「置きたい?いや、お前なんかまだおかしいのか?、」
「違うのもう大丈夫、置きたいの、」
「ん〜〜なんか変だよお前、大丈夫かよ。」
俺はやっぱりまだ何かが抜けてないままなんじゃないかと、聞き直したが、アセビの真剣な顔を見ると、なんとなく考えがあるんじゃないかと、少し甘い様にも思うが考えてしまう、仕方ない諦めて、アセビの言う通り楽譜を鍵盤の前に置くすると。
「なんだ」
周囲の気配が明らかに変化した、みんなの感情がなぜか伝わってくる、一層、静かで集中していて嬉しそう。
そんな感情が流れてくると、自分たちも聞こえないはずの音楽で和んでしまう。
小一時間、その長くもない短くもない時間、俺たちには蝉の鳴き声しか聞こえない音楽に耳を傾けて聞いていた。
ピアノはもう動かない、
「壊れちゃった?」
アセビは悲しそうに、ピアノを撫でて、俺に聞いてくる。
「そうだなあれはもう壊れてる、あの様子じゃ修理も出来ない。」
物を大切にする、普通のことだけど、アセビはそれを知らなかった、知りえなかった。
「珍しいなお前が物に引かれるなんて、ハハ良い事だ!
あれは壊れても、新しく一から作ってそこで演奏すれば良い、人はまだいる、俺もお前もメタルもカトレアもライトも、集めようと思えばもっともっと大量にいる、
気になるなら持っていけば良い、俺らはそういう生き方をしてるんだ。」
二人は直接身体で心の底から不思議なものを感じた、今まで信じてるとか信じてないとかそんなこと考えれる状況じゃなかった二人は直接感じて、何となく信じる側に心変わりした。
だだっ広い吹き抜けに、這う様にその上を登る回転階段状を登りながら
一枚のガラス越しに。
この場所で奏で続けた
この場に人を大量に集めて楽しませ続けた
それこそ命が尽きて死ぬまで、
もしかしたら今でも聞きたい人が集まってる。
一台のピアノから遠ざかっていく、
一枚の楽譜を持って。
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