第四話  九段線と南シナ海

 2023年11月、フィリピンを訪れていた日本の岸本総理はマルコス大統領との首脳会談に臨み、南シナ海での覇権を拡大し続ける中国を念頭に安全保障協力を強化するため、新たな支援の枠組みを通じて沿岸監視レーダーを供与することで合意した。フィリピンが中国と領有権を争う南シナ海では、最近、中国側によるフィリピンの船舶への妨害行為が続いていた。

 中国が第二次世界大戦後の1953年頃から主張し始めた、南シナ海における同国の歴史的権益が及ぶとする範囲、いわゆる九段線を巡っては、同海域の豊かな漁場や石油、天然ガス資源、更には重要な航路帯故にベトナム、フィリピン、インドネシア、ブルネイなどが中国と対立してそれぞれが領有権を主張している。にもかかわらず、中国政府は係争海域の岩礁や浅瀬を大規模に埋め立てて次々と人工島を建設、それらの島に滑走路や港湾、レーダーなどの軍事施設を建設し始めた。

 これに対して、スプラトリー諸島やパラワントラフの領有権を主張するフィリピン政府は2014年、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所に対して仲裁を要請した。そして2016年、その仲裁裁判所が南シナ海における中国の九段線の主張を、国際法上の根拠がないと否定する判決を出したのである。しかし中国はこの判決に対して強く反発し、その後も同海域での人工島建設を加速させるなど国際世論を完全に無視し続けてきた。そうした状況を受けて悪化していた両国関係であるが、経済支援を期待して対中国融和政策をとるフィリピンのドゥテルテ大統領時代は、両国の領有権争いは事実上棚上げとなってきた。しかし潮目が変わったのは2022年にマルコス大統領が誕生してからである。

 南シナ海で自国当局の船や漁民に対して、あからさまな妨害行為を続ける中国に対するフィリピン国民の反発は強かった。新大統領に就任した通称ボンボン・マルコスは、このような国民感情を敏感に感じ取り政権基盤を盤石なものとするために、領土問題で強い姿勢を示すことにより民衆の支持を得ようとしたのである。

 フィリピンのそうした政治情勢の変化を、西太平洋地域における対中国巻き返しの好機ととらえた米国のバイデン政権は、積極的にフィリピンとの関係強化に乗り出した。特に軍事同盟関係では2016年に両国間の防衛力強化協定に基づき締結されていた従来からの5カ所に加え、マルコス新大統領との会談で新たにフィリピン国軍の4カ所の拠点を米軍が使用することで合意したのである。

 両国間ではもともと、1951年8月に締結された無期限の米比相互防衛条約があり、強固な軍事同盟の関係にあった。第二次世界大戦後、東西冷戦が始まってヨーロッパでソビエト連邦の影響力が増し、米ソ両国の対立構造が深まる中で共産主義を掲げる中華人民共和国が蒋介石軍との内戦を経て生まれたことにより、アジア諸国が立て続けに共産化するのではと懸念するドミノ理論が湧き起こり、アメリカはアジアにおいても共産主義の封じ込めを図る必要に迫られたことが同条約締結の背景としてある。

 しかしその後、ソビエト連邦の崩壊によって冷戦時代が終結すると、緊張緩和によるアメリカ軍兵力の削減、また1991年6月のピナトゥボ山大噴火によるクラーク空軍基地の被災で基地協定は期限延長がなされず、両政府間で在フィリピンアメリカ軍の撤退が決定した。米軍はルソン島中部のスービック海軍基地からも撤退し、その後フィリピンにおけるアメリカの軍事的な影響は著しく減少した。

 このアメリカ軍撤収の直後から南シナ海で中国人民解放軍の活動が活発化し、フィリピンなどが領有権を主張する環礁を占領して建造物を構築した。そうした状況からアメリカ政権内でも中国脅威論が提唱され始め、米比間で「訪問米軍に関する地位協定」を締結、共同軍事演習を再開した。

 今回のバイデン政権の動きは、フィリピン周辺の海域で拡大し続ける中国を封じ込めるため、米比間の軍事同盟関係を、更に強化しようとするものに他ならない。


 東・南シナ海で覇権主義的な動きを強める中国を念頭に、フィリピンとの安全保障面での連携強化ををはかろうとしているのは日本も同様であった。これまでも日本は同国に対して巡視船の無償供与を行うなど、中国との係争海域での警察行動強化をサポートしてきた。

 岸本政権ではさらに踏み込みんで、マルコス大統領との初会談では中国を強く意識し、国際社会は東シナ海と南シナ海における、力による現状変更の一方的な試みや経済的強制に反対する必要があると述べ、農業、インフラ、エネルギーなどフィリピンが優先する分野で協力を申し出た。

 九段線を主張する中国が南シナ海にこだわる理由は、一つには石油や天然ガスなどの豊富な天然資源が眠っている可能性が高いこと、また中東地域からのエネルギー輸送を考える場合、中国にとっての重要なシーレーンとなっていることである。

 しかしそれは日本にとっても同様で、中東で荷積みをした日本のタンカーはインド洋からマラッカ海峡を抜けて南シナ海に入り、更に台湾とフィリピンのルソン島を隔てるバシー海峡を抜けて太平洋側に出る必要がある。このルートがいかに重要かは、太平洋戦争当時、東南アジアの占領地と日本本土の間で人員や物資を運ぼうとした日本の輸送船団が、バシー海峡付近の海域で米潜水艦に狙われ数十万人の日本の軍人、民間人が犠牲になり、輸送船の墓場とも恐れられていたことからもうかがえる。

 更に中国にとって軍事的に重要なのは、この海域の水深である。最大水深がせいぜい数百メートルの東シナ海と違って、南シナ海では軽く千メートルを超え、隠密行動をとる潜水艦にとっては最も安全な海域なのである。とりわけ核抑止力の最後の砦と言われる戦略弾道ミサイルを搭載する原子力潜水艦にとっては、格好の聖域となる。

 その海域を日米などの戦闘艦が自由に航行できるのは断じて妥協できないことであり、南シナ海が中国にとっていかに軍事的に重要であるかが理解できるのである。

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