第三話  二重基準の露呈

 それはイスラエルにとって全く不意を突かれた奇襲となった。イスラエル西部に位置するパレスチ暫定自治のガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織ハマスが、10月××日、数千発に及ぶロケット砲による攻撃を皮切りに、イスラエルとパレスチナ人居住区を隔離する境界フェンスを爆発物やブルドーザーなどを使って破壊したうえイスラエル領内に侵入し、ロケット砲攻撃による犠牲者も含めると千人を超えるイスラエル人や同国在住の外国人を殺害したほか、200人を超える人質を連れ去ったのである。

 世界が驚いたのは、世界最強と恐れられている保安機関のシンベト、対外諜報機関のモサド、そしてイスラエル国防軍の諜報網が、これほど大掛かりな攻撃の兆しをまったく察知できなかったことである。これらの情報網の内通者や工作員はハマスや、ガザ地区の他のパレスチナ武装集団の内部にもいると言われている。長い年月を経て構築してきた強力な情報ネットワークを持ちながら、異変をなぜ事前に警告ができなかったのか? また、ガザとイスラエルを隔てる境界はコンクリート製フェンスや鉄条網で分離され、それらに沿って無数の監視カメラやセンサーを備えた監視塔が設置され、イスラエル軍が定期的にパトロールしている。しかしハマス側から配信されたドローンなどからの映像を見るかぎり、それらが有効に機能した形跡はなく、逆に携帯型ロケット砲や無人機などの攻撃によって、いとも簡単に破壊されている。

 更に言えば、イスラエルはアイアンドームと呼ばれる世界でも類を見ない鉄壁の防空システムを有し、これまでも幾度となく繰り返されたパレスチナ側からのロケット砲攻撃をことごとく防いできた。しかし今回は一度に数千発というおびただしい数の飽和攻撃により、さすがに対処しきれずに被害が拡大してしまったことも、世界の軍事筋に大きな衝撃を与えた。ハマスがこれほど大量のロケット弾を準備できたのは、ガザ市街地の地下に巡らせた総延長500㎞にも及ぶトンネル網があったからだと言われている。それらはイスラエルとの境界付近まで伸びており、戦闘員や物資の運搬、そして武器や弾薬などの保管に最大限利用し得たことが今回の奇襲作戦を可能にした大きな理由であろう。

 

 このイスラエル軍の諜報活動の大失態という、これまで想定されたことのない事態に、歴史的に一貫して親イスラエルの政策を保持し続けてた米国政府は、ブリンケン国務長官とバイデン大統領が相次いで同国を訪問した。そして今回のハマスによる民間人を狙った奇襲を、あの9.11同時多発テロに匹敵する非人道的な無差別攻撃であるとして激しく非難するとともに、改めてイスラエルが自衛のために行う権利を全面的に支持すると表明した。この場合の自衛権とは、国連などで一般的に用いる概念とは異なり、対テロ報復に関して、手段を択ばない無制限の武力行使を容認する意味合いを内包している。そこにはイスラエル建国以来、ユダヤ系米国人が政界や財界、更には学会で強い影響力を持ち続けてきたという背景がある。

 そうした米国の対イスラエル政策における特殊な連帯性を裏付けるように、地中海東側には強力な航空戦力を搭載する最新鋭のジェラルド・R・フォード、および ドワイト・アイゼンハワーの二隻の原子力空母を配備、この地域での軍事衝突をエスカレートさせようとする国家や武装組織を念頭に、軍事的プレゼンスを誇示した。ブリンケン国務長官は、この海域への空母打撃群の展開は敵対勢力への挑発ではなく、戦火が地域全体に拡大しないようにするためだと強調したが、それが歴史的にイスラエルと対峙してきた国家であるイランや、レバノンを拠点とするシーア派イスラム原理主義組織ヒズボラへの強い警告を意識したものであることは、誰の目にも明らかであった。

 もし中東地域での戦火が更に拡大するようなことがあれば、米国にとっては悪夢の三正面作戦を強いられることになるからである。一つは近年、米国にとって最大の軍事的脅威となりつつある中国との台湾周辺での緊張、二つ目が2022年に勃発したロシアによるウクライナ侵攻への対応、そして今回の中東地域で勃発した新たな火種である。かつてのイラクやアフガニスタンのように必ずしも米軍が直接戦っているわけではないにしても、ウクライナに対する支援で北大西洋条約機構NATOの主導的立場を担う米国が、国内での議会対応にも配慮しながら、限られた軍事的リソースを割くのを強いられていることに変わりはない。

 しかし、その後のハマス掃討に名を借りた、明らかに自衛の範囲を超えていると思われるイスラエル軍による仮借のない空爆により、ガザ地区で多くの子供や無辜の住民が犠牲になるのを目の当たりにし、これはもはや大量虐殺、ジェノサイドではないかと、世界の世論はパレスチナ人に対する同情へと大きく傾いた。

 それでもなおイスラエル支援の姿勢を変えようとしない米国政府に対しては、国内でもユダヤ社会との過去からのしがらみにとらわれない若い世代を中心に、即時停戦を求めるデモが相次いだ。ウクライナに侵攻して、市民への無差別攻撃を続けるロシアを非難する際に用いた民主主義の「正義」とは、明らかな矛盾を露呈してしまったのである。

 この二正面で見せた、ダブルスタンダードとの批判も招きかねない一貫しない対応と、かつては世界の警察官を標榜した大国アメリカの求心力の低下を、ほくそ笑みながら冷徹に見つめている人物がいた。中国の習近平国家主席である。彼の頭の中では、任期中に必ず果たさなければならないと繰り返してきた歴史的使命、台湾統一に向けた新たなシナリオが浮かび始めていた。



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