しーーーーーん……

 終電が去った駅は静かなものだった。酔っ払いがあいうえお言葉で喋っているくらいだ。酔いすぎて呂律が回らないのだろう。何を言っているのかわからないため、ただただ喚くその姿は滑稽で迷惑だった。

 そんな中、よたよたとホームに降りていく人物が一人。酔っ払いの千鳥足で、今にも転がり落ちそうだ。

「ちょっとちょっと、おじさん、駄目だよ。終電もう行ったんだから! それに危ないって」

 とても場違いな雰囲気の女子高生と思われるセーラー服の少女が、階段を降りていく中年男性に声をかける。その足取りはいつ転がり落ちてもおかしくないくらい覚束なく、少女でなくとも止めただろう。

 少女に付き添われながら、階段を降りていく中年男性。その先は終電が随分前に行ったので無人……かと思いきや、茣蓙ござを敷き、地べたでまったりお茶を飲んでいる御仁がいた。糸目なのか笑っているのか、目は細められている。その下には病的なまでの真っ黒な隈。アイシャドウでも塗り間違えたのだろうか、と少女は思ったが、その御仁は女性ではなく男性のようで、茶が喉を通るたび、立派な喉仏がごくりと動く。

 少女は少しくたびれてはいるが、きちんと第一ボタンまで締められたシャツに灰色に十字の入ったネクタイをしてあるサラリーマンに恐る恐る声をかけた。

「あのー、もしー……?」

「はいな。あら、お嬢さん、どうかいたしましたかな?」

 思いの外高めの声と、テレビの中のイメージのある口調に少女はえ、と思ったが、サラリーマンであろう彼は、狭いですがどうぞ、と茣蓙を勧めてくる。少女は遠慮気味にどうも、と茣蓙に正座した。プリーツのスカートがふわりと広がるのを懸命にかき集めて、傍らに酔っ払いのおっさんを横たわらせる辺り、少女の人の好さが伺える。

「学生さんがこんな時間に出歩いているなんて感心しませんな」

 正論だ。が、少女は真顔で即答する。

「コスプレなんです」

「ほう、美少女戦士か何かですかな」

 このサラリーマン、順応が早い。

 少女のコスプレは冬服で、しかも黒セーラーなので、どこぞの美少女戦士とは程遠い。苦労人っぽいサラリーマンが気を遣ったか、相当ヤバいかのどちらかである。

 相当ヤバいに二百円。

「ところで、終電行きましたよね? なんでこんなところに?」

「アハハ、明日は待ちに待った休みなので、張り切って残業してたらこんな時間に。始発で家に帰ろうかと思いましてな」

 ブラックすぎる労働環境を聞いてしまった。所謂社畜というやつだ。会社に飼われている豚である。

 まあこのサラリーマンは豚という表現が不適切なくらい皮と骨ばかりの腕をしている。馬車馬のように働かされた結果だろう。

「ま、待ちに待った休みって、どのくらい待ったんですか?」

「うーん……十日は家に帰っていないですかな……」

 さらりと言われた。サラリーマンなだけに。

 などと駄洒落を興じている場合ではない。それは社会的な問題だ。女子高生くらいの少女でもわかる。

「湿気た話してんなー」

「うっわ、おじさん、酒臭い」

「うるへえ! おじさんはまだおじさんなんて年じゃありまへんー。四十半ばじゃー」

「自分でおじさんって言ってるし四十はもう立派なおじさんだよ……」

「立派か? お? もっと褒めい?」

「褒めてない!」

 さすが酔っ払い、噛み合っているようで噛み合っていない会話だ。まともに対処すると疲れるだろう。少女は放っておくことにした。

 社畜で過重労働でその辺りの感覚はすり減っていそうなサラリーマンの方がまだ話が通じそうである。

 少女はとある目的があってこの駅に来たのだが、まだ目的の時間ではないらしい。しばらく社畜サラリーマンと話そうと思ったのだが。

「えーと、サラリーマンさん」

「俺もサラリーマンじゃー」

「酔っ払いは黙っとれ!」

 少女はとてもか弱い女子とは思えない重みのあるパンチで酔っ払いおじさんを沈めた。酔っ払いおじさんは「いいパンチだ……」とサムズアップして意識を閉ざす。

 一方、社畜さんはというと……

 すよすよ。

「ありゃ」

 疲れがピークを超えたらしい。それもそうだろう。この様子じゃ、何日も寝ていない。取っていても仮眠程度。深くは眠っていないだろう。

 これはしばらく起きないだろう。

 はて、困った、と少女は考える。少女が待つものはこれから起きるわけだが、酔っ払いのおじさんと、社畜のガリガリサラリーマンとの逆ハーレムなど嬉しくはない。始発まで待つとなると、ここから四時間以上はかかる。

 いくらなんでも、それくらい待つほど、少女はそれを求めているわけではないし。

 まあ、いいだろう。

 少女は目を閉じた。


 ビーーーーーーーーーーーーーーーーーッ

「あんだー? うるせえなー」

 目覚めの一発目が騒音被害では、酔っ払いのおじさんと言えど、怒るのは致し方ないことだ。起きていた少女が、線路の方を覗く。

 ほの暗い向こう側から、列車のライトが近づいてくるのが目に刺さった。

 未だ夢の中である社畜の青年を揺する。

「社畜さーん、どうやら始発が来たみたいですよ」

「もうそんな時間だったかー」

「おじさんには言ってません。というか、起こすの手伝ってください」

 互いに名前を聞いていないのだが、まあ、おじさん、社畜、少女でかまわないだろう。ガタンゴトンと迫る列車の音を聞きながら、おじさんと少女は社畜を起こした。

 社畜の青年は寝ぼけ眼で二人を見、それからこてんと首を傾げる。

「あれ、職場の人にしては、変な格好ですな……?」

「職場じゃないですよ。起きてくださーい」

 社畜の顔の前で、手をひらひらと振る少女。それではっと目を覚ます社畜、それに安心する少女。

 そんな彼女を見て、おじさんはぼそりと呟く。

「随分とお節介なんだなー。放っときゃいいのに」

「せっかくおうちに帰れるんですよ? これを逃したら、あとはいつ家に帰れるかわからないなんて、可哀想じゃありませんか。それに、袖振り合うも多生の縁、と言いますよ?」

「へいへい」

 なんだか説教をされた気分になり、おじさんは気まずくなって、少女から目を逸らした。その間に社畜は意識を明瞭にしたらしく、やった、始発の時間だ、と喜んでいた。

 地下にあるプラットホームから、どうして外が見えようか。けれど誰も朝が来たのだと疑わなかった。

 本当に始発の列車かなんて、誰にもわからないのに。

 そんなとき、社畜はふと後ろを向いて気づいた。

「な、これは!?」

「どうかしたかー?」

「駅名が」

「ん? いつも通り『ともえ駅』じゃねえか」

「ともえはともえでも街の名前の『十萌』じゃなくて、漢字一文字の『巴』ですよ!?」

 言われてみれば、外国人への案内用のアルファベットはいつも通りだが、「十萌駅」ではなく、「巴駅」になっている。

「何が違うんだー?」

「あんた、あの都市伝説知らないんですかな!? 巴駅ですよ、巴駅!!」

「ん、あー、わからん」

「これだから酔っ払いは。『巴駅』からは正しい順番に車両に乗らないと出られないんですよ?」

 社畜は慌ててヒントを探す。おじさんはほーん、と本気にしていないようだ。

「あ、電卓」

 少女がどこから持ってきたのか、電卓を見せる。何のヒントになるんだ、と項垂れる社畜。

 そんな前で、少女が言う。

「電卓で思い出したけど、そういえば、とっても有名な計算式がなかったっけ? 語呂合わせのやつ」

 少女の言葉に疑問符を浮かべるおじさん。だが、社畜はそれで思いついたようで、ぱあっと表情が明るくなる。

「18782+18782=37564……これだ!!」

 お嬢さんナイス、と少女の肩を叩く社畜。おじさんを伴って、一号車の来る辺りで列車を待つ。

 おじさんは流れに身を任せ、社畜はやっと家に帰れるという希望を胸に動いていた。

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