ウオオオオオン、ウオオオオオン、ウオオオオオン、ウオオオオオン、ピーポーピーポーピーポーピーポーピーポーピーポー……

 パトカーのサイレンと救急車のサイレンが交じり合う中、美月は運ばれる美陽に張りついていた。大人はあまりにも傷が生々しい美陽を見せまい、と美月を引き離す。既に、美陽に息がない、という事実を誰にも言えずにいた。

 美月には婦警が一人、ついた。母親の遺体も運び出され、あまりの惨状に婦警は言葉を失った。

「ええと、あなたは?」

「美月」

「美月ちゃんね、よろしく」

「美陽……」

 婦警は美月がぽつりと呟いた名前にはっとする。通報されたときに聞いた姉の名前が美陽と言った。やはり、目の前で滅多刺しにされたことがショックだったのだろう。

 美月自身も、病院に行く必要があるくらいの怪我なのだが、姉と母の死を突きつけることがどうしてもできなかった。

 美月はふと、携帯電話をポケットから取り出す。足は痛みがあるだけで、折れてはいないらしく、それを知るなり、美月は立って歩き出した。婦警は我慢が過ぎないように見張りとして美月につくことになった。

 この子は孤児院に行くことになるだろう。母は死に、父は投獄されるのがほぼほぼ決まっている。姉も死に、天涯孤独となる。

 まだ未就学児であろう子どもが背負うには過酷な運命である。

「美月ちゃん、ちょっとお休みしよう」

「……私のお部屋は二階」

「じゃあ、お部屋に行こうか」

 覚束ない足取りで二階へ上っていく。部屋が三つあり、その真ん中が美月と美陽の部屋だった。

 その部屋に入った瞬間、婦警はつん、と香る刺激臭に顔をしかめた。夜風は鼻を押さえてどう呼吸したらいいのかわからなくなっているようだ。

 その部屋の中には、人骨があった。何本もからからと。小さいものもある。赤ん坊のものだろうか。頭蓋骨が陥没しているものもあった。

 部屋の片隅には、どろっとした水溜まりがある。刺激臭はここから放たれていた。

「これは……」

「あはは、私ってばもったいないことしちゃいましたぁ。お父さんとお母さんからもらったごはんを戻しちゃってぇ。掃除しようにもどこに道具があるかわからなくてぇ。家の中を勝手に歩くとお父さんに怒られちゃうからぁ、掃除できなかったんだぁ。私、お姉ちゃんみたいに強くないからねぇ」

 お姉ちゃん、という単語に、婦警はなんとも言えない表情をする。この子にとって、姉とはどんな存在だったのだろうか。

 ちらと見ただけだが、背丈も同じくらいで、容姿は瓜二つ。年頃も同じだろうから、双子と見て間違いないだろう。

 双子とは、元々一つで生まれてくるはずだった魂が二つに別れてしまったものだ、と言われることがある。

 自分の半身のような存在。その喪失は幼い子どもには大きすぎる。大人であっても、受け止められないことだってあるのに。

 けれど、なんだろう、婦警はある予感がしていた。それは何も知らないやつが言うことではないのだが……美月が、姉の死を何とも思っていないような。

 感情が感じられないのだ。通報してきたときのような必死さ、悲痛さ、家族を失った悲しみ、寂しさまでもが、ごっそりとこの子の中から抜け落ちてしまっているような。にこにこと笑顔ではあるが、その笑顔の真意が婦警には読み取れなかった。

 それは映写機で過去を見ている瞳たちも同様だった。美月……後に「箕輪美月」になるであろう人物から、一切の感情が消え失せたことを感じた。夜風は感情臭を読み取れなかったし、何より「いつもの箕輪になった」気がするのだ。

 感情の伴わない、楽しげだけれど空虚な振る舞い。それは箕輪美月そのものであり、佐藤美陽その人であった。

「お姉ちゃんの気持ちが、やっとわかった。何にも思わないって、こんな感じなんだ」

 お父さんがお母さんを殺した。でも悲しくない。お姉ちゃんも死んじゃった。でも悲しくない。寂しくもない。私はひとりぼっち。でも悲しくない。楽しくもないけれど。

 婦警はにこにこと笑う美月を訝しく思った。疑問が浮かぶ。「この子は人間なのだろうか?」と。

 感情を失うことで、人間ではなくなってしまった。そもそも、人間が食べるようなものではない、虫や鼠などを平気で食べてきた味覚異常の時点でどうかしている。誰にも話していないが、人間を食べた。姉ととっておいた骨はどんな出汁が出るかわからないから煮込んでみようね、と約束した。

 姉が人間でないのなら、美月もまた人間ではない。人間として育ててもらえなかったのもあるが。喋れるだけの動物だ。

 笑えるだけの生き物だ。

「お母さんにね、笑ってる美陽が可愛いって言われたの。だから私も笑うの。だって、何も思わないんだったら、表情くらい作ったっていいじゃない。可愛い方がいいわぁ。だから美月もきっと笑った方が可愛いのよぉ。だって私たち双子で、おんなじ顔なんだもの!」

 そんな姉の言葉に縛られ、美月はにこにこと笑う。それは姉が告げた通り可愛くて、何も美月のことを知らない者たちを虜にした。

 みんながいいって言ってくれるのだから、これでいいはずだ。自分はどうでもいい。どう思われても何も思わないから、可愛いとか、不気味とか女狐とか言われても全然気にならない。

 全てが、どうでもいい。姉が死んだあの瞬間から、美月は感情がぷっつり途切れて、自分が誰かもどうでもよくなってしまった。

「私は嬉しいの。お姉ちゃんと同じになれて。お姉ちゃんがいなくても、私が真似してればそれはお姉ちゃんなのと一緒。美月なんて名前は仮初の記号で、本当は美陽なの。私はお姉ちゃんなの。おんなじなの。お姉ちゃんと一緒なの。お姉ちゃんは死んでないの。私の体を借りて生きている。私がなんにも感じなくなったのはお姉ちゃんが私の中に入ってきたから。だから私が生きている限りお姉ちゃんは死なない。だから私は生きるの」

 あまりにも無邪気に歪んだ子どもの考えだった。

 それで、と瞳や夜風は納得する。箕輪は小学生の頃から、「箕輪」と名乗っていた。下の名前は聞かれないと答えないし、聞いても答えないことすらあった。

 それは全て「美陽」のためだったのだ。自分は「美月」ではなく「美陽」だと、そう思って生きていたから……

 しかし、一方で爽が違和感を覚える。爽は一貫して「美月」と呼んでいた。それを箕輪は否定しなかった。自分を姉の美陽だと思い込んでいるのなら、何故彼女は「美陽」と名乗らなかったのだろう? 無戸籍だったのだから、「美月」を死んだことにして「美陽」と名乗って生きることもできたはずだ。何故そうしなかったのか。

 景色が暗転し、箕輪がにこにこと佇んでいる。いつもの箕輪……のように見えたが。

「みっちゃん……泣いてる」

「涙……?」

 箕輪の単調だった鼓動が不自然にずれているのを感じた鷸成と、箕輪の顔をよく見て、頬についた涙の跡に気づいた瞳。

 箕輪は笑顔のまま、さもおかしそうに声を上げて笑った。

「あっははぁ、何言ってるんですかぁ? なんで私が泣くんですかぁ。ほぉら見てください、いつも通りにこにこ笑顔ですよぉ」

 ピルルルルルッ、ピルルルルルッ、ピルルルルルッ、ピルルルルルッ、ピルルルルルッ……

 唐突な着信音に鷸成が耳を塞いだ。箕輪の鼓動を拾おうとしていたのが、曖昧になってしまう。瞳も気が逸れてしまい、思わずスマホに目を向ける。

 映写機の後のこの着信。何を言われるかはわかっている。

 ただ、どうすればいい?

 この箕輪の傷にどう寄り添えばいい? 箕輪が「美陽」ではなく「美月」だと指摘してしまえば、更に箕輪の心を抉ることになりかねない。かといって、「美陽」を肯定し、「美月」を亡き者にするのは、「佐藤美月」が存在したことを否定するようなものだ。

 感情のない箕輪に、何をどう伝える? 何に気づかせる? どうすれば、彼女を愛することになる?

 迷いに迷う瞳は、もういっそ、何もしないことが正解なのではないか、と思った。

 そのとき、電話を取る者があり。

「アイシテミル?」

 件の言葉が流れてきたのだった。

 動いたのは、睦だった。何も言わずに、ただじっと箕輪の経緯を眺めていた。自分とはあまりにも違う、普遍から遠く離れた人の生を睦は黙って見つめていたのだ。

 それは、責任感からかもしれない。箕輪が掛矢を振り回してまで見せたくなかった過去。それを知りたいとはっきり言ったのは睦だった。掛矢がもう手元にないのはただの偶然で、なくなっていなかったなら、また睦が引きずっていたのだろう。

 睦はつかつかと箕輪の方に真っ直ぐ歩いていく。

 それから、一閃。

 ぱしぃん。

 暗がりの中、やたら響いたそれは、睦が箕輪の頬を張る音だった。

 一同は呆気にとられる。睦は暴力を振るうような人物ではないからこその驚きだ。むしろどちらかというと、殴られたり蹴られたりするタイプだ。ついでに、踏んだり蹴ったり。

 その華奢な手を大きく、的確に、無駄な所作なく振りかぶったため、睦の最大限の力を受けた箕輪の頬は赤く腫れ上がっていた。

 箕輪も、呆然と睦を見つめている。何故叩かれたのか、皆目見当がつかない。おかしい。叩かれるのは、日常茶飯事で、慣れきったことのはずだった。あの男のおかげで。美陽が死ななくても、暴力に対する耐性は充分で、それこそ感情は擦りきれてなくなっていた。

 はず、なのに。

 ぽろ、ぽろ。

 頬をやけに大粒の雫が伝う。

 それを見て、外野は泡を食った。

「ちょっ!? 泣っ!? むっちゃん、いくらなんでもいきなりひどいよ!」

「そうだ鹿谷。どうしたんだ」

「え、美月ちゃん大丈夫?」

「鹿谷、ちょっと正座しろ」

 挙げ句の果てに夜風先輩からのお説教が始まりそうになる。普段なら睦が「なんで僕怒られるの!?」とか反応しそうなのだが、吐息の一つも聞こえない。

 睦の表情を見て、一同が驚く。頭からバケツの水をひっくり返されても怒らないような睦が、般若とまではいかないまでも、確かに瞳に怒りを燃やしていたのである。

「箕輪美月さん」

「……ぇ」

「返事は?」

「は、はい」

 怯えた様子の箕輪に、それぞれに心配するフェイスのメンバーを示した。

「みんな、美月さんを愛しているよ?」

「……!?」

 箕輪が、困惑の表情を浮かべる。そこには希望の灯火がちらついた気がした。

「別に、お姉さんのことを思うのはいいし、お姉さんを尊敬して真似るのも、駄目とは言わない。でもさ、あなたは本当は『美月』でいたかったんじゃないの?」

 それが今、箕輪が「箕輪美月」である理由じゃないか、と睦は語った。

「わからない……」

 箕輪は頭を振る。混乱していた。初めて見るような明るい景色に。

 殴られた頬がとても痛い。けれど同時にとても温かいような気がするのだ。腫れているからなどではなく。これがどういう感情なのか、箕輪にはわからなかった。

「感情……?」

 頭の中を整理して、ふと気づく。その言葉がその感覚が、とても久しぶりのように感じられた。

 頬が痛くて泣いてしまうのも、混乱したり、ちらと希望が見えたりするのも、美月が目を背けていた「感情」だった。それを持っていると、悲しすぎるから。愛されない自分が惨めすぎるから。長らく、隠していた。なくなったわけではなかった。

 美陽になれたわけではなかった。

 でも、美陽の真似をしなくても、もう温かい仲間がいる。曖昧にしていた「友達」の線引きの中に、人がいた。市瀬瞳、双海爽、篠宮夜風、後藤鷸成、それから、鹿谷睦。仮初の美陽も、本当の美月も否定しなかった六人。

「我々は仲間だ。それで」

「友達だよ」

 美月が目を見開く。長年、笑うこと以外に使っていなかった表情筋が、自然に動いた。

「ねえ、美月さん」

 グリーン車に景色が戻って、お知らせ音が鳴るのも無視し、睦は悪戯っぽく問いかける。

「愛してみる? 自分のこと」

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