ドゴッグキッバキッグシャアベシャア……

 到底してはいけないような音がする。百歩譲ってそれが物に当たっている音ならまだいい。だが、どう聞いても、人体から漏れ出ているような生々しさとおぞましさが感じられるのだ。

 映写機が始まったわけだが、そこは暗がりだった。息も絶え絶えな吐息が聞こえる。おそらく、女性のもの。……そこまで行き着けば、自ずと答えは出た。

 ここは箕輪の過去なのだから。

 ぼんやりと明るくなってきて、部屋が見える。そこには妻を殴り、蹴飛ばす男の姿が。その子どもである双子は何を思っているのかわからない表情でそこに立ち尽くしていた。

 鷸成が耳をそばだてて、なんで、と小さく呟いた。

「この二人、ほとんど呼吸してない……」

「息をするのも憚っているのだろう」

 瞳はさらりと述べたが、自分の家で、息を憚らねばならないというのは、どういう状況だろう。

 大方、この父親が原因なのだろうが……

 部屋は綺麗に片付いていた。先に見た死体など、破片も見当たらない。つまりはこの双子が綺麗に平らげたということだろう。双子はけろっとしているが、とんでもないことだ。

 で、この場はどういう状況なのかというと、女性が携帯電話を取り上げられている。携帯電話を与えられていた事実にも驚きだが、原因がその携帯電話にありそうなのがなんとも言えない。

「誰が、電話なんてしていいと言った?」

 げし、と腹を蹴る男。それでは女性が答えられないだろうに。こほ、と女性が呼気をこぼす。苦しそうに顔を歪め、怪物でも見るような怯えた目で自分の夫を見上げた。

 実際、怪物のようなものだろう。気に入らなければ暴力に物を言わせるDV男なんて。

 ただ、その男に恐怖しているのは妻である女性のみで、双子からは感情が凪いだように何も感じられない。お母さんが暴力に晒されて痛そうとか可哀想とか、暴力を振るうお父さんが怖いとか一周回って格好いいとか、とち狂った感情さえ見当たらない。本当にただ見ているだけである。

 おそらく、外部に助けを求めようとした母のことも何も思っていない。思っていても「なんかまた殴られているな」程度だろう。映写機の中でも感情臭の読み取れる夜風が何も感じ取れない。明らかに異常だ。

 ただ、一方的な暴力の光景を眺めている。倫理も道徳も学んでいない双子はそれしかしない。

 きっと、止めに行っても殴られるだけなのだろう。あの暴力男のことだ。二人でかかっても紙っぺらのように吹き飛ばすにちがいない。

 髪を引っ掴んで、引きずり回す。女性に擦り傷ができていく。綺麗なフローリングが嫌な音を立てて、傷をつけていく。

 壁の前までやってくると、今度は後頭部をぐわしと掴んで、顔面を潰さんが勢いでばこっと壁に叩きつける。それを何度も何度も繰り返し、女性はやがて悲鳴すら上げられなくなり、整っていた面差しは見る影もなくなっていた。

 もうどこから血が流れているのかわからないくらい血だらけの顔で、なんとか息をしている様子。ふーっ、ふーっ、と必死に呼吸を繰り返す妻に、夫は何を思ったのか、首を絞めるという所業を施す。

「俺の許可なしに息なんてするな」

 そんな非道な命令を下す男の目は黒く淀んで底の見えない穴のようだった。飲み込まれたら、二度と出てこられないだろう。

 顔がぐしゃぐしゃになった妻はもうそんな恐ろしい瞳を見ることもなくなったわけだが。

 男がぎりぎりと首を絞め続けていると、やがて女性の全身からくたりと力が失われる。死んだのだ。

「なんてことを……」

 瞳が呆然と呟く。そうするしかできない。

 女性が死んだ。箕輪に面差しが似ているため、あまりいい気分にはなれない。

 双子の……あまり見分けはつかないのだが、呆然として、ショックで足取りが覚束ないので、美月の方だろう……が、母親に近づく。触れようとしたところで、鳩尾に一発食らい、吹き飛ばされる。もちろんやったのは父親だ。

「くそったれは寝てろ。ほら、飯だ。片付けやがれ、畜生が」

 美陽に向かって父親が言う。美陽はいつも通りににこにこ笑っていた。母親の方に近づく。それを父親が止めることはない。

 以前、死んだ子どもたちを食べてもらったことで、味をしめたのだ。物的証拠が残らなければ、いくら殺してもかまわない。食べ物を欲する娘たちが勝手に死体を片付けてくれる、と。とても人間の考えることではなかった。

 美陽はにこにこと……携帯電話を手に取った。父親はぎょっとして、美陽に飛びかかろうとする。それを美月が足を引っ張って止めた。

「ちくしょう、ただのガキの分際で……!」

 美陽は肝が据わっているので、冷静に110番に通報した。美月は蹴られながらも、父を止める。

 いくら幼い子どもだって、いくら感情がなくたって、わかった。人を殺してはいけない。母親はちゃんと教えてくれた。

「お母さんはねぇ、一度いいと思った人を諦められない駄目な女なの。だからお母さんはねぇ、あの人を告発できないの。でもねぇ、美陽と美月は自由になっていいの。こんな駄目な親に耐えられなくなったら、この番号を押して、助けを呼ぶんだよ」

 そうして教わったのが、110番だった。

 119番ではなく、110番を教えたのはきっと、これが犯罪、もしくは自分の行いが犯罪に準ずるものだと自覚していたからだろう。犯罪の隠蔽もまた罪なのだ。

 そこまでして、女性が男性に求めた愛。それはとても歪で、常識では考えられない愛だ。どんなに暴力を振るわれても、足蹴にされても、……殺されてまで、この男に愛されたかったのか。

 あまりにも哀れな女性だ。

「もしもし、警察の人ですか?」

「やめろ!」

「お母さんが殺されたんです」

「やめろ!」

「お父さんに殺されたんです」

「やめろおおおおおおおおおっ!!」

 美陽は父親の叫びなどガン無視で話を進めていく。美月が父親の足を止める必死さとは対照的だった。

 美月も顔をぼこぼこに蹴られ、息をするのも苦しそうだ。けれど、それから解放される、千載一遇のチャンスを逃すまい、と父親に引っ付いて離れない。

 父親は苛々が見るからに溜まり、まずは足にしがみつく美月から片付けることにしたようだ。

「重てえんだよ、クソガキが!!」

 足を払い、それでも離れようとしない美月の体を無理矢理捻らせて、美月が呻くのもかまわず、襟首を掴んで持ち上げる。無理矢理上向きにさせられ、喉が潰されるように絞まり、美月は苦しそうな咳をこぼす。

 持ち上げた美月を父親は壁にぶつけた。ぐったりとしているが、唇が微かに「お姉ちゃん」と象った。

「チッ、まだ息がある。とっととくたば」

「妹も今殺されかけてるんです! 助けてください!!」

 普段、感情を露にしない美陽の決死の叫びに男は目を剥く。

 この時代、場所を特定するための手段はいくらでもある。例えば、GPS。準備さえすれば、逆探知なんかもできる。電話会社に問い合わせて、住所の確認など、手間はかかるが、できることはたくさんある。

 それを悟った父親の意識が、再び美陽の方へ向く。床に倒れた美月は姉を助けるため、地を這う。打ち所が悪かったか、骨でも折れているのか、立ち上がれない。それでも、這ってでも、姉のために役に立ちたい。幸いまだ手は動く。床を擦れるくらいの痛み、今更なんでもない。手が動かなくなっても、口がある。噛みつけばいい。口が動かなくなっても、死なない限り頭を動かせる。頭突きでだって、この際かまわないのだ。

「お願いします! 助けてください! 美月だけでも!!」

 姉のこんな必死な声は初めて聞いた。

 美月はいつからかずっと、笑顔のままの姉を不思議に思っていた。叩かれようが、蹴られようが、痛みなんて感じていないみたいに平気で笑っている姉だった。

 いつだったか、聞いたのだ。

「お姉ちゃんはなんで、いつも笑ってるの? 叩かれて、痛くないの? 悲しくないの?」

 すると姉は答えた。

「お姉ちゃんはね、なんだか自分のことがどうでもよくなっちゃったんだ。ある日までは痛かったし、悲しかったんだよ。でも、ぷつんってなんか吹っ切れちゃって。なんとも思わなくなったんだ」

 そう言って、以来感情の乗っていない笑顔を貼りつけっぱなしだった姉が。

「お願いです、妹を助けてください。私じゃもうなんにもできない」

 携帯を持つ手から奪われそうになった電話を美月の方に投げて、顔面を思い切り殴られた。

 美月は慌てて携帯電話を手に取り耳に当てる。その間に、首根っこを掴まれた美陽は台所に連れ去られる。

「お姉ちゃん、お姉ちゃんが」

「ん、妹さんかい? ゆっくりでいいから状況を説明してちょうだい」

 電話向こうからの優しい声。けれどゆっくりしている暇はない。

「お姉ちゃんが、電話したから、お父さんに殺されそうなの!! 今台所に連れて行かれた。お父さん、包丁出してきたらどうしよう……」

 具体的な状況説明に、電話向こうの対処が変わる。自分の名前、姉の名前、母の名前、父の名前を答えていく。美月と美陽は戸籍がないため、探せない。が、両親の名前は見つかる。そこから住所を割り出せるだろう。

「お巡りさんがすぐに行くから、耐えてくれ。頑張れるかい?」

「早く、早く来てね。頑張るから」

 美月は電話を服のポケットに仕舞い、台所へと向かう。

「お姉ちゃ」

 美月は、絶句した。

 そこには口から大量に血を流している美陽と赤く染まった包丁を持つ父親が立っていた。

 父親が、手に持っていた何かを放り投げる。美月に絶望を与えるためだったのだろう。

 美月の前にぽて、と落ちた肉塊は楕円を半途に切ったような形で、表面がぶつぶつとしている。

 切られた根元からは鮮血が滴っていた。

 夜風がくん、と臭いを嗅ぎ、顔面を蒼白にする。瞳が「どうした?」と問いかけると、夜風は真っ青な顔のまま、答えた。

「舌だよ」

「っ!?」

 それから、父親から滅多刺しにされ、美陽は抵抗もできず息絶えた。

 美月は怖くて近づけなかったが、そこで警察が到着。

 全てがあまりにも遅すぎた。

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