や
ピヨピヨ、ピヨピヨ、ピヨピヨ、ピヨピヨ、ピ。
歩行者用信号機が赤になり、盲目者のための音声がふつりと消える。
自動車用信号も赤になる頃、夜風は弟と口喧嘩していた。
「はっきり言ってうざいんだよ。弟離れしてくれない姉なんて」
「なんでそんなことを言うんだ」
弟が呆れ果てたように溜め息を吐く。
「耳腐ったの? 言ったでしょ。あんたはうざいんだって。それに、後輩に俺のこと重ねて世話焼いてるんでしょ? よく付き合ってもらえてるね」
「な、それは……」
鷸成のことを弟のように思っている。それは事実だ。だが、何故それを侮蔑されなければならないのだ。
夜風は自分が否定されるより、鷸成が貶されたように感じて、ぶちんとキレた。
「黙って聞いていれば好き勝手に言いやがって。私の何が悪いっていうんだ」
「態度」
「態度ならお前の方が悪いだろ」
そこで弟が目をぱちくりとする。
「……姉ちゃん……?」
「近寄るな!」
夜風は弟を拒絶する。
自分が拒絶されたのに、何故自分が弟を大事にしなければならないのか。
うざいだと? 弟離れだと? そちらが離れないのに何故自分が離れなければならない?
一方的に貶されるのは嫌だ。そればかりか、鷸成のことまで馬鹿にしてきた。こんなこと、許せるわけがない。
確かに、夜風は目に入れても痛くないような勢いで弟を溺愛してきた。けれどそれはたった一人しか兄弟がいないからだ。一人っ子の多い現代で、兄弟に恵まれたことのなんと尊いことか。……夜風はそれを踏まえて、弟を愛していた。
それをその弟に否定された今、夜風はどうしたらいいかわからなかった。
夜風は弟を心の支えにしていた。弟は物静かで気性が穏やかで、姉の性質を理解してくれていた。感情の波が少なく、近くにいるとこちらまで心が穏やかになれた。
だというのに。そんな裏では姉を「うざい」と思っていたのか。
だったら夜風にだって考えはある。
「お前なんか嫌いだ」
そう、近づかれるのがうざいというのなら、嫌ってやる。もう二度と近づいてやらない。
「え、姉ちゃん?」
「お前に姉ちゃんと呼ばれる筋合いはない。もうお前のことなんか知らない」
そこでさあっと弟が青ざめていく。夜風は踵を返そうとした。
「待って!」
おそらく、軽い気持ちで言ったのだろう。拒絶の言葉を放ったときは嫌悪に満ちていたが、いざ夜風から拒絶されると戸惑うらしい。この展開は想像していなかったらしい。
無責任な話だ。自分から拒絶しておいて。それなら、ちゃんと自分の言葉に責任を取らせなければならない。それを伝えるのも年上である姉の役目だろう。
「来るな!」
拒絶を徹底して、夜風は弟を突き放した。
そのとき。
どかっ。
鈍い音が聞こえて、振り向く。
そこには。
「あ……」
そこには。
「あ……嘘だ……」
そこには、血塗れの弟が倒れていた。走行してきたらしい車両が変な向きで停まっている。避けようとしたのだろう。
しかし、突然飛び出してきたのに反応するので精一杯。
何気なく突き放しただけなのに、こんなことになってしまった。弟が大怪我をしてしまった。気を失っている。この出血量は死んでいるかもしれない。
死んでいるかも……?
「あ、あああああああっ!!」
自分は、幸いにして、唯一の弟を、この手で……
カッコウカッコウカッコウカッコウ……
歩行者用信号機の音が夜風を滑稽だとでも言うかのように鳴り続いていた。
次第にカッコウという音はガタンゴトンという音にすり変わっていく。
はっと気づくと、そこは薄暗い列車の中だった。そうだ。夜風は瞳たちと共に幽霊列車を乗り継いでいるのだった。
車内なのに風がびゅう、と夜風の黒髪を拐っていく。
直後、夜風の目に映ったのは、鷸成の姿だった。
弟と同じくらいに愛情を注いでいる相手。自分のことを理解してくれている、数少ない人物で、とても大切な人。
その鷸成が倒れていた。血塗れで。
鷸成は赤が好きだ。なんかかっこいいじゃん、と以前語っていた。お気に入りのパーカーも、愛用のヘッドフォンも、赤。それは赤っぽい彼の髪によく似合っていた。音害に苦しみながらも、屈託のない笑顔を振り撒く鷸成に赤という色はとてもよく似合っている。
それを告げたとき、鷸成はすごく喜んでいた。赤が好きだからすごく嬉しい、と。
だからこんなに赤にまみれているのか? 髪の色とも、パーカーともヘッドフォンとも違う、液状の赤にまみれているのは赤が好きだからだよな?
死んでいるとか、そんなんじゃないよな?
「鷸成」
名前を呼ぶ。
「寝たふりなんてしている場合か? 起きろ。この列車から、降りなくちゃ。ゴールに向かって進んで、帰るんだろう?」
自分たちを閉じ込めた謎の空間。そこから脱出するために、駅に備えられたヒントを読み解き、ここまでやってきた。
……まさか、睦の言っていたように、四号車に乗るのは間違っていたのだろうか。
その夜風の予想は正しい。実際、閉め切りの車内に風が吹いているのは、箕輪の類稀なる幽霊への物理攻撃能力によって、隣の車両に乗り移るための風穴が開けられたからだ。夜風はまだ知らないことだが。
夜風は周囲の状況を把握する余裕がなかった。今目の前に倒れている鷸成の方が夜風にとっては重要だった。
弟と交わした会話。それは過去に確かにあったことである。弟を突き飛ばしたら、弟が車にはねられてしまったことも、実際にあったことだ。
あのとき、車が急ブレーキで速度を緩めていたこともあり、重傷を負ったものの、一命はとりとめ、後遺症などもなく退院することができた。今は元気に過ごしているし、お互い、言い過ぎたと謝ったことで一件は落ち着いた。
しかし、「弟から嫌われる」「弟を失う」というのは夜風にとって最も恐ろしいことだった。自分の言葉や行動のせいなら、尚更。
それは、鷸成に対しても同じことだ。
故に、夜風は困惑していた。
何故鷸成が倒れている? 何故こんなに赤まみれなの? 一体何が起こった? まさか、私が。
過去の中で、弟を突き飛ばすシーンがあった。鮮明に覚えている、自分の過ちの記憶。ただの過去だったはずなのに、何故か夜風の手にはあたかも誰かを突き飛ばしたような生々しい感触が残っている。
まさか、私が、突き飛ばした?
それ以外の可能性は考えられない。状況からして、鷸成を突き飛ばせるポジションにいるのは夜風しかいない。他の四人は脱出経路の確保に勤しんでいるのだが、夜風には目の前の鷸成しか映っていなかった。
あの日から、何度悪夢を見ただろう。弟が一命をとりとめるまで、弟が回復してからも、弟と仲直りしても、弟が今日も元気に生きていても。
夜風は何度も悪夢を見た。自分が弟を道路に突き飛ばし、弟が車に轢かれて死ぬ夢。夢の中で弟は「よくも俺を殺したね、大好きなお姉ちゃん?」と迫ってくる。そんな悪夢で飛び起きることが今でもままある。
夜風は自分が弟と鷸成を重ねて見ているのを自覚していた。だからこそ、その悪夢は時折、弟ではなく、鷸成を突き飛ばす夢となっていた。
……こんなのは夢だ。悪い夢だ。
「鷸成……」
ぴくりとも動かない鷸成。その温もりを確かめようとして、夜風は鷸成に歩み寄る。
そっと鷸成の傍らに膝を突いたところで、けたたましい着信音が耳をつんざいた。
ピルルルルルッ、ピルルルルルッ、ピルルルルルッ、ピルルルルルッ、ピルルルルルッ……
いつもなら、ヘッドフォンをしていても耳に障るその音に顔をしかめるのに。バイブレーションでも目を覚ますのに。
動かない。何の反応もない。鷸成が反応できないのは、きっと……
死んでしまったからだ。
殺したのは私。
それなら、私は生きていてはいけない。お誂え向きに、この車両は「四」号車だ。病院などで忌避される通り、「四」という数字は「死」を暗喩するとされている。ではそのまま、死に身を委ねてしまおう。
夜風は鷸成の隣に倒れ込み、目を瞑った。
生きるのはつらい。誰かを失うのは悲しい。それが大切な人ならば、いっそ死んでしまいたいくらいに。
フェイスがどうとか、私にはもうどうでもいい。元々は瞳、爽、箕輪の三人組で結成された組織なのだ。私がいなくても、上手くやっていくだろう。この幽霊列車から、悪夢から脱出を成し遂げられる。
夜風はもう疲れた、と溜め息を吐いた。楽になりたい。死んでも別に……弟が悲しんでくれたらいいけれど、別にどうでもいいとさえ思う。
それほどまでに鷸成に依存していた。
来年にはまた離ればなれになる。そんなことを言い出したのは夜風だったが、離ればなれになることに一番耐えられないのも夜風だった。
鷸成が中学に入学してくるまで、夜風の生活は灰色で、汚い人間の臭いしかしない、味気のないものだった。
小学校のときからそうだ。フェイスに悩み相談に来た鷸成。鷸成が夜風に懐いたという認識を誰もがしているだろうが、本当は逆だ。夜風が鷸成を求めた。
それがもうないならば。確約された最後の夏がここで終わってしまってもいい。
最後というのが一番悲しいのは夜風だから。
ふわり、と浮き上がるような心地を覚えながら、夜風は意識を手放した。
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