べちゃっべちゃべちゃ、べちゃっ……

「ひぃあっ!?」

 手に触れた水っぽい感触と不気味な音に夜風が悲鳴を上げる。暗くて夜風の方が確認できないが、瞳も椅子に触って理解した。

 水っぽい。座ったらズボンが汚れるだろう。暗がりでよく見えないが、赤っぽい色をしている。もしかして、と思ったら、爽が答えを口にした。

「血だね」

 臭いはあまりしない。粘度も本物の血液ほどではない。が、血だろう。ペンキだったならもっと粘度があるし、絵の具と考えるには粘度が足りない。水で伸ばしている、と考えると、逆に粘度がある。トマトケチャップや血糊などの候補もあるが、そのどれとも違った。

「水で薄められているようですが、血ですね。B型でしょうか」

 箕輪は舐めてみたらしい。何故それで血液型まで断定できるのか。B型の血を飲んだことがあるのか、という恐ろしい事実にぶち当たるが、箕輪の発言を深掘りする必要は今はない。

 何故こんなところに血が、という方が重要だろう。それぞれの反応を見た感じ、全ての座席に撒かれているようだ。肝試しのために冷えたこんにゃくを仕込んでびびらせる要領なのだろうか。それだったら、水で薄めたりなんかせず、そのままの血を撒いた方が怖いだろうに。

 水で薄めるメリットなど、臭いを弱めるくらいしかないだろうに。

 と考えていると。

「よかちゃん?」

 ぱしんっ。

 夜風の動揺っぷりに心配したらしい鷸成が声をかけ、肩にでも手を置いたのだろうが、夜風が思い切り振り払った。咄嗟のことに鷸成は頭の中が真っ白になる。無理もない。鷸成が夜風に拒絶されたことなんて、今まで一度もなかったのだから。

 むしろ夜風にとって鷸成はおじいさんおばあさんから見た孫くらいに目に入れても痛くないくらいの存在のはずだ。それが拒絶するとは、一体どういう状況だろう。

 他が状況を飲み込めない中、夜風の近くにいた鷸成だけが、暗闇の中、夜風の表情を見ることができた。

 失望、憤怒、嫌悪。そんな感情が夜風を彩っている。こんな感情を発露させた夜風を鷸成は見たことがない。

 夜風は感情を表すのを嫌っている。感情臭を嗅ぎ取れる夜風には自分のものであっても強い感情というのは苦手なのだ。

「お前がそんなだとは思いもしなかったよ」

「……よかちゃん?」

 どうにも、様子がおかしい。

 鷸成は何もしていない。それに対して侮蔑のような言葉を向ける夜風。周囲から見たら突飛で不当な発言にしか見えない。

「よかちゃん、よかちゃん!」

 鷸成が異変を察知し、夜風に必死に呼び掛ける。

「よかちゃん、俺だよ、鷸成だよ。ねえ、こっちを見て。ちゃんと俺の顔を見て!」

 鷸成が覗き込んだ夜風の顔は瞳孔がぶれていて定まっていなかった。ここではないどこか、というか、鷸成ではない誰かが見えているようだった。

 夜風は鷸成を誰かと重ねて、尚も蔑みの言葉を向ける。

「いつも私に頼るくせに、なんでいきなりいらないとか言い出すの?」

「そんなこと言ってないよ、よかちゃん」

 誰と話してるの、と鷸成は問いかけたが、夜風は怒りの表情のまま答えない。

 瞳や爽はなんとなくわかった。というかそれ以外に自分たちにわかり得る選択肢がない。

 夜風が鷸成と誰かを重ねるとしたら、それは実弟を置いて他ない。つまり夜風は弟に話しかけているのだ。おそらく、過去の出来事なのだろう。

「……ん? 過去?」

 瞳の中で引っ掛かったそれは暗に答えを示していた。

「映写機が発動しているのか!」

「えっ」

 爽が驚く。無理もないだろう。これまで、映写機が発動する際は懇切丁寧に前置きとしてアナウンスが流れた後だった。今回はそれがない。つまり、どういうことか。

 最終車両だけ特別製、という説もなくはないだろうが、それより確かな説がある。

「我々は乗る車両を間違えた、ということか」

 睦が言っていた「引っ掛かり」。あれを無視すべきではなかった。睦の勘は例外なく正しいのだ。何故信じてやれなかったのか。

 それは睦がフェイスの一員ではないからだ。瞳の中で彼は依頼人の一人でしかなかった。だから軽んじてしまった。

「お前なんか、嫌いだ」

 血を吐くような苦しげな声で夜風が告げる。

 そんな言葉、夜風は誰にも言いたくなかっただろう。鷸成にも、無論、弟にも。夜風は人と関わることを厭う。家族にすら心をあまり開かない夜風が唯一心を許した家族が弟だ。

 瞳たちも何度か会ったことがあるのだが、夜風の弟はしっかり者の真面目くんで、礼儀正しく、誰よりも姉である夜風を尊敬している。姉弟とかいう血の繋がりよりも確かな信頼がこの姉弟の間にはあって、喧嘩の一つもしたことはないんだろうな、と密かに皆が思っていた。

 だが、そんなことは決してない。姉弟だろうが所詮は他人。最初から全てわかり合えるわけはない。ただ一度だけ、大喧嘩をしたと聞いたことがある。今夜風が見ているのはその映像だろうか。

「よかちゃん……? 俺のこと嫌いになった……?」

「五月蝿い! 話しかけるな!!」

 鷸成は夜風の言っている内容の意味を理解していない。そんな状態で妙に話が噛み合ってしまったものだから、ショックを受けている。夜風ほどではないが、鷸成とて夜風のことを慕っているのだ。それに「嫌い」と言われ、「話しかけるな」と邪険にされれば大いに傷つくことだろう。譬、それが夜風の本心でないとしても。

「もう私のことを姉ちゃんとか呼ぶんじゃない。お前が先に私を突き放したんだから、お前はお前でちゃんとけじめをつけろよ。私はもうお前のことなんか知らない」

「よかちゃん、俺は鷸成だよ。あの子じゃない」

 鷸成も夜風の発言を読み解いて気づいたらしい。けれど、それでも夜風の言葉に含まれた棘がちくちくと心に傷を増やしていく。

 それを嘲笑うように、妙に明瞭に、お知らせ音とアナウンスが響いた。

 ピンポンパンポーン。

「この列車は三号車が特別車両となっております。おやおや、間違えて四号車にお乗りになった方々がいるようですね。どうぞ、せいぜいお楽しみくださいませ」

 ピンポンパンポーン。

 嫌みったらしいその声と言葉遣いに瞳がこめかみに青筋を立てる。爽は慌ててそれを宥めた。

「瞳が怒ってもどうにもならないよ。僕らはここから出る方法を考えなくちゃ」

 夜風の説得はもちろん重要だが、それは夜風が最も信頼を置く鷸成に任せるのが一番いいだろう。夜風にとっても、鷸成にとっても。

 だとしたら、自分たちが今すべきはそれ以外のこと。幸いにして、一つ希望があることに爽は気づいていた。

「脱出といっても、時速何十キロで走っているかわからない列車から降りるのはどうやったって危険だ。そこで、なんだけど。三号車に行けないかな?」

 そこで瞳も思い出す。

 爽の過去が流された二号車での出来事だ。耐えられなくなった爽は二号車から三号車へ乗り移った。つまり、走行中に各車両を行き来することができるのだ。

 そして今一行がいるのは四号車。この列車の特別車両である三号車の隣である。これはまたとない好条件だ。隣の車両に移ればいいだけなのだから。

「なるほどぉ。さすが爽くんですわぁ。不正解の車両に乗っていたらどうなるかわかりませんが、正解の車両に移れば、なんとかなる可能性はなきにしもあらずですわぁ」

 どうなるかは全くわからないが、このまま四という不吉な番号を背負った車両に乗り続けているよりはだいぶましだろう。

 一つ、睦が懸念点を指摘した。

「もし、無事に三号車に行けたとして……三号車は箕輪さんの車両みたいだけど、大丈夫?」

 箕輪をちら、と見る。箕輪の表情は少しも揺らがない。

「言ったはずですぅ。私、自分の過去なんて、どうでもいいんですよぉ」

 瞳と爽は納得したが、睦は引っ掛かりを感じる。

 そんなこと、言われただろうか。それに、箕輪は本当に「どうでもいい」と思っているのだろうか。

 睦には瞳のような洞察力はないし、夜風のように感情臭を嗅げるわけでもない。ただただ勘が鋭い、という平凡でも済ませられる才能しかない。この直感能力に不便もしてきたが、助けられたこともある。

 睦の予想が正しければ、爽が当初に提唱していた「皆殺し」の語呂合わせは合っておらず、四ではなく三号車に行かなくてはならない。

 それは、三号車を出たときに抱いた、「箕輪の過去回想はこれで終わりでいいのか?」という疑問への答えにもなるような気がしてならないのだ。

 つまり、三号車に行くのは必要不可欠なことなのである。

 瞳と爽が支え合い、夜風と鷸成が助け合って成り立っているフェイスの中で、ただ一人、誰の手も借りずに立っている箕輪。睦は彼女の手を取るために、自分はここにいるんじゃないかと思っている。

 睦が考える一方で、瞳と爽は既に行動を開始しており、三号車に続く扉をがちゃがちゃとやっている。しかしすぐに二人の表情は芳しくなくなった。

「開かない」

「そんな!」

 それではここから脱出できないではないか。

「何か方法は……」

 睦が考える脇で、こてん、と箕輪が首を傾げた。

「私がやりますわぁ?」

 そう言ってゆらりと箕輪が持ち上げたのは、掛矢である。

「え、ちょ、待っ、箕輪さん!?」

「そぉれっ!」

 どこぉんっ。

 四号車から三号車へと向かう道が開けた。扉は開いていない。

 あろうことか、箕輪がぶん回した掛矢が、四号車と三号車に風穴を開けたのだ。

「嘘でしょ……」

 ギャグ漫画でもこんな滅茶苦茶なことはない。木製の掛矢が鉄製の扉をぶっ壊すなど。

「あら、何を不思議がっているんですかぁ? この列車は普通の列車ではなく、『幽霊列車』ですのよ?」

 はっと気づいた。そうだ。これは幽霊列車。つまり、この列車そのものが幽霊で、列車は霊体ということになる。

 箕輪は幽霊に触れる。だからこそ、幽霊に対する物理攻撃手段として掛矢を持ってもらっていた。その能力が今、遺憾なく発揮されたわけである。

 だが、絵面というものがある。見た目は木製の道具で鉄を砕いているのだから、ものすごい物理的法則への挑戦状みたいな感じになっている。

 箕輪は頭の回転が早いというより、自分にできると思ったら即実行というタイプだ。ちょっと怖い。

 それでも、道が開けたのは有難い。あとは夜風と鷸成を回収するのみだ。

 睦が振り返ると、夜風が鷸成の体を力いっぱい突き飛ばしていた。鷸成は突然のことに踏みとどまることができず、そのまま座席の角に頭をぶつける。座席はクッションのはずなのだが、がっとものすごい音がした。

 ばたり、と倒れる鷸成。血糊もどきが身体中についたせいで紛らわしいことになっている。

「あ、あああああああああああっ!!」

 夜風の絶叫が轟いた。

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