きーんこーんかーんこーん、きーんこーんかーんこーん、きーんこーんかーんこーん、きーんこーんかーんこーん……

 緊張の走る一同の鼓膜を揺らしたのは、どうにも間抜けな学校の鐘だった。

 場面は変わって、授業が全て終わり、放課後である。教室では真面目に黒板を掃除する睦には目もくれず、小学生らしく箒でチャンバラごっこをする男子たちがいた。不真面目な男子を絞った雑巾を握りしめて、女の子が一人、ぷりぷり怒っている。よくある光景だ。

 そんな日常の一ページの背景に溶け込むようにして睦は存在している。

 瞳は睦と初めて会ったときを思い出す。確か、図書室で本を探していたら、存外大きな声で呼ばれたのだ。真後ろにいてびっくりしたし、「図書室では静かに」と先生に怒られたことも印象に残っている。

 けれど、睦は無意味に大声を出したわけではなく、瞳が何度呼び掛けても気づかないから、仕方なく声を張ったそうな。

 第一印象はそれなりにインパクトのある出会いだったにも拘らず、「影が薄い」というものだった。爽も似たようなことを言っていた。だが、その影の薄さとは裏腹に、厄介事の持ち込み頻度は尋常じゃなかった。それに予言めいたこともよく言って、周囲を混乱させていた。

 睦のそういうところに次第に慣れてきて、瞳は「影が薄い」とは思わなくなった。「どこにでもいそうなやつだが驚くほど幸薄い」というのが今の印象だ。影の薄さより幸の薄さの方を気にかけた方がいいだろう。

「なぁ、みんなは鹿谷のこと、影が薄いと思うか?」

 瞳からの質問に、各々が答える。

「全然! むっちゃんいつもどっくんどっくん言ってて五月蝿いもの」

 おそらく、鼓動のことだろう。睦は肝が据わっていないため、大抵物事に立ち向かうときは緊張している。自分が予測したことにさえ、信用を置けないでいる。おそらく、思ったことをそのまま言い過ぎて、言ったことを当てすぎて、不気味に見られたことがあるのだろう。そのようなことを本人も言っていた。それが事件の引き金になることすらあった。

 迷惑をかけないように、常に言葉を選びながら、けれど自分の選んだ言葉を信用できず、緊張しながら生きている。それが鷸成には音で伝わっているのだ。

 一方、爽は首をひねる。

「睦くんは気配が曖昧だよ。目の前にいても、本当にそこにいるのかあやふやだなぁ」

 爽は空気の微かな揺らぎだけで、誰が何歩歩いた、とか背を向けていても当てるほどの触覚を持つ。空気の変化には敏感で、それが天気予報にも繋がっている。

 そんな爽が「睦が動いてもわからない」という。これは影が薄いことの裏付けというより、睦は自分の所作にまで、細心の注意を払っているということだろう。

 夜風も同意する。

「近くにいれば、鹿谷だとわかる。だが、人混みに紛れたら見失う自信しかないな。あいつはあまりにも『普通』の匂いしかしない」

 無論、鷸成が示した通り、不安を抱える感情臭は周りより少し強いという。だが、それは同年代と比べて違うだけで、受験や就職を控えた者たちとは大差ない。

 それは不安の根本が「これからも普通に生きていけるだろうか?」という誰もが抱く未来への懸念だからだ。

 そこに、箕輪が割って入った。

「別に、むっくんを影が薄いと思ったことはありませんわ。美味しそうって思ったことはありますがぁ」

 箕輪の発言に一同がさっと青ざめる。こいつは生身の人間をも食糧として見ているのか、と引いた。

 箕輪もそれはわかっていたようで、補足する。

「もちろん、『食べたい』という意味ではありませんわぁ。私が思ったのは、『幽霊に抱くみたいな印象』です」

「……というと?」

 箕輪の発言は意味不明と捨て置くには意味深だった。

「『幽霊みたいな生きている人間』──幽霊からしたら、さぞや羨ましいことだろうなぁ。私が幽霊だったら、食べて成り代わるくらいは考えそうだなぁって思うんです」

 箕輪の発言に、瞳は目を見開いた。

 箕輪が今語った、「私が幽霊なら」の下り、これこそが今回の事件が起こった原因ではないだろうか。幽霊から見たら、自分たちと似たような存在なのに命があるのは羨ましい。未練のある霊ならば、取り憑いて未練を晴らそうとするくらい、当たり前なのではないだろうか。

 ティアちゃんは勝手な理由で大人に殺された。若くして命を落とした彼女に何の未練もない、という方が難しいだろう。

 それなら、一刻も早く、この過去から解放しなくては。

 しかし──

 これまで見てきた睦の過去で、トラウマになりそうなレベルのことは起こっていない。

 では一体、睦を何から救えばいいのだろうか。

 ふと、睦の方に目を戻すと、睦は黒板消しを掃除するためだろう、ベランダに向かっていた。黒板消しクリーナーのようなものが教卓の脇にあったが、ほとんど当てにならないのは瞳たちも経験則で知っていた。

 故に、黒板掃除をした者は黒板消しを二つ持って、外でぱふぱふとやるのが恒例だ。睦もその通りの行動を取り──噎せる。風向きが悪かったようだ。

 カーディガンを様々な色に汚して、ベランダから帰ってくる。はあ、としょぼくれる睦。小学生では風向きの問題など念頭に入れられなくて仕方ないだろう。

 ところがさすがは薄幸少年。災難はその程度では済まなかった。

 チャンバラごっこをしていた男の子たちとそれを窘めていた女の子の喧嘩はヒートアップし、男子の持っていた箒の持ち手の先が睦の腹に突き刺さる。呻いて蹲った睦のことを男子も女子もまるでそこにいないかのように気にも留めない。

 文句も言えず、クリーンヒットだった痛みに蹲っていると、更に災難は続いた。適当に置いてあった雑巾を洗うためのバケツが蹴飛ばされ、その中の汚水がばしゃあと睦に降りかかる大惨事。頭からひっかぶる羽目になった睦は思い切り噎せた。

 そこへ廊下で掃除をしていた女子が乱入。ちっとも掃除の進んでいない教室の惨状、というかむしろ散らかっている状況に今度はその子が怒り始める。

 水浸しの床を示して彼女は言い放った。

「あんたらちょっとは周り見なさいよ。あんたらが暴れたせいで、バケツがひっくり返って、水浸しじゃない!」

 睦が目を見開く。

 この女子も、一番の被害者である睦のことを一切見ていなかった。というか、気づいていないようだった。転校生とはいえ、クラスメイトであるはずの睦に。

「……いつものことだ」

 睦は小さく、そう呟いた。

 けれど、表情は諦め、というには歯を食い縛って、悔しそうに見える。悲しそうにも、切なそうにも。

 びしょ濡れのカーディガンを脱いで、ベランダで少し絞った。幸いなのは、かかった水がカーディガンだけ吸い込んだことだろう。他も多少濡れてはいたが、我慢できるレベルだ。……睦はそう思うことにした。

 帰りの会。少しでも乾けば、と思って、使用用途のわからないハンガーにカーディガンをかけてベランダの外に置いておいた。それに気づいた担任が児童たちに問いかける。

「誰だ? 勝手にハンガー使ってるのは」

「あ、それ、僕のです」

 睦がおずおずと手を挙げて名乗り出るが、担任は教室を見回し、それからはあ、と大きな溜め息を吐いた。

「誰のものか名乗り出ないなら、捨てるぞ」

「えっ……!?」

 気づけば睦はガタン、と音を立てて立ち上がっていた。椅子が物々しい音を立てて倒れるのが、やけに谺した。

「どうした? えーと、鹿谷」

「どうしたも何も、それは僕のですってさっきから……」

 さすがの睦も怒ったように声を荒らげる。すると、教室がざわめいた。

「そういえば、あの子毎日着てるカーディガンじゃない?」「えー、毎日はないでしょ」「でもなんかすごい汚れてるよ」「ってかあいつ誰だっけ?」

 ──などなど。

 誰も、睦のことなんか、ちゃんと見ていなかった。汚れが水っぽく、最近ついたものだということさえ気づかなかった。それは睦は大抵カーディガンを着ているが、毎日同じカーディガンではないし、今日のは滅多に着てこないお気に入りだ。

 何故、みんなは自分を認識してくれないのだろう? いつの間にかいた赤の他人みたいな扱いをするのだろう?

 それが悲しくて仕方なかった。一所懸命掃除した黒板も、誰も気づいてくれない。睦はただただ悪意のない「空気扱い」に晒されて、堪らなくなって、担任からカーディガンを奪い、ランドセルを肩に引っかけて、外に飛び出した。

 そのまま、逃げるように家に帰る。

 あまり運動は得意ではないと聞くのに、その走りは懸命で見ているこっちが胸が張り裂けそうになるほどだった。

 家の前でおたおたと鍵を開け、中に入る。部屋でランドセルを下ろし、クローゼットからハンガーを引っ張り出してカーディガンをかけて窓の方に干す。

 ふう、とベッドに倒れ伏す。少し濡れた服が気持ち悪かったのか、もそもそと着替え始める。

 瞳と夜風が箕輪の手を引いて後ろを向く。箕輪は「あら?」とよくわかっていないようで、残る男子陣も苦笑いした。

 睦の着替えはすぐ終わり、ぱたりとベッドに再び倒れる。泣きそうな表情で天井をしばらく見た後、思い立ったように着替えた服を持って部屋を出る。

 脱衣所に置かれた洗濯機に服と洗剤を放り込んで、洗濯機を回した。小学校低学年だというのに、しっかりしている。

 それから、リビングに向かい、姉にただいま、と告げるが、姉は曖昧に答え、テレビに見入っている。

 睦は台所に向かい、マグカップに冷蔵庫から出した牛乳を注いだ。それをレンジで温めて、リビングへ向かう。

 姉の隣に座ると、姉がぎょっとした。

「あんた、いたの?」

「え?」

 さっき、ただいまと言ったじゃないか。おざなりだけど、それに答えたじゃないか。

 なんで、どうして、なんで、どうして?

 睦はホットミルクを置き去りに、部屋へ戻った。

「なんで、なんでみんな気づいてくれないの? なんで僕はいないものみたいに扱われなきゃならないの? なんで、なんで!?」

 睦の慟哭が谺すると、辺りが花びらのようにさらさらと散っていく。青い小さな花だ。真ん中が丸く白い。

 ──勿忘草。

 今の睦の心情を如実に表した花だ。

 泣き伏す睦は、もう現在の姿に変わり、蹲って泣いている。

 そこで、あれが来た。

 ピルルルルルッ、ピルルルルルッ、ピルルルルルッ……

 箕輪が落ち着いた様子で電話に出る。

「はい」

「アイシテミル?」

 電話は言いたいことだけ言ってぶつっと切れたが、箕輪はにっこり応じた。

「もちろんですとも」

 すると、箕輪は睦に歩み寄った。

「むっくん、もう大丈夫ですよ」

「何、が?」

 随分泣いたので、睦は鼻声だ。箕輪がやんわりと告げる。

「お忘れですか? フェイスはあなたの味方ですよ?」

「依頼のときだけ、でしょ」

「いいえ」

 下を向いたままの睦の両頬を持ち上げ、自分と目を合わせさせる。

「言ったじゃないですか。あなたは私の友達ですよ? むっくんは違うんですか?」

 友達……そうだ。箕輪はいつだって睦の悩み事を「友達ですから」と真摯に聞いてくれた。睦がなあなあに流していただけで、ずっと箕輪は睦の味方だし、友達なのだ。

「箕輪さん……ありがとう」

 睦が箕輪に笑いかけたところで、辺りが明るくなっていき、元のグリーン車に戻る。

 列車はゆったり速度を緩めていた。

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