う
オギャアオギャアオギャアオギャアオギャアオギャアオギャアオギャアオギャアオギャア……
気づくと、そこは病院だった。おそらくは産婦人科。絶え間なく、赤ん坊の泣き声が聞こえる。
「おめでとうございます!! 元気な男の子ですよ」
おくるみに赤ん坊を包んで、やってきたのは看護師だ。看護師が話しかけている相手は、ベッドに伏す鷸成の母とその旦那であろう人物だ。
「おおおおおおっ、よかったなぁ」
よかったよかった、と半ばはしゃぎながら喜ぶ父親の様子はどこか鷸成に似ていた。なんとかは争えないというやつである。
「お母さんはしばらく安静になさってください。お父さん、抱っこしてみますか?」
「えっ」
看護師からの提案におろおろする父親。妻の顔を見る。すると、二児の母親になった女性はたおやかに笑んだ。
「ふふ、私は後でいくらでも抱っこできるもの。先に新しい息子の顔をきちんと眺めなさいな、恥ずかしがり屋さん」
その言葉に、赤子に引けを取らず、顔を真っ赤にした父親は、恐る恐るといった感じで看護師から息子を受け取る。
「顔がくしゃくしゃだなぁ。それに真っ赤だ」
「そりゃ、赤ん坊ですもの。それにあなた、鷸成のときも同じこと言ってたわよ」
妻からの指摘に更に顔を赤らめる夫。赤面症なのだろうか。それとも奥さんの指摘通り恥ずかしがり屋なのだろうか。二人目の子どもだというのに初々しい。
母親はもう一人の息子に思いを馳せてくすりと笑う。
「鷸成も『俺兄ちゃんになるんだ!』ってすごく喜んでいたから、顔を見せるのが楽しみね」
「ああ、そうだな」
父親も優しく微笑む。
明けっぴろげで真っ直ぐで素直な息子は弟の誕生をとても喜ぶことだろう。お兄さんになるということを意識して、最近はとてもいい子にしているらしい。
母親がお産のため入院している間、家事手伝いを頑張っていた鷸成の様子を父親が語って聞かせる。母親はまあ、と感心したようで、笑みを更に深くしていた。
「鷸成はきっと、いいお兄ちゃんになるよ」
「ええ、間違いないわ」
平和そのものの風景に、見ていた五人は目を細める。
「懐かしいな。私の弟が産まれたときも、うちの両親はこんな会話をしていたのだろうか……」
「僕が産まれたときは姉が高い高いしまくってぶんぶん振り回して怒られたそうですよ」
感慨に耽る夜風の横で、睦が遠い目をする。彼は赤子のときから姉に振り回される運命にあったらしい。南無三である。
瞳は兄弟がいないので、新鮮な気持ちでその光景を眺めていた。現在瞳は中学二年生である。両親は四十代。これから子どもが産まれる可能性は低いので、少し羨ましいというか。弟や妹がいるんじゃないか、と噂をされているが、その噂が本当だったらな、とつくづく思っている。
鷸成や夜風は兄弟仲がいいらしく、弟に対するのろけを聞くのはわりと日常茶飯事で、瞳は兄弟がいないなりに憧れていたりもした。まあ、兄弟仲が真逆なまでに悪いのに挟まれた爽の前では口にできなかったが。
そんな爽を覗いてみると、口にこそ出さないものの、顔に「いいなぁ」と書いてあった。さすがに産まれたときまで軋轢があったとは考えたくないが、もしかしたらあったのかもしれない。
箕輪は……いつも通り、にこにこしている。微笑ましく思っているのか、やはりただの作り笑いなのか。箕輪の映写機で見た映像と箕輪から語られた凄惨な過去を思うと、なんとも言えない気持ちになる。
「同性の兄弟はいいですねぇ」
そんな箕輪から、こんな言葉が飛び出して、瞳は若干驚いた。それから思い出す。箕輪には確か、双子の姉がいたのだ。他にも何人かいたが死んでいて、双子の姉とだけ手を取り合って生き、仲睦まじそうにしていた。家庭環境はどうあれ、姉と過ごす時間は楽しかったのだろう。
まあ、悪反応が少なくてよかった。と胸を撫で下ろす一方、鷸成はどこだ? となる。これは鷸成の過去で……
ああ、鷸成の過去だからといって、鷸成が主人公とは限らない、ということか。これまでも、箕輪のときは箕輪が階段から降りていくまで箕輪視点ではなかったし、旅館に爽が遊びに来たところなどは爽視点ではなかった。映写機はあくまで「過去」を映すもので、「記憶」を映すものではないのだ。
我々は傍観者であり、この過去から鷸成をトラウマから救い出す糸口を見つけねばならない。まだこんなに平和なので、何が鷸成のトラウマになったか、想像もつかないのだが。
「そういえば鷸成、腕立て伏せとかやってたなぁ」
「あら、普段運動をする子じゃないじゃない。元気に保育園では走り回ってるみたいだけど」
それがな、とくすり、と笑い、看護師に子どもを預けた父親が母親に耳打ちする。
「兄弟が産まれたら抱っこしたいってさ。だから、赤ちゃんって言っても、わりと重いぞーって言ったら、腕立て伏せ始めた。まあ、ほとんどできてないんだけど」
「まあ」
幼い鷸成はまだ四歳くらいに見えた。元々小柄な方ではあるし、より小さく見えた。父親の言う赤ん坊が重いは決して冗談ではなく、大人でも、最初は抱えるときの力加減に苦労するものだ。
それで腕立て伏せを始めるという涙ぐましい努力。普段は夜風にべたべた甘えているところばかり見ているが、ちゃんとお兄ちゃんしているのだなぁ、と一同は感心した。
場面は変わって、病院のロビーになる。そこで静かにソファに腰掛けていた赤髪の男の子がいた。父親の姿を確認し、ヘッドフォンを外して、ててて、と駆け寄る。
「こーら、病院で走るんじゃない」
「産まれた? 産まれた?」
「ああ、弟だぞ。今日から鷸成お兄ちゃんだな」
病院で大声を出してはいけないと思ったのか、「やった~」と口パクで喜び、万歳する鷸成。微笑ましいお兄ちゃんの頭を父親はわしわしと撫でた。
「抱っこできる?」
「うーん、首が据わったらかなぁ」
「首って座るの?」
鷸成らしいお馬鹿な質問である。だが、未就学児なら「首が据わる」の意味を知らないのも無理はない。
「顔を見に行くだけならOKだって看護師さん言ってたから、後で弟の顔を覗きに行こうな」
「うん!」
溌剌とした元気は見てきた中で一番だったと思う。
場面はまた変わる。先に見た家の中に母親と鷸成と生まれたばかりの赤ん坊の姿があった。鷸成は興味津々といった感じで、ずっとベビーベッドを覗いている。
「いーつーなーりー、ずっと覗き込んでるだけじゃ、何も起こらないわよ」
「ねぇ、抱っこしたい~」
「駄目よ、首が据わるまでは」
「首っていつ座るの~?」
うーん、と母親が少し悩んでから答える。
「そうねぇ、生まれてから一ヶ月だから、あと二ヶ月から三ヶ月くらいしたらかしら」
「え~今まで待ったより待つの~? 意地悪~」
「意地悪じゃなくて、健康のためよ」
でも~、とむずがりながら鷸成はじーっと弟をを眺める。どこか恨めしそうに。
「首座れ~、首座れ~」
「そんなに抱っこしたいなら、お母さんと一緒ならいいわよ?」
「ほんと!?」
ようやく許可が出て、鷸成は目を輝かせる。このまま放置して欲求を募らせて、一人で勝手にやられるよりはずっといい。万が一事故があっても保護者がいるなら。
そう思って母親は、ベビーベッドから小さな赤ん坊を抱き上げた。それから、こっちにいらっしゃい、と鷸成をソファの方へ招く。
「お母さんの真似っこして、手を当ててみて」
「こう?」
「もうちょっと体を寄せて。すると抱っこしやすいから」
小さな体で、鷸成は一所懸命頑張る。肘にまだ据わっていない頭を乗せるようにして抱え、足の方からも抱え込み、両手でしっかり抱える。
母親は覚束ない手つきが少し心配で、そっと支えていた。それに鷸成はむっとする。
「一人でできるもん!」
と、母の手から逃れる。
ぷるぷる震えてこそいたが、なんとか赤子を支えている。自分の体にぎゅっと引き寄せているから、思うより不安はないのかもしれない。とはいえ、母親は不安そうだ。
そのとき。
「うぎゃああああああああっ」
「!?」
突然の泣き声に鷸成は動揺する。間近で響いた赤ん坊の泣き声は、鷸成の耳にはどう聞こえただろうか。
なんて、鷸成はそれどころではなく、ぼとりと。
──ぼとりと、赤ん坊を落とした。
期せずして、赤ん坊が泣き止む。いち早く異常に気づいた母親が、ショックを受ける鷸成はさておき、病院に慌てて電話をする。
鷸成は呆然としていた。無理もない。誰より鷸成が、この状況をわかっていた。柔らかい骨の折れる音、泣き声が止んだというより息をしていない弟、血流がゆっくりとなり、鼓動が小さく聞こえる。
ただ落としただけ。大人の膝くらいの高さから。けれど、それだけで生まれたばかりの子どもの命など簡単に失われる。そのことに気づかされた瞬間だった。
だとすれば、自分は。今、そんな赤ん坊を落としてしました自分は。人殺しに等しいことをしてしまった。しかも、待ち望んでいたはずの弟を、この手で。
生まれたばかりの子どもに何の罪があるというのか。鷸成は泣き声に驚いた。だが、赤子が泣くのは当たり前のことだ。そんなことで、自分は弟を。
声に驚いても、手は放すべきではなかった。
「う、あ……」
声にならない悲鳴と絶望。耳がいいからこそ知っている。泣いて喚いてどうにかなることではない。けれど、自分にできることがない。
ふと、瞳が疑問に思う。
「鷸成の兄弟が死んだという話は聞いたことがないが?」
「そうですね、私も聞いたことはありません」
こういう場合の死亡事件はニュースになっていても不思議ではないと思うのだが。子どもの不注意は親の不注意ということで非難轟々になり、鷸成の肩身は狭くなったにちがいない。
つまり、死んでいないということか。
夜風が証言する。
「鷸成には四つくらい年の離れた弟がいたはずだ。死んではいない」
だが、これがトラウマになるのも頷ける。赤ん坊を落とす。それはわかりやすくいけないことだ。
辺りが暗転し、声のない叫びを上げて蹲った鷸成は今の鷸成になっていた。
蹲る鷸成に夜風が歩み寄る。
「鷸成……」
「寄らないで!!」
鷸成が出すとは思えない大きな声が暗闇の中に谺する。
「鷸成……」
「寄らないで。俺はよかちゃんのこと好きだから、甘えちゃうから」
俺は、俺は、と続ける。
「どんなに完治しようとなんだろうと、俺は弟を殺しかけた、その事実は変わらないし、なくならない。だからね、甘えちゃいけないんだ。本当は日々懺悔しながら生きていかなくちゃいけない。でも苦しいから笑ってる。みんなが心配するから、笑わなくちゃ。笑ってなくちゃ。でも、でも俺は」
消え入るような声で続ける。
「責任を取らなくちゃ……」
がり、と爪の先が手首の皮を抉る。微かに血が滲む。かりかり、かりかり、と。
左手首では飽きたらず、右手首もかりかりと削る。それは、リストカットよりも傷が痛々しい。
そのとき、耳をつんざくような着信音がした。夜風が取ると、しん、と止む。
電話口から声が聞こえる。
「アイシテミル?」
夜風がふと笑う。そういうことか、と。
夜風はふわりと鷸成を抱きしめた。
「何が駄目なんだ?」
「よかちゃん……?」
夜風が優しく言う。
「甘えていいんだよ。責任を感じるのは偉い。けれど、周りのみんなまでお前を責めてはいない。第一、その弟だって、責めてないんじゃないか?」
「でも!」
それでも。確かに、赤ん坊の弟を落としてしまったという過去は消えない。それはこの先ずっと、鷸成の心を抉り続けるだけだろう。むしろ、今は元気にしているからこそ、本人からも、誰からも責められないからこそ、鷸成はつらいのかもしれない。
だからって、夜風が責めることでもない。みんな許しているのに苦しみ続けるなんて、傲慢で、哀れだ。
だからこそ、抱きしめる。
「誰が責めても、私がお前を守る。お前が自分を傷つけるのだというなら、私がそうできないように、ずっと抱きしめ続けてやる」
恥ずかしい台詞をさらりという夜風。だが、睦には、それが「姉弟」としての絆に見えた。他もそうだった。
血の繋がりはなくとも、絆は存在できるのだ。
鷸成がはは、と乾いた笑いをこぼす。
「よかちゃんずるいよ……」
ぎゅ、と鷸成は抱きしめ返す。
「よかちゃんに抱きしめられたら、甘えちゃうよ。甘えるしか、できないじゃん」
「鷸成は私の弟みたいなものだろう? 私に甘えるのは当たり前じゃないか」
「もう~……子ども扱いして~……」
鷸成は夜風の胸に顔を埋める。夜風がその頭を撫でていると、徐々に周囲が元のグリーン車に戻っていく。
列車の揺れが、緩んできた。
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